漣宗也は最近、高性能のビデオカメラを購入したらしい
私は伯理に優しい。
私はこの漣家で唯一、彼を気にかけてあげている。
理想にそぐわぬからと見放したお父様、落ちこぼれだからと見下す兄弟達、面白がったり憂さ晴らしで暴力を振るう者たち。
そして……。
「今日はピーラー? 流石にそれは駄目だ。二度とそのピーラー調理に使って欲しくないんだけど」
「また失くしたって言ってたから大丈夫だと思う」
「余計やだ。気付かずに使いそうじゃん」
甚振ることを愛情表現だと宣ってはキュートアグレッションを振りかざす漣家次期当主、漣宗也様。
まあ、彼もその行いは伯理を気にかけてあげているつもりなのかもしれないが、それは自分の欲を満たす一方通行の感情の押し付けであるのが現状だ……私も人のことは言えないのだけれど。
私は先程、宗也様から『可愛がられて』いた伯理を庇い、今はその傷を手当てしている。あーあ、皮膚がズタボロではないか。範囲が広いから化膿したら面倒だぞ。
「沁みるよ。声は我慢しなね」
「う……」
「声出して宗也様に聞かれて余計な知識与えたら、これからの手当ては私じゃなくて宗也様が自分でやるとか言い出しかねないからね」
「エ」
「消毒液ぶしゃあってされるからね」
「ハイ」
それにしても宗也様もよくやるわ。レンチで殴ったりペンチで爪剥いだりもドン引きしたけれど……流石に縄跳びの時は肝が冷えた。背中を力強く叩きまくり背中全体をみみず腫れだらけにしたのもそうだけれど、それに加えて腕を思いきり縛っていた。
あのまま放置していたら血液が流れなくなって腕が壊死していたかもしれない。やりすぎだよ。
「はい、おしまい」
私はそんなことを考えながら、包帯を巻き終える。伯理は相変わらず申し訳なさそうだ。
「今日はお風呂上がったら自分で巻いてみる? こうならないのが一番だけれど、私だっていつでも手当てしてあげられるわけじゃないし練習も必要でしょ」
「……そうしようかな。ヒビキは濤だし、多忙だから」
「じゃあ、お風呂上がったら私の部屋においで。見ててあげる」
そう言いながら私は包帯やら鋏やらをテキパキ片付け、パタムと救急箱を閉じる。
その後すぐに伯理が口を開きかけたのを横目で捉えたので、私はそれに人差し指を押しあててキャンセルした……大方「ありがとう」だとか言うつもりだったのだろう。
「やめなさい」
「んっ……ご、ごめんなさい」
「謝る必要もない」
私は伯理に優しい。
私はこの漣家で唯一、彼を気にかけてあげている。
でも、その動機は決して慈愛だとか、同情だとか……そんな高尚な精神のもとで動いてなどいない。それどころかもっと、もっと薄汚れた感情のものだ。
「感謝も謝罪も私には相応しくないの。私は伯理のコレを利用してるんだから」
「……うん」
伯理を庇ってあげれば私は宗也様との接点が増える。私は濤なのだから、他の人より彼と接すること自体は比較的多い方ではあるが、機会はあればあるほど私には都合が良い。
嗚呼、さっきも私に対して力強い視線を送ってくれた。それがたとえ『邪魔をするな』という嫌悪だったとしても、無関心でいられるよりよっぽど満たされてしまう。
そんな自分の浅ましさに反吐が出るが、今更この立場を譲りたいとも思えない。
「私は伯理と違って可愛くなくなったから、ね」
チラリと私は伯理を……いや、伯理に巻いてあげた包帯に視線を移す。
彼を無駄に嫌な気分を味合わせてしまうことは分かっているので口に出すことはないが、その包帯の下に隠れている醜い皮膚の一部でも分けてもらえるのなら、私はきっと歓喜にうち震えてしまうのだろう。
宗也様に『可愛い』と思ってもらえた証。出来れば一部どころか全部欲しい。
そんなことを考えてしまうところまで来てしまっているのだから、救いようがない。それに、たとえ救われたとして……その結果、この想いを失ってしまうことになるのなら私は一生救われなくたっていい。
どんなにみっともないものだったとしても、この恋心を手放すくらいなら虚しさの海で溺死したほうがマシだ。
「はぁあー……需要と供給が一致してないんだよなぁ……」
私はそんな言葉を一つ零し、自室へと足を進めた。
*
私の名前は枇々木汐織。漣家の濤に所属していながら『漣』の苗字を持ち合わせていない特異な存在。
別に嫌われているだとか、弾かれているわけじゃない。漣家の人間になったあの日……私自身が『漣』という名を持つことを拒んだのだ。
「……いつになったら私は『ヒビキ』を捨てるんだろうな」
私は自室で頬杖を付きながらそんなことをポツリと呟く。
お風呂も歯磨きも、その他の身支度を済ませて後は眠るだけ……しかしながら、就眠時間にはまだ早すぎる時間だったせいか、そんな気にもなれずついついと昔のことに想いを馳せてしまう。
私はそもそも漣家からかなり遠縁の人間であり、彼らとはなんの関係もないはずの一般家庭で育つ普通の少女だった。
しかし、運命は残酷と言うべきか……私はある日、漣家相伝の妖術『威葬』の習得に成功してしまったのだ。所謂、隔世遺伝と呼ばれるものなのだろう。
私が妖術を扱えると知った時、両親は私のことをそれはそれは厳しく怒鳴りつけた……「その力は二度と使うな、口外もするな」と。
それは私の身を心配するようなものではない。私のような異質な存在がいるという事実を知られて自分達に害が及ばないようにする為だ。そういう両親の卑しい本心は、私を見る忌避の目がよく物語っていた。
しかし、秘密というのは不思議だ。どんなに厳重に蓋をしても、中に隠されているものはその重しを跳ね除け、外へと飛び出していってしまうらしい……『威葬』を扱えるようになってから数年後に、私という存在は漣家に露呈してしまったのだ。
勿論、彼らはすぐに枇々木家に声をかけた。内容を要約すると『お前らの娘が妖術を扱えることは分かっている。金はやるからその娘の身柄を引き渡せ』といったところか。
そんな横暴な話、普通ならば拒むところだろう……しかし、私の両親はあっさりと、まだ十二歳になったばかりの娘を漣家に捧げてしまった。
