傷物の焼死体、二体目
漣家次期当主、漣宗也の婚約者は傷物令嬢である。
彼女は幼い頃から与えられてきた高い教養と品格を兼ね備え、更には類い稀なるを美貌を持つ……蝶よ花よと大切に大切に育てられてきた何処に出しても恥ずかしくない立派な淑女であった。
そして、社交界では高嶺の花と謳われた彼女には当然のように、それはそれは沢山の縁談が舞い込んできたものである。
しかし、ある時を境にその見合い話がパタリと届かなくなった……なんと、不運なことに彼女は怒り狂った暴漢に襲われたのだ。
白く滑らかだった額は、男の手により無遠慮に何度も何度も床に叩きつけられたことで、無残なほどに真っ赤に染まった。その後は治療のために何本もの針を通すこととなり、彼女の額は二度と消えぬ傷跡で穢されてしまったらしい。
彼女の瞳はまるで宵闇を閉じ込めたような漆黒であり、その蠱惑的な色に心を奪われた者は数多くいたはずなのに……現在その片目は見る影もなく色を失い、まるで曇天の空のような見窄らしい灰に変わり果てた。今では殆ど視力を失い、ほぼ失明状態なのだとか。
いくら位の高い令嬢だったとしても、そんな彼女を娶ろうと思うような男はいなかった。誰だってひび割れた宝石などより、綺麗に磨かれた硝子玉の方を愛でたいと思うだろう。
しかし、漣家はそんな傷物の令嬢を選んだ……いいや、正確には選ばざるを得なかった、と言うべきか。
何故ならば、彼女を傷物にした暴漢の正体とは……他ならぬ彼女の婚約者、漣宗也だったのだから。
*
「宗也様。傷物にした責任として、私を娶って下さいますね?」
「イカれてんのかお前」
「どうでしょう。額を数回、床に打ち付けられましたのでその可能性は大いにありますわ。嗚呼、我ながら、なんて労しい……これはやはり責任をとって頂かなくては」
「ちっ……」
「うふふっ」
目の前で淑やかに微笑み、されども飄々とした女のなんと忌々しいことか……そんなことを考えながら臆面もなく不機嫌さを露わにする宗也に対し、彼女は優雅に紅茶を飲むばかりだ。
目に障害を抱えていたとしても、彼女のテーブルマナーには一切の粗相もない。まるで、数ヶ月前に目の前の男に襲われたことを忘れ去っているのではなかろうか、と思わせるほどの落ち着き方である。
いけ好かない女だ。宗也はいまだに微笑みを絶やさぬ彼女をじとりと睨む……その閉じられた瞼の奥には不揃いな瞳が隠されているのだろう。縫われた額は化粧と髪で誤魔化されていた。
「イカれた女を娶りたいとは思わねえんだがな」
「そういうわけにもいかないでしょう? お互いに」
彼女に対する暴行事件は忽ちのうちに、あらゆる上流階級の噂の的となったものだ。
過程はともあれ結果として、彼女を嫁に欲しがったり、大切な娘を漣家の長男に嫁がせるような家は一つたりともなくなった。
そうして、火のないところに煙を立てるような者たちの曲解が横行し、さまざまな憶測が飛び交う中、件の令嬢はこう言った……「宗也様、私を娶ってください」と。
皆が皆、こう思った。
頭を打っておかしくなったのでは、と。
「良いではありませんか。莫大な慰謝料を払うよりも有益かと思いますのに……一体何がご不満と言うのです?」
「お前という女の存在」
「まあっ……! なんてお酷い。くすんくすん」
彼女は人差し指の背を涙袋にすぅっと添わせながら、わざとらしさしかない泣き真似をする。なーにがくすんくすん、だ。
確かに、女の言う通り両者間に何があったかはさておき、家柄はお互いに申し分もなく、事実上は余り者同士。二人が婚姻を結べば丸く収まるかもしれない。
しかし、まさか……被害者であるはずのご令嬢が損害賠償も求めず、それを提案するとは。
「つーか、其方の御両親は? 反対を何一つも仰られないと?」
「流石に猛反対されましたわ。しかし、私は一生懸命説得しましたの。その甲斐あってか、二人とも最終的に納得して頂けましたわ」
「……ちなみに、何と言った?」
「この話を飲んで頂けないのなら出家します、と言えば一発でしたの」
「それは説得じゃなくて脅しだろが」
何と卑劣な手を使うのだろうか、と宗也は自身を棚に上げて軽く引いてしまった。
彼女も見目にくすみがかかったとは言え名家の令嬢であることに変わりはない……流石に一人娘に世俗生活を捨てられてしまっては困るのだろう。
突拍子もない様々な言動から察するに、このご令嬢は何と言うか……うん、何と言うべきか。なかなか胆力のある人物のようだった。しかも、宗也の前ではもうそれを隠す気もないらしい。
社交の場ではそのような話を一切聞かなかったが、それは単にそう思わせぬよう振る舞っていただけで、彼女の家では妙な共通認識があったのだろう……うら若き乙女が「出家する」と言い出して一発で信じる両親がいる時点でお察しである。
しかし、そうまでして彼女が宗也に拘る理由とは一体何なのか。
「だって、私にとって貴方は……宗也様は理想の殿方だったのですもの……」
「……」
「お顔が」
「お前、生まれが違ったら確実にヒモ男かホストに引っかかって風呂に沈められてるぞ」
「嗚呼、宗也様はお優しくも私に幸福を自覚させてくれるのですね。私ったら、なんという豪運なのでしょう……両親に感謝しなくてはなりませんわね。安心させたいので結婚してください」
「その両親に出家するって脅した女の発言とは思えねえなあ」
ちなみに彼女が宗也の見た目で気に入っている点は、雪のようなふわふわの白髪に、氷のように冷たく青い瞳なのだとか。ちなみに初対面時にも言われた。
言うか普通、初対面で外見が決め手って……せめて家柄を褒めろ。
「もう天理でいいだろそれは」
「いやですわ宗也様ったらっ! 名家漣家嫡流末弟様の嫁が長男様のお下がりだなんて。これ以上に外聞を悪くする真似は流石に御免ですの」
面倒そうに手をひらひらと揺らして弟に厄介事を押し付けようとする宗也に、くすくすと口元に手を当てて微笑む女。本当に肝が据わっているとしか言えない。
しかし、そんな彼女は次の瞬間には、薄く目を細めつつその鋭い視線で宗也を射抜いた。
「……しかしながら、そこで次男様のお名前を挙げないところを見るに、貴方は本当に次男様のことを愛していらっしゃるのね」
「……ッ!」
漣宗也は目の前の女を傷物にした。
しかし、宗也だって……いくらなんでも見合いにきた初対面の令嬢に暴力を振るったりはしない。
それに、手を出さずにはいられないような恨みを抱くどころか、そもそも興味もなかった……名家の長男として、出席しなくてはならなかった。それだけのこと。
宗也としては、見合いなどする暇があるなら……彼女の言う『次男様』を愛していたかったのに。
「テメェッ!」
「あらいやですわ、手前だなんて。なんて端無いお言葉遣いでしょう」
そして、女はそれを十二分に理解していた。
だからこそ、それを利用したのだ。
――『ところで、宗也様には大変お可愛らしい弟君がいらっしゃるとか。末弟様の方は濤としてのご活躍をよく耳にしますが、次男様の方はさっぱり……あまり妖術の才能がない、と専らの噂ですわ。うふふっ! ですが、私は気にしませんことよ? 寧ろ、私にも彼を貸してくださいまし。いえ、ご心配なさらず。沢山沢山愛して差し上げるだけですわ。宗也様と婚姻を結んだ暁には、貴方だけの弟ではなく……私の弟にもなるのですから』
数ヶ月前、見合いの際に放った彼女の言葉だ。
彼女がそう言い終わった瞬間、宗也は綺麗に着付けられた着物の襟元を掴み、傷の一つもない綺麗な額を畳に叩きつけていた。
彼が何度も何度も腕を振り下ろし、い草とい草の間にべんがら色の染みがすっかりこびりついてしまったとき……宗也は確かに見たのだ。
目の前で至極幸福そうに微笑む、血濡れの女。
そして、その表情でハッキリと理解した……それが策略だった、ということを。
宗也が彼女を娶らねばならぬ理由を作るために。
宗也が彼女に暴行を働いたのではなく……彼女が、宗也に暴行を働かせたのだ。
「あーんな言葉を真に受けて逆上してしまうだなんて、宗也様も存外可愛らしいお方ですわ。ますます気に入ってしまいましたの」
「……それだけじゃねぇだろ」
「あら、やはり気付かれていましたのね。他の皆様はもとより、両親だって気付かなかったのに……それだけ私のことをよく見てくださったのね。大変嬉しゅうございますわ」