その時の私の両親への失望は筆舌に尽くし難いものだった。生まれてからそれまで共に暮らしてきた家族に見放された……その悲しみよりも『こんなにも汚い大人と同じ血が私にも流れている』という事実の方が、ひたすらに恥ずかしかったことをよく覚えている。
流石に漣家に来た初日、私は悲しくて悲しくて三日三晩泣いてしまった。私を金で買った漣家のことは信用ならないし嫌いだと思ったが……私の両親への憎悪はそれとは比較にならないだろう。
そういった経緯があったせいか、私は一時的に全ての大人に対して並々ならぬ不信感を覚えるようになってしまった。
勿論、漣家当主である京羅様だって例外ではない。だから当時の私は京羅様の養女になることを拒み、親子関係を結ぶことはなかった。
しかし、私が漣家の人間として生きていくのは、最早抗えない運命だというのも事実。それならば、と私は京羅様にこう申し出た。
私を『漣汐織』ではなく『枇々木汐織』のままでいさせてほしい。そして、私のことは汐織ではなく『ヒビキ』と呼んで欲しいと。そうしてくれるのであれば、私は一生漣家に尽くすため鍛錬に励み、彼らと家族のように接して生きていく……それが私にできた、せめてもの反抗である。
私の要望に対し、最初こそ難しい顔をしていた京羅様だったが、しばらく考えた後に「いいだろう」と言い、それを呑んでくれた。
だから、私は自己紹介の時に『ヒビキ』としか名乗らなかった。本来なら苗字であるはずだが、絶妙に名前とも取れる『ヒビキ』という愛称は割と馴染んでいたし、不審に思うものは誰もいなかった。隠している、というわけではないのだが……私の本名を知る者はきっと少ないのだろう。
そして、親子ではなかったとしても私は京羅様を『お父様』と呼ぶようにした。他の者たちに無駄な不信感を与えてしまうのは良くないし、家族のように接するというのも自分から言い出したことだ。お父様以外の漣家の兄弟達とだって諍いのないよう丁重に、されども壁を作らぬよう適度に気安く……漣家に尽くす戦士として侮れぬように努力も怠らなかった。郷に入っては郷に従え、といったところか。
「……」
だけど……。
最初は、確かに嫌いだったはずなのだ。この漣家のことは。
それでも、まるで本物の家族のように振る舞っていくうちに、私はだんだんと彼らに気を許すようになっていった……我ながらなんと流されやすいのだろうか、と呆れさえ覚えたくらい。
しかし、意外なことに漣家の家族間の仲は存外悪くないように見えたし、実際彼らの間には確かに絆があったのだろう。
きっと、冷酷無比な一族だと思っていたのに……漣家の関係は、私が元々暮らしていた枇々木家よりよっぽど暖かかった。
彼らと切磋琢磨しながら過ごすこの生活は、元の生活より幾分と空気が美味しいもので……私は暫くしないうちに、枇々木などより漣の方がずっとずっと好きだと思うようになってしまった。
だけど、私は枇々木汐織。枇々木汐織なのだ。
私の心はとっくに『漣』に傾き倒れているというのに、それでも私は未だに『ヒビキ』を捨てられずにいた。
その理由は……。
*
――コンコンコンコン。
私がしんみりしていると、扉の方から突然ノック音が四回。
「ヒビキ、風呂上がったけど……」
伯理の声だ。ああ、そういえばお風呂から上がったら此方に来いと言っておいたっけ。
私は「はーい」と返し、彼を自室に入れるために扉を開けた。
「……あ、天理」
「え?」
しかし、その場には伯理だけではなく天理までいた……正確に言えば、伯理は扉の目の前にいて、天理はその廊下の角にいたのだが。
なんだか、表情が険しい。遅れて天理に気付いた伯理も、こちらを訝しむような鋭い視線に肩をびくつかせている。
天理は一体何が気に入らないのだろう。私が小首を傾げると、天理はそれに苛ついたのか、更に眉間に皺を寄せ、ずんずんとこちらに歩み寄ってきた。その足取りからは若干の怒気も感じ取れる。
「な、なに……?」
「お前ら、いい加減にしろ」
「は?」
その言葉だけで私は「ああ『あの噂』のことを言っているのか」と天理がこちらを睨む理由を察した。
伯理の方は何のことかさっぱり分かっていないようだったが、きっと知らないのだろう。
「別に何もやましいことないよ」
「事実なんてどっちでもいい。ただ、疑われるような真似を控えろと言っているんだ」
「ごめん、以後気をつけます。でも、ここでもだもだ言い合いして宗也様に見つかったらそれこそ厄介だから今は見逃して」
「……」
「ほら、これ伯理の怪我。これを診てあげるだけ。本当にそれだけしたら伯理は部屋に返すって」
「っち」
天理は舌打ちだけを残し、その場を去っていった。いつも通りとんがってるなぁ……彼らしいけれど。
「え、何さっきの。俺、なんかまずいことしてる?」
そして、やはりと言うべきか、私達の話がなんのことなのか、伯理は全くピンときてないようだ。
「……ほら、私は濤じゃん?」
もしも、伯理が『あの噂』の存在を知ったら、きっと彼は私に遠慮するようになるのだろう。「事実無根なのだから気にするな」と言ったところで、私を避けるようになるのは明白だ。
そうなると、私は正直困ってしまう。伯理には申し訳ないが、ここは誤魔化させてもらおう。
「濤のメンバー以外に過剰に肩入れしすぎるのは示しがつかないだろって、天理は言ってるの」
「あ、なるほど……?」
「だから、私がいない時でも伯理は一人でも包帯を巻けるように……」
その時、私は確かに見た。廊下の曲がり角から……結われた銀髪の前髪が一房、揺れていたところを。
「……なるまでここ出ちゃ駄目だからねぇっ⁉︎」
「え、んむぐっ……!」
私は急いで伯理の口を両手で塞ぎ自室の中へ投げ飛ばした。彼がきちんとベッドへ沈んだのを確認しつつバタムと勢いよく扉を閉める。
や、やばい。曲がり角越し且つチラッとしか見えなかったけど、あの髪は……絶対にあの人だ。
「……お前、今何した」
廊下の角を曲がりきったあの人が、扉に張り付いたままの私の背中に声をかけた。その声色は静かなものではあったが、隠しきれない怒気を確実に孕んでいる。
その迫力に押され私は返事をすることも、振り返ることも出来なかった。しかし、そんな私の様子を『無視された』と勘違いしたのだろう……あちらは無言のままだというのに、急に廊下の空気が氷点下に達したことを肌で感じ取れた。どす、どすという足音はそのまま廊下を踏み抜きそうになる程に重い。
ああ、分かる。私のすぐ背後に立った身体の大きいこの人の視線が私のつむじに落とされていることが。きっと日本刀よりも遥かに鋭いそれで、私を刺し殺さんばかりである。
「おい、ヒビキ」
真面目に生命の危機を覚えている私の名を彼が呼ぶ。さっきとは比べ物にはならないくらい……それこそまるで地を這うような低い声。
これは本当にヤバいと、生存本能が全力で警鐘を鳴らしてくれたお陰だろうか。硬直していた私は、漸く口を開くことが出来た。
「……そ、宗也、様」
後ろを振り返ることは相変わらず出来ない。それは恐怖によるものではなく、今ここで少しでも隙を見せたら、自室の扉を無理やり開けられてしまう可能性があるからだ。そんなものは、確実に潰しておきたい。
扉の向こうへ押し込んだ伯理と、後ろにいる形容し難いナニカに変貌を遂げているであろう漣家次期当主様が鉢合わせることになってしまえば……うん、それはもう目に見えて火に油。
「お前、何した」
「と、くに何も」
「お前今何してた」
「ですから、何も」
「何した。お前、俺の弟に何してた」
や、やべぇ。これは本当にやべぇ。何一つ聞き入れてくれない。これ、下手に誤魔化そうものなら、今度こそ伯理は殺されるかもしれない。
他の濤のメンバーは『あの噂』を全くの出鱈目だと思っているに違いないが……はたして、宗也様はどうだろうか。
「……私が伯理をここに呼びつけました」
私は観念して白状することにした。もしも彼が『あの噂』を信じていた場合、隠そうとすればするだけ余計な不信感を抱かせるだけ、と思っての判断だ。
宗也様はグゥッと背を屈ませ「へぇ」とだけ溢す。
「女性の部屋に男が出入りするのはあまり褒められたことではないのは分かっています」
「へぇ」
「ですので、宗也様がいらっしゃったことに動揺し、私は伯理を部屋に押し込みました」
「へぇ」
「……伯理は私に従っただけです」
「へぇ」
距離が近いせいか、宗也様が口を開くたびに、彼の声と吐息が私の頸を撫ぜる。ちょっと、それ、やめてほしいな……こんな緊迫した状況だというのに、別の意味でドキドキしてしまうから。
「じゃあ、なんでお前は伯理を呼んだ。わざわざこんな夕方……皆が風呂を終える時間帯に」
「えっと……」
「そんなんじゃあ、俺じゃなくても誰だって疑うぞ。何かやましいことがあるんじゃないかってよぉ」
「それ、は」
こればっかりは宗也様の言う通りである。実際に先ほど天理にも釘を刺されたばかりだ。
しかし、どう答えようか。天理は別によかったが……伯理の怪我の手当てのため、だと言えばこの人は「これからは俺が手当てをする」と言い出しかねない。そうなると宗也様の伯理甚振りレパートリーが増えてしまうだろう。そんな面倒なことは出来れば避けたい。
「み、見たかったから? 伯理のこと……」
「……」
うん、嘘はついてない。包帯を巻く伯理のことを見てあげたかったから、私は彼を自室に呼んだのだから。
もしも「なんで見たかったんだ」とか聞かれたら「伯理は可愛いので」と答えよう。これも嘘ではない。宗也様のような趣味嗜好を持ち合わせているわけではないが、私は伯理を利用すると同時に彼をかわいい弟のようなものとも思っている。
というか、早く、早くどこかに行ってほしい。伯理の怪我の世話ができないではないか。
そりゃあ、こんな夕方頃に男を自室に連れ込もうとしたことはあまりよろしくなかったかもしれないが……ちゃんと理由はあるからセーフだろう、多分。
それに、同じくこんな夕方頃に乙女の自室の前で私に覆い被さっている状況だってよろしくないはず。まして、宗也様は次期当主である。伯理や私ならまだしも、宗也様にまで変な噂がたってしまうのはまずい。
「あの、ちょっと……」
「……あ?」
私は焦りから、ついつい後ろにいた宗也様のお腹あたりをクッと片肘で押してしまう。多分、それはとても良くない行動だったのだろう。
「てめっ……ヒビキィッ!」
「え」
かなり軽い力だったが、それでも明確にこの場所から引き剥がそうとする私の行動が甚く気に障ったらしい。宗也様は自分の腹に当たった腕をガシッと掴み上げ、ギリギリと握りしめた……まるで、血管や筋肉ごと圧迫するような強い力で。
「イッ! 痛ッ……ちょっと!」
「来いッ!」
宗也様は痛がる私の訴えなど知らぬ存ぜぬどうでもいいといった様子で、私を引き摺り何処かへと歩き始めた。私といえば腕の痛みと、私単体に怒鳴る宗也様を初めて見たことに対しての驚き……その他諸々の感情が混ざり合いすっかり混乱してしまったせいで上手く抵抗が出来なかった。
「いやっ待っ……! 何、何ですか、どこへ……⁉︎」
「俺の部屋だよッ!」
「はっ⁉︎」
いや、ちょっと待て。さっきこの人「こんな時間に異性を自室に呼ぶのは」とかどうだの言ってなかったか?
待てよ、つまり……もしかして宗也様って……!
「私は男じゃないです!」
「なーに言ってんだお前は!」
「えっあっ……そうですね⁉︎」
「頭沸いてんのかッ!」
「それはぐうの音も出ませんが、ぐむっ……!」
私は「宗也様には言われたかないですッ!」という言葉を必死で飲み込んだ。危なかった喉元まできていた。
それに違うのだ。私は本当は「私だって女です!」と言いたかっただけなのだ。さっきの理論でいくと宗也様にとって私は女ですらない、ということになってしまう。何だそれひたすらにショックだ。
「離してくださいっ! はっなっせこのッ……!」
私は空いてる方の手で宗也様の背中を全力で引っ叩きまくる。離せ、このッ……このッ!