「俺があんだけやって半身不全にもならずにその程度で済んでんだから嫌でも気付くわ」
彼女は妖術師ではない。妖術を扱うことの出来ぬ見目麗しいか弱い令嬢、ということになっている。
しかし、それは彼女がソレをずっと隠し通していただけなのだ……実際の彼女は玄力の扱いにも長けていれば、妖術さえも会得している。
彼女の妖術、その効果は『術をかけた対象がその時点で覚える最も強い感情を増幅させる』というもの。
「強かなもんだよなぁお前も。この十七年間ずっと隠してきたんだろ?」
「それはそうですわ。私の妖術は精神干渉の類ですもの。そんなことが分かってしまえば不気味がられてお嫁の貰い手がなくなってしまいます」
「もう既に不気味さの塊でしかねえだろ」
「ミステリアス…ってコト⁉︎ ですわね」
「ですわねぇよ」
よくもぬけぬけとそんなことを言えたものである。
流石の宗也も自身のブラザーコンプレックスをほんの少し小突かれた程度で、年下の小娘に手を出したりなどしない……多分。
きっとそれだけだったのなら、他家の兄弟仲にずけずけと口出しする失礼な女との見合い話はなかったことに、とご破算にしたことだろう。
しかし、それを戯言だと流すことが出来ずに、ほんの少し苛立ちを覚えてしまったのもまた事実。
それを見破られてしまった時点で既に彼女の掌の上だったということだ。
弟の話をされたこともそうだが、こんなに大人しそうな顔をしておきながら、その裏では計算高く可愛げのない女を、自分は娶らねばならぬのか……と宗也は溜め息を吐く。
「そんなに邪険になさらずとも良いではありませんか。この婚姻は家同士だけではなく、宗也様個人にとっても大変利のあるものだと思われますのに」
「……お前、よっぽど自分に自信があるんだな。もっと謙虚に生きた方がいいぜ」
「いえ、そういうことではなく」
「あ?」
先程まで一切笑みを絶やさなかった彼女だったが……宗也の言葉を否定した後、その表情はどこか無感情を思わせるものに変わる。
「宗也様は確かに私を面倒だと思ってはいるでしょう。しかし、それは私だけに限った話ではないはずです」
「……」
「宗也様が面倒だと思っていることは縁談そのもの。そして、漣家の利にもさして興味がない。だからこそ、私の妖術の影響があったとはいえ……漣家にとって不都合な事態に発展しかねない行為に対するストッパーが他人より緩かった。違いますか?」
淑やかに人を揶揄う物言いとは打って変わり、宗也にとって真っ当な提案をするかのような声色で……責め立てるわけでもなく、ただただ淡々と宗也に関する解析を述べ続ける彼女。
「漣宗也様。貴方は漣家の次男様……漣伯理様にしか興味がない。興味を持てない。それは生涯を共にするであろうパートナーの奥方も例外ではないでしょう。大方、不都合にならぬのなら、誰でもいいのでは?」
「……そうだな」
彼女は最初から気付けていた。才色兼備と謳われ、引く手あまたである自分に向けられる無数の視線……他家の令嬢から放たれる嫉妬の色、どうにかして己の物としたがる男の劣情の色を浴びせ続けられる日々を送ってきたから。
それは、初めてのことだったのだ。
自分に向けられた二つの美しい蒼玉が、魅入ってしまう程の無彩色を放っていた……彼の手によって変色させられた、自分の左目と同じ灰に見えたのだ。
だから、確信した。
嗚呼、目の前にいる漣宗也という男は、この私に対して、本当に何の感情も持てないのだわ、と。
彼女にとってそれは……酷く心地の良いものだった。
彼女はずっと、そんな無関心を求めていたのだ。
「嫁となる存在が誰でもいいとお考えでしたら、その席を私に譲ってくれても良いではありませんか」
「……」
「減るものではないでしょう? 寧ろ、貴方にとっても都合が良いでしょう? もう二度と、面倒な見合い話に付き合わなくて済むのですから」
「……けど、俺はお前を愛さねえぞ」
「あら、そんなことをお気になさっているの? うふふっ……私は生涯の恋心をこの人にだけ、と写真一つで決めてしまうような女ですのに。私は宗也様に愛されずとも気になんて致しませんわ。私は愛されるより、愛したい派ですもの。それに今更、貴方の言動を私が残念に思うことがあるだなんてお考えですの?」