ちなみに私は彼を『宗也様』と呼んでいるがそんなには尊敬していない。少なくとも今の伯理狂に尊敬はできない。
ばしばしばしぃッという乾いた音と「痛ェッなおい!」という言葉によりなかなかのダメージを与えることに成功していることが分かる。それでも宗也様は私の腕を離さなかった。
「いきなり何なんですか、いい加減に……!」
「いい加減にしてほしいのはこっちの台詞だ」
「は? ……だッ⁉︎ やだ、痛ッ……!」
宗也様の私の腕を掴む力がより一層強くなったかと思えば、私の腕からミシッという嫌な音が鳴った……嘘でしょ、この人、腕にひび入れた。こんなことで。
「……な、にしてくれるんですか」
「うるせえ」
「いや、うるせえじゃなくて……仕事に差し支えがあったらどうするんですか」 「……」
「明日だって円慈さんと、天理とだって組手する約束してたのに」
「黙れ」
「はっ⁉︎ ちょ、待、いッ……!」
宗也様は私の折れた腕を離すどころか、さらに力を込める。流石に完全にへし折るまではいかなかったが、それは私が玄力を巡らせ始めたからだ。やっていなかったら完全にポッキリ逝っているだろう。
ど、どういうことなんだろう。確かに宗也様は伯理に暴力的なところがあるが、それは彼なりの愛情表現。つまりは可愛がっているのだ。それなら私だって……痛いのは嫌だけれど、それが宗也様の愛だというのならいくらでも私を痛めつけてくれて良かった。
だけど、これは違う。目の前の宗也様は伯理に向けるようなデロデロに甘いものじゃない……私を心の底から憎むような、そんな表情だ。
本来なら、恐ろしく思うべきだったのだろう。あるいは哀しく思うべきだったのだろう。
「あ……」
でも、私はとっくの昔に駄目になってしまっていて。どんな感情だったとしても、これほどに強い感情を私に、真正面からぶつけてくれることに途轍もないほどの喜びを覚えてしまった。ついつい赤らむ頬がばれないように、顔を下げ長い髪で私は顔を隠した。
「ヒビキ、大人しく着いて来い。じゃねえとこの腕、威葬で粉々にして一生使い物にならなくしてやる」
「それは、ご勘弁願いますが……もし本当にそうなれば沢山お世話してもらって沢山迷惑かけますから。宗也様に」
「憎まれ口。お前、本当に可愛げねえな」
可愛げがない……それは宗也様が私によく言う言葉で、私の世界一言われたくない言葉だった。
それでも、宗也様がひびが入った方の腕を離し、もう片方の手を掴んで腕を引いてくれる今この瞬間だけは……そんな言葉だってとても甘いものに思えてしまった。
*
漣宗也の今の感情を台詞で表すならば。
「やぁだぁ〜〜〜! ヒック……えっこんしたくあぁい〜〜〜!」
『コイツまじふざけんなよ』である。
状況的には完全に泥酔しきったヒビキが彼の寝具に仰向けに寝そべり、宗也はそんな彼女の上に覆い被さるような体勢になっている。
宗也は二十二歳、ヒビキは二十歳。酒気帯びた年頃の男女が密室で寝具に沈むこのシチュエーション……何も起こらないはずがない。
そう。本来なら、何も起こらないはずがない……のだが。
「うっうっ……痛い、うぅ〜〜〜! 伯理ど、結婚やだぁ〜! いった、てて痛いぃ〜!」
「とりあえずベッド殴るのやめろ、なっ?」「うぁあ〜〜〜!」
女側の精神年齢が著しく下がりまくっているため、宗也はなんだかコトを起こすか起こすまいか迷ってしまっていた。
はたして、これは手を出してもいいのだろうか……いや、待てだめだ、ぽすぽすとシーツを叩いてはやんやん泣き喚いている。まるで子供の駄々であった。
何故、このような事態に陥ったのか……それは十数分前に遡る。
_____
宗也は自分の部屋にヒビキを連れ込んだと同時に、彼女を壁に抑えつけた。壁から鳴るドガァッという音と肩に走る痛みから、結構な力を込められたことがヒビキにはよく分かった。
「いった、ちょ、もう少し考えて行動してください。肩まで外れたらどうする気ですか」
「少しは怯えろ」
「私に伯理的な可愛さを求めないでください」
「求めてねえ。伯理だけで充分だ可愛いのは」
「申し訳ありません。素直に気持ち悪いです」
まあ、今更その程度で怯むようなヒビキではないのだが……伊達に漣家の上澄である濤をやってはいない。
ただほんの少し、彼女は戸惑っている。宗也が伯理以外に暴力を振るうところなど見たことがないからだ。ヒビキも漣家の戦士なのだから、鍛錬の一環で宗也と手合わせくらいは何度もしているが……暴力と鍛錬は明確に違う。
廊下で腕にひびをいれたことと言い、壁に叩きつけたことと言い、今日の宗也は様子が少しおかしい。いや、いつもおかしいのだが……ヒビキに対する行動に感情が乗っている感覚が確かにあった。
ヒビキは「いつもだったら私が三つほど話をして、ようやく返事をしたと思えば相打ち一つだけで終わらせるほど、私に興味ないくせに……」と独りごちる。
勿論、心の中でのみだ。彼女がその文句をそのまま口にしてしまえば、宗也に「私にも興味を持ってください」と強請っているようなものだろう。
交際相手でもない相手に、しかも仕えている家の次期当主にそんな端ない真似は出来ぬ……ヒビキはふい、と視線を下に向けた。
「っち」
宗也の目からヒビキが視線を外せば「気に入らない」とでも言いたげに、舌打ちを一つ。
そのすぐ後に宗也はヒビキから手を離しては、自室の棚をゴソゴソと漁り始めた。お目当てのものはすぐに見つかったようで、それを手に持った宗也は「ん」とヒビキに見せつけるように掲げる。
「な、殴る気ですか。それで、私を」
「こんな高え酒で殴る価値ねえよお前に」
彼の手にあったのは一本の白ワイン。どうやらフィルムは先程ナイフで切り除いたようだが、中身は全く減っていない未開封のものである。そして、もう片方の手には栓抜きまであった。
待ってくれ。それって、つまり……。
「飲むぞ。付き合え」
「そんな高い酒を飲む価値ないですよ私」
「次期当主の晩酌断るたあいい度胸だな」
「お褒めに預かり光栄ですそれではいい夜をぐっない」
「おう待てこら」
これはやばい、と確信したヒビキは冷や汗をダラダラとかきつつ、速やかに宗也の自室からの退却を試みた。しかし、普通に頭を掴まれ阻止されてしまう。
確かに、ヒビキはもう二十歳だし、法律的には何も問題はない。まあ、漣家に一般的な法が罷り通るのかは甚だ疑問だが……別に酒を飲むのが初めてというわけでもない。そしてどちらかと言えば彼女は酒は好きな方であるし、飲みやすい白ワインなんかもなかなか好物だった。
しかし、ヒビキにはこの晩酌を必ず断らねばならぬ事情があった。
「いえあの、私、実は酒癖が非常に悪いみたいなので……」
「……みたいってなんだよ」
「お酒は好きなんですけど、そんなに強くないらしく。まあまあ低い一線を越えたら簡単に記憶を失くすようで……」
たとえ、好物だからといって酒に強いというわけではない。ヒビキは酒に酔ってる自分のことを全く覚えていないし、酷い時は前日の記憶がすっぽり抜けてしまうことも多々あった。
寝起きに時計とカレンダーを見て「一日消えてるんですけど私ってもしかして一日中寝てた⁉︎」と困惑することも何度か経験している。
「どんなことになるかは私自身把握していませんが、確実に粗相をするので断固として宗也様とは飲みません」
「ふーん。要は俺にあられもない恥ずかしぃ〜い姿を見られたくはねえ、と……ほーん?」
「もちろんですよ。全く記憶がないことに心が凄く痛むんです。翌日の天理の白い目とこちらを気遣う円慈さんとか特に、」
「おいそれ天理と円慈にはばっちり見せてんじゃねえかてめえこらぶっ殺されてえのか」
「殺意の芽吹き方が独特過ぎませんか」
ヒビキが天理と円慈の名前を出すと、宗也の目は一瞬にしてスゥッと細められた。その瞳は怪しく揺らめいており彼女は「伯理の名前は出していないのにな。実際いないし」と不思議に思ってしまう。
「ヒビキ、前から思ってたがよぉ……お前、俺とはサシ飲みどころか大人数でいる時も一滴たりとも酒を口にしねえよな。酒が飲めるようになって一年も経ってねえし、まだアルコールが口に合わねえのかとか考えたぜ。でもさっきの話を聞いた限り、俺以外の濤とは飲んでるようだなぁ、父さんもいるんだろどうせなぁ」
「まあ」
「まあ、じゃねんだよ」
「ぃだッ」
宗也はヒビキの頭から手を離したが、すぐにその拳を握りそのまま振り下ろした。こめかみ辺りに直撃したそれはまあまあ痛かった。
「それっておかしいよなぁおい。絶対おかしいよなぁ?」
「……? あっ天理はジュースですよ」
「バァ〜〜〜カ」
「ビブラートお上手ですね」
明らかに何かに苛立っている宗也は一体、何が不満なのだろうか、とヒビキは小首を傾げることしかできない。
大体、この酒の席の話なんて完全に伯理は関係ない……ヒビキはてっきり、自室に伯理を呼びつけた詳しい理由を吐かせるために自分にアルコールを入れようとしたのではないかと思っていたのだが、この苛立ちはもっと別の要因から来ているのだろう。彼女にはそれが皆目見当もつかなかったが。
まさか酒の席で仲間はずれにされたことがそんなに嫌だったのだろうか。いやいや、そんなことを宗也様が思うはずないし、そもそも仲間はずれにもされていない。
「宗也様だってお父様や円慈さんとサシ飲みしたり、私以外の他のメンバー全員と一緒に飲んだりしているではないですか。先程から何を言いたいのか全く要領を得ません。もっと簡単に仰ってくださらないと……」
「じゃあ、馬鹿でも分かるように噛み砕いて言ってやる。要は何で酒癖の悪いお前は他の奴らとは飲むくせに……現当主の父さんの前でも粗相しているだろうに、何で俺のときだけは拒むんだっつう話してんだ」
「……あっ私の話⁉︎ これピンポイントに私の話なんですか⁉︎」
「バァーーーカ」
「ビブラートやめたんですか」
「さっきのお前のビブラート評価、実は滅茶苦茶ムカついてたからな」
「反省します」
「そうしろ」
確かに。ヒビキは他の濤のメンバーならまだしも、現当主の漣京羅の前で酒癖の悪い姿を見せている。
だというのに、次期当主の宗也にはその端ない姿を見せたくないので、一緒に飲みたくないというのは少々道理に合わない気がする。ヒビキは素直に納得した。
しかし、それには別の理由がちゃんとあるのだ。
「考えられる理由ってのが、父さんや周りには構わねえけど……俺にだけは失望されたくないからって言ってるように聞こえるんだが?」
「えっ? いえ別に。そういうわけじゃないですよ」
「……あ?」
ヒビキはひらひらと手を振り、簡単に宗也の言葉をやんわり否定する。失望されたくない、なんて……もう可愛くない判定されている時点で今更だったのだから。
「私はただ言いつけを守ろうとしているだけです」
「言いつけ?」
「はい」
まあ彼女自身、記憶がない自分のことというものはどこか他人事のような感覚なのではっきりとした理由を話せないのだが。
ただ単に、人に『こう』言われたから『そう』しているだけだ。
「宗也様だけがいなかった時、私が初めてお父様達と晩酌した翌日に……その時に一緒に飲んでたみんなに言われました。「宗也のいる場所では一滴たりとも飲むな」って口酸っぱく」
「は? 何でだよ」
「記憶ないので……」
「何で聞かねえんだよ理由」
「聞きましたよ。知らなくていい事って言われました。当事者なのに」
ヒビキが彼女なりの理由を宗也に伝えれば、彼は至極つまらなさそうな無表情になった。まるで楽しみにしていた映画が期待していたような出来ではなく微妙な気持ちのまま黙って劇場を出る人のような表情だ。
絞り出すような声で「あいつら……」とボソボソ恨み言を吐いているがヒビキにはよく聞こえない。
「……何で俺はいなかったんだよそこに。仕事か?」
「確かちょうど伯理にちょっかい出してた時でした」
「じゃあ仕方ねえな」
「仕方がないので私はこれで失礼しますねいい夜をぐっない」
「まあ逃さねえけど」
「仕方なくないじゃないですか」
宗也は器用にも片足でヒビキの退路を防ぎながら、キュルキュルぽんっとワインボトルのコルクを引き抜いた。