彼女は自身の左頬をたすたす、と柔らかく叩く……彼女の顔の左半分には宗也の『言動』の痕が残ったままだ。
「説得力がちげえな」
「そうでしょうそうでしょう? 実はあの時、その覚悟を示さなくてはと思いまして悪戯しましたの! それに、ご心配なさらずとも、私は末弟様や次男様に手出ししようだなんて一切考えていませんわ」
「どうだろうな。人間は一度、その可能性を提示されたら……その疑念を簡単に払拭することは出来ねえぞ」
「それはご尤もですわね。あらあら嫌ですわ、どうしましょう。私、困ってしまいましたわ」
「おおぅ、いい気味」
本当に困っているのかよく分からない傷物の令嬢は「うぅむ」と少し考えむ。しかし、ほんの数秒で何かを思いついたらしく、彼女はピンと人差し指を立てながらこう切り出した。
「では、こうするのは如何でしょう?」
彼女の提案はこうだった。
「私は貴方達に指定された場所から一歩も出ないと誓いましょう」
婚約者となった後、彼女は漣邸に身を置き生活することになる。
その際に日当たりの良い部屋と、生活を送るための最低限の設備、そして彼女が購読している読物さえ用意してくれるのであれば、彼女は決してそこを離れないと言うのだ。
呼び出しの声が掛かる場合はその限りではないが、それでも現当主である漣京羅か婚約者である漣宗也以外には応じない。そして、この二人以外を部屋に入れることもしない……それがたとえ、肉親であっても。
「こうすれば、私が宗也様の愛するご家族に手出しする可能性はゼロとなりますわ。私も新聞や小説、雑誌などの読物さえあれば退屈もしません。そして、宗也様が気に入らぬと思っている私の姿を必要以上に目にすることもなくなり、貴方の疑心や不快感もかなり払拭されることでしょう! 我ながら名案ですわ!」
「……驚いたなあ。自ら軟禁を希望する令嬢なんて、後にも先にもお前だけだろうぜ」
「そうかもしれませんわね。ですが、思い通りの婚姻を結んでいただけないのなら世俗を捨ててやるだのと駄々を捏ねる私ですもの。このくらいは平気ですわ」
彼女はティーカップを傾けながら紅茶をこくりと飲み干し、ソーサーの上へと静かに置いた。
そして、宗也の目をまっすぐに見つめ直す……碌に見えもしない、その瞳で。
「宗也様。私を、娶って下さいませ」
「お前は、婚約者を愛さねえ俺を愛せると、本気で言ってるのか?」
「はい」
一切、淀みのない返答だった。
「私は宗也様のことを一生愛し続けます。貴方が私に何をしても、何もしてくれなくとも私は貴方のことを愛し続けます。何故なら、私は……」
彼女は、一度言葉を切り……至極、恋しそうな声で続く台詞をその口で紡いだ。
「一生一代の『恋』という尊厳さえ犯さなければ、たっぷりとした潤いある余生を送れるような、一途で莫迦で……酷く、愚かな女ですから」
*
漣宗也と傷物令嬢が婚約関係となってから、一年以上の月日が過ぎた。宗也は十九歳、女は十八歳となる。
最初は冗談かと思われた彼女の提案した軟禁生活は、一度も破られることはなかった。しかも彼女は不満を覚えるどころか、余すことなく楽しんでさえいたのだ。
宗也も初めは一生足を運ぶものか、と決めていた。しかし、当主である京羅に「運よく婚姻を結べた相手だろう。定期的に顔を見せるくらいはしないか」と注意を受けてしまったため、渋々彼女に顔を見せに行く……彼女が気に入っていると言っていた自分の顔をわざわざ見せに行くのだから感謝して欲しいくらいである、と考えながら。
宗也が彼女の部屋に訪れるのは決まって毎週土曜の十三時。特に拘りがあったわけではない。そう決めておけばいつ行こうかとタイミングを伺うような億劫な時間がなくなるから、適当に決めただけだ。
毎度毎度、決まったタイミングで扉をノックする宗也に彼女は「律儀なお方ですね」と嬉しそうにいつも微笑む。それが一週間に一度、しかも十数分ほどで終わるような薄いものだったとしても……彼女は一瞬たりとも笑みを崩したことはないし、宗也に「愛していますわ」という言葉を欠いたことすらなかった。