そのボトルからちゃぷりっという水音を聞いた瞬間、彼女の身体中にはびっしりと鳥肌が立ちひろがる……あっこいつ、強硬手段に出たな、と。
「当事者なのに教えてもらえないなんて可哀想になぁ」
「いえあの、己の醜態を知らずに墓まで持って行けるのならそれに越したことはない派ですのでお気になさらないでください」
「安心しろよ。俺はそんな冷たいことしねえから」
「寧ろわざわざ教えないでおいてくれるのは温情かと」
「お前は酒が好きなんだもんな。一緒に飲んでみて問題なさそうなら今後は気にせず俺とも飲もうな。問題あっても飲もうな」
「その思考には問題しかないですよね」
「いや、待てよ。記憶失くすってことは翌日の俺の言葉は信じられねえかもな」
「今の一連の行動、全てが信じられません」
「大丈夫だ。お前が酒に溺れるところはしっかり撮影しておいてやるから」
「なるほど脅迫に使うおつもりですね、そこどいてください嫌だ嫌だ嫌だ」
二人は静かに、そして流れるように組手の時のような攻防にシフトし始める。宗也は片手にワインボトル、ヒビキの片手は目の前の男にひびを入れられた……両者とも片腕しか使えない状態だ。
だが、ヒビキは既に壁に追い詰められているし、そもそもの戦闘力としては宗也の方が上。このままでは無理やり酒を飲まされてしまうのは明白である。
というかこの男、まさか直飲みさせる気か。せめてワイングラスとかにしてほしい。それで出されても飲まないけど……などとぐるぐる考えながらもヒビキは「ぐぎぎぎっ……!」と歯を食いしばり必死に抵抗するが、その間にもボトルはどんどん近いてくる。やばいやばい。
「も、うっやめてください!」
「遠慮すんなって」
「遠慮じゃない!」
「ガッ、てめェッ……!」
ヒビキはついに宗也をゴンッと足蹴にし、そのまま鳩尾にグリグリと押し込み始める。綺麗に入った足は彼の口から大量に息を吐かせることに成功した。
しかし、それだけでは引かぬのが漣家次期当主。少し体を離すことは出来たものの、宗也は未だ彼女の前から退くことはなかった。
大体、この男は何なのだ……とヒビキは確かに苛立ちを覚え始める。自分はただ、伯理の怪我を診てあげた後は就眠するだけで終わるはずだったのに、何故手に汗握る攻防に発展しているのだ、と。
しかも、伯理関連ではなくヒビキが宗也と共に酒を飲むか飲むまいかという実にくだらない話……それなのに鳩尾の圧迫に耐えてまで。
「ああああもうッ!」
一体全体、何をそこまで拘っているのだ……いつもの自分には目もくれないくせに!
「宗也様と晩酌したら私がタムに叱られるんです! だからそこを、」
退いてください、という言葉を続けることは出来なかった。ヒビキが『タム』という彼女と仲の良い『漣珠紀』の愛称を口にした瞬間……宗也のこめかみにはビキビキと凄まじい勢いで青筋が隆起し、その碧眼は怪しい光を放ち始めたのだ。
先程からずっと様子のおかしい宗也だったが、彼の纏う空気が悍ましい程の殺気を含むものだと瞬時に悟ったヒビキは思わず息を呑む。
「ぇ、わッ!」
宗也の気迫に押されているヒビキ……そんな彼女の隙を逃すほど宗也は甘くない。彼は自身の体にめり込むヒビキの足首をがしりと掴み上げ、そのまま彼女の体を宙へと投げ飛ばした。
着地点は寝具。ヒビキはひびの入った方の腕から落下し、激痛のあまりに息を詰まらせてはビクビクと身体中を痙攣させる。
「んッぐ、ぅ……!」
「テメエはホンットにッ……可愛くねえッ! 生意気になりやがって……!」
宗也は痛みに喘ぐヒビキを見下ろしながら、ワインボトルに口をつけゴンゴンと流し込んでいく。
あまりに突然なことばかりなので「高級ワインなのに、なんて勿体無い飲み方をするんだ」と、どこかズレた視点で呆れてしまうヒビキ。そんな彼女に覆い被さった宗也は、片手で彼女の柔い頬をがしりと掴み、無理やり口を開かせ……。
「っ⁉︎ んんッ⁉︎ んんむぅ‼︎ んぅッ⁉︎」
そのまま強引に唇を重ね、口に含んでいたワインを無理やり飲ませる。
ヒビキは流し込まれるワインにクラクラしながらも、何とか宗也の体を押し返そうとするが……とことんアルコールに弱い彼女は即座に弱体化し、先程のように力強く抵抗することは出来なかった。
「……ッはぁ!」
宗也は一度、むはっと息を大きく吐いたかと思えば間髪入れずにまたヒビキの唇に噛み付く。もう彼の口内からワインは全て流れ尽くし、一滴たりとも残っていないだろうに……それでも彼女から退くことはせず、剰えそのまま舌を捩じ込み、その小さな舌を、歯を、上顎も、下顎も蹂躙していった。
ここまで、するなんて。ファーストキスだったのに、せっかく好きな人と唇を交わせたというのに……こんなのあんまりだ。
好き勝手に舐られ尽くされたヒビキの意識は……そこからぷっつりと途絶えてしまった。
_____
と、いうようなことがあったりした。
「……」
今回、宗也がこんな手を取った理由はヒビキが考えていた通りだ……彼女の耳にも入っている事だろうが、宗也以外の濤はデマだと一蹴していたとある噂がある。
その噂というのは『伯理とヒビキは恋仲にあり、ゆくゆくは婚姻を結ぶのではないか』というものだ。
確かに、他の者たちと違いヒビキは伯理の面倒をよくみているし、関係自体は良好とも取れるだろう。まあ、それだけで恋人だと判定するのはあまりに安直且つ色ぼけた思考ではある。
しかし、本人達がどう思っているかはともかく、血縁上の立場も込みで考えるとそうあり得ない話でもなかった。かたや漣家嫡流の落ちこぼれ、かたや限りなく遠縁の天才。どちらも漣家の人間として縁談を持たせるには些か疑問が残るような二人だ。
それならば、この二人を一緒にしてしまえば丸く収まりそうだ、と考えても不思議ではないだろう。
しかし、そんなことは宗也にとって到底納得できる話ではなかった。
だからこそ、彼女を泥酔させた後に伯理を自室に呼び出した理由を問いただし、彼らの間にやましい事がないかの真偽を確かめるため、このような強硬手段に出たというわけだ。
「わぁああんっばかぁああっ」
「誰が馬鹿だ。今のお前が一番馬鹿だろうが」
ただし、想定外だったのはヒビキの言っていた酒癖の悪さが……本当に非常に悪かった事である。
こんな風にワァワァ喚かれては尋問のしようがない。さてはて……。
「うぇええ〜〜〜! しないもん、伯理違うもん。違うもんん〜〜〜‼︎」
まあ、なんか、違うらしいが。
宗也が無理やり彼女に酒を口移しで飲ませたその十秒後、見事なまでにボロンボロンに泣き始めたので、それはそれは戸惑ったが……彼はとりあえず「伯理と結婚する気か」と一言だけ投げかけたのだ。
「伯理好きじゃないもん、嫌いだもん、んやっ嫌いじゃないけど、違うもんずるいもんずるい伯理っ伯理ぃい〜〜〜!」
そして、このザマである。
更には、ずるいずるいとジタジタ暴れてひびの入った方の腕を無駄に痛めつける始末。仕事に差し支えがどうのこうのと言っていたことを忘れているのか……これでは確実に明日は腫れ上がっていることだろう。まあ、原因は宗也にあるわけだが。
「うっう〜! ソウちゃん、ソウちゃんはどこぉ〜ッ!」
「おーソウちゃんだぞぉ」
「いないよぉっソウちゃんんーッ!」
「いるつってんだろ」
「あなた誰さぁっ!」
「ソウちゃんだって」
一頻り、伯理はずるい、伯理は違うという幼児のような主張を終えたのだろう。
次には『ソウちゃん』の名を呼び泣き喚くヒビキ……お察しの通り、ソウちゃんとは漣宗也のことを指す。
彼女は漣家に来た当初、歳の近い宗也と珠紀のことをソウちゃん、タムと愛称で呼んでいたのだ。宗也としてはその呼び方はむず痒くはあったものの、少しは気に入っていたというのに……突然、彼女は『宗也様』と呼び方を変え同時に態度もよそよそしくなった。
そういえば、伯理との噂が立ち始めたのもその頃からだったか。宗也もはじめはそんなバカなと思っていたのだ。伯理の方はともかく、ヒビキが伯理に懸想しているわけがないだろう、と。
何故ならば……。
「お前はソウちゃんのこと、大好きだもんな?」
「うっうぅ〜! ソウちゃん、ソウちゃぁあん」
「だよなぁ、ヒビキはソウちゃん大好きだよな」
「ヒビキじゃないもぉおん……」
「そうだったな。汐織だもんな」
「漣汐織だもんん……」
「漣ではねえだろ、まだ」
「なるもんっ」
「そのうちな」
ぐすぐす鼻を鳴らしながら泣くヒビキ……もとい、汐織の少し小さな頭をそっと抱きしめて優しく撫でる宗也。
あれは宗也が十六歳、汐織が十四歳の頃。汐織の自室で、彼女が勉強のためにと使っていたノートを、宗也は取り落としてしまったのだ。
その場にいた者が宗也一人だけだったのが良かったのか、悪かったのか今では分からない。落ちた衝撃でパラパラとめくれたノート……偶然開かれたそのページには、確実に見過ごしてはならぬある事が書かれていたのだ。
そこには、恋する少女に相応しく愛らしい相合傘の落書きがあり……そして並ぶように書かれていたのは『漣宗也』と『枇々木汐織』の名前。
一瞬、誰の名前だと困惑はしたが、苗字を見てすぐにノートの持ち主の名前だと分かった……なんだ、あいつの下の名前はヒビキなどではなく汐織だったのか、と宗也はその時に初めて気付いたのだ。
そのノートはすぐに閉じ机にそっと戻したが、当主である父にどういうことかと走ったのもよく覚えている。
わざわざ言うことでもないが、隠しているわけでもないとのことで……実は自分と彼女は兄妹ではないということを伝えられ、宗也は自身の体から熱が湧き上がるのを確かに実感していた。
もともと、二人は遠縁だ。四親等以上離れているので婚姻を結ぶことは可能ではあるものの、宗也は汐織の兄ではない。兄のように振る舞わなくても良いという事実に胸が高鳴っていたのだ。そして、あのノートには……何かを望むように『漣汐織』と書かれていた。つまり、そういうことなのだろう。
嗚呼、なんて可愛いことをするのだろうか。あんなに可愛い落書きを残して、迂闊にも本人に見られてしまうだなんて間抜けでいじらしくて……漣に馴染んだ後も苗字を変えずに『ヒビキ』を名乗るのは兄妹などではなく、俺の嫁になりたいがために決まっている。そんなの迎え入れてやる以外にないだろう。
だが、そんなことを考えていたのに、そのほぼ同時期に汐織は宗也と距離を置くようになり、伯理にばかり構うようになった。
どういうことだ。お前は俺のことが好きなんじゃなかったのか。俺をその気にさせておいて、お前は今度は伯理に乗り換えたのか。そんなもの、とんだ裏切りではないかこの性悪が、と。だから、その当時によく耳にした伯理との噂を宗也は一概に否定することができなくなったのだ。
それでも「いいや、俺だけはあいつの本名を知っているのだ」という優越感がまだあったのだ。しかし、しばらくして汐織は濤に選ばれ、京羅の方から「濤に選抜されたヒビキのことだが、実は……」ということで、他の濤のメンバーにも彼女の本名を明かされてしまったのだ。
汐織の本名のことは彼女の心の柔らかいところを刺激しかねない。だからこそ、彼女がいないところでひっそりとだ。
京羅は元々、汐織が大勢いる戦士の中の一人で終わるなら、そのまま明かすことせず……しかし、濤にもなれば名前のことくらいは伝えておいた方がいいと考えていたのだろう。
だとしても、それは宗也にとって唯一のアドバンテージを失うことと同義であった。
濤なんかになりやがって、ずっと弱いままでいればこんなことにはならなかったのに、と言いがかりのような恨みさえ覚えたものだ。
俺は避けられているのに、天理や円慈は汐織と共によく鍛錬している。
俺を愛称で呼ぶことはなくなったのに、珠紀のことは未だに『タム』と呼ぶ。
伯理に至ってはいつも気にかけてもらえている。
以前はソウちゃん、ソウちゃんと周りをうろちょろしていたくせに、汐織は一気に宗也から離れていったのだ……お前がその気なら俺だって。
そうして、彼からも汐織に構うことはなくなっていき……今に至るのだ。
だが、この、こいつ、こいつ、お前ふざけんなよ。お前っ‼︎
これっおまっ……『好き避け』じゃねえかお前ぇえええッ!
「汐織はなぁんでソウちゃんが好きなんだ〜?」
「らって、らってぇ〜……! 可愛いお花さんに似へるって言われたからぁ〜!」
「あぁ〜それで嬉しくなって好きになっちゃたかぁ〜。ばっかちょろくて困っちまうなぁお前ほんと」
「可愛いって、言われたからぁ……」
宗也は今までの汐織は『好き避け』をしていただけだったのだと結論づけ、口元がにんまりと歪んでいく。
今までの可愛げのない行動は全て照れ隠しだったのだ。なんだお前は実はこんなに可愛かったのかぁ〜!とテンションが急上昇していた。本当にちょろいのはどちらだろうか。
ちなみに、汐織が宗也を避けるようになったのは、どんどん才覚を発揮していく彼女を宗也自身がどこかうざったらしく思い無意識に冷たくなり、その代わりに伯理ばかり可愛がりだして汐織がショックを受けたのが始まりなのだが……哀しいかな、それに彼は気付いていない。
漣宗也という人間は自分が愛情を覚えるものに関して、自分の都合の良いようにしか考えない傾向にある。閑話休題。
「お前、いつも酒飲んだらこうなるのか?」
「わ〜がんないよぉおおおタムッタムぅ!おんぶぅ〜ッ!」
「なるほどなるほど、珠紀におんぶしてもらってんのか」
「タム〜〜〜ッ! ソウちゃんが冷だいッ! うぁあああああ!」
「あー悪かった悪かった。これからは可愛がってやるから」
何故、他の濤のメンバーがどんな噂が流れたとしても「汐織と伯理はあり得ない」と断言していたのか、そして同じ酒の席に宗也と汐織を決して座らせようとしなかったのか……ここでようやく、その理由が宗也にも分かった。
この様子から、汐織は酒を飲んだら『ソウちゃん』の名前を呼ぶのだろう。こんなにどっぷり好き好き泥酔していたら嫌でも宗也以外に目を向けることがないと分かる。
厳密に言えば「伯理がない」のではなく「宗也以外にいない」のだ。ここまで酷い泣き上戸を宗也には見せられないと思っても仕方ない。
いや、しっかし、ずるいなぁ〜あいつら。いつもこんな、よわよわになった汐織見てたのかちくしょう、これからは絶対酒の席に割り込んでやろう、絶対にだ。
あとは、これ今どうすっかな。う〜ん……なんだ、そうだな。もうキスもさっき済ませたしな、うん!
「とりあえず、ヤるか!」
宗也は笑顔のままに汐織のルームウェアにするりと手を忍ばせた。もう彼女の気持ちを知ることも出来たし、お互いに伴侶を得られる歳だし……とりあえず既成事実でも作っておくか!という彼らしい倫理観の欠如した行動である。
しかし……。
「やだぁああっ」
「……あんっ?」
汐織はべしょべしょに泣きながらも、ぺしりと確かに宗也の手を弾き落とす……完全に理性のタガが外れ、本能のままに泣きじゃくっている女の行動とは思えないほどに完璧な拒絶であった。
「……」
「だめぇえっ」
宗也は静かに表情をなくしていきながらも、無言のまま再度手を忍ばせるがそれもまたぺしり。
するり、ぺしり。するり、ペしり……するっ、ぺしっ。するっ、ぺし。すっぺっ、すっぺっ。
「このカマトトがッ! ここは完全にヤる流れだろうが空気読めぁ!」
「ぇええんソウちゃんじゃないとやだぁ!」
「だからおま、俺がソウちゃんだろうが!」
「婚前交渉は認められないぃい〜!」
「婚前交渉って考えがジジイかッ!」
「ちゃんとおてて繋いでデートしてキスしてからぁああっ!」
「キスはもう済ませてっから手遅れだ! つうか、なぁんでこんなベロベロのくせに全部叩き落とせんだよ、そこはきっちり弱くなれやぁ!」
「乙女心が強いぃいい!」
「てめえの頭にはお花さんしか詰まってねえのか、ぁあッ⁉︎」
「汐織は可愛いお花さんだからぁああっ!」
……この攻防は、二人が完全に疲れきり寝落ちするまで続いたという。
*
「何故、私は宗也様のベッドで寝ているのでしょう。しかも添い寝で……?」
「……ヤッたっつったら、お前どうする」
「その時は宗也様を殺して私も死にます」
「っち。ヤッてねえよ。出来るわけねえだろ、あんなんと」
「あ、あんなんって……私に女の魅力がないのは重々承知の上ですが……!」
「そんなレベルじゃねえよお前はよ。ところで、どこまで覚えてる」
「え……? えぇと、伯理を何らかの理由で投げ飛ばしたところまでは……あれ、何故、私はそんなことを伯理に? 腕もなんかいったいし……」
「マッジで記憶力クソゴミじゃねえか」
「あとシチュエーションが謎ですが「乙女心が強い」と叫んだ記憶が朧げに……」
「何でそれは覚えてんだよ」
「えっ本当に言ったんですか? どういう経緯で?」
「お前は知らなくていいんだよ、汐織よぉ」
「そんな、当事者なのに……ん、あれ? いつ知ったんですか、本名」
「殺すぞ」
「なんで」
とりあえず。
今回は撮り損なってしまったが、次こそは泥酔した汐織を映像に残しておくと宗也は決意したし、汐織の腕は全治三ヶ月だった。