宗也も宗也で、最初はその愛の言葉に辟易していたが、こうも月日が流れると流石に慣れてしまうもので、彼は彼女の口から紡がれる愛の言葉に「はいはい」と返事するようになっていた。初めて返事をした時、彼女は目をぱちくりとさせていたが、すぐに心底おかしそうに口に手を当ててはくすくすと笑っていた。
それに彼女は二度行われた見合いの席以降、人が不快に思う程に踏み込んだ発言もしなかった。二人の間で交わされるのは取るに足らぬような些細な会話だけ……「昨夜の枝豆と蛸の炊き込みご飯はとても美味でしたわ」だとか「先週号の記事に載っている刀があまりに素敵で思わず切り抜いてしまいましたわ」だとか。彼女は宗也が話し出さない限り、彼の近況について聞いたりはしなかった。
それは別に自分の話だけ聞いてほしくて、他人の話には興味が一切ない、というような傲慢さからくるものではない。この一週間で彼が何か不快に思うような事件があった場合、彼の心を荒立てないように、という彼女なりの配慮であるのだろう。
いつのことだったか、彼女の部屋にやってきた宗也の機嫌がいつもよりもすこぶる良かった日があった。
その日の彼の話題は当然の如く『伯理のここが可愛いプレゼン』ではあったが、彼女は親身に話を聞きながらも「あらあら」だとか「まあまあ」だとか当たり障りのない相槌だけ打ってくれた……深刻な相談でもない限り、人は話を聞いてくれるだけで満足するということを彼女はよく理解していたのだ。
彼女があまりに聞き上手だったものだから、宗也は気付かなかった。伯理事情に関して危険因子であると警戒していた彼女に、自ら伯理の話をするようになっていたことに。
側から見れば、この二人の婚姻関係は初めから現在に至るまで酷く歪なものに感じられるだろう。しかし、意外にも婚約して以降、二人の間に不和が生じることはなかったのだ。
婚約から、二年目になるその日までは。
*
宗也の怒声ひとつが引き金となり、急遽執り行われた婚儀が終了し、晴れて夫婦になった……はずの二人。彼女の部屋に設えられた寝具に、宗也は女を引き倒し覆い被さった。
「そ、宗也様……今日は、今日だけはご容赦いただけませんか」
「するわけねえだろ、初夜だぞ」
「お願いです、本当に、今日だけは……」
「黙れ」
宗也は女がこれ以上ものを言えぬようにと、乱暴に口を塞ぐ。宗也が彼女に手荒く触れるのは二年前のあの日以来、初めてのことだった。
彼女は己の口内を蹂躙する宗也の体をぐぐっと押し返そうとするが、そんな弱々しい抵抗では拒否されているのか、逆に求められているのか判別が難しい。
玄力を体に巡らせることは出来たとて、男と女。そもそも宗也は漣家の上澄、濤の中でも一番の実力者……押し退けられるわけがないのだ。
最早、女にはくぐもった声を漏らしながら涙を流すことしか出来なかった。彼女は苦悶の表情を浮かばせギュゥッと目を力強く瞑りポロポロと涙を流し続ける……それは宗也が一度も見たことのない、彼女の負の表情だった。
この二年間ずっと彼に微笑みを向けていた、自身を愛し続けているはずの……彼の物であるはずの、女。
「っぃう……」
「……なんだよ」
息が苦しかっただけだ、きっとそうに違いない。宗也はそう考え、彼女の口を解放した。その代わりに彼は彼女の細い首筋にねっとりと舌を這わせる。どんな甘い声を聞かせてくれるだろうと、ほんの少し期待していた宗也だったが、それでも彼女の声から出てくるのは忌避の意が込められたものばかり……とても、彼を愛している女の反応とは思えなかった。
そんな声、彼が彼女の片目を奪った時でさえ聞かせたことなかったのに。
「や、やめて、おねがい……おねがいです……」
「……んでだよ」
「嫌、嫌なの、今日は……あしっ明日からなら、がんばれるから」
「嫌じゃねえだろッ!」
「ッきゃ……!」
ついに女の口からは淑やかな言葉遣いが消え失せた。もう彼女は子供のように泣いては許してくれと懇願するばかりだ。
明日からなら頑張れる、だなんて……それはつまり、彼女にとって宗也と体を交えるのは、頑張らねば出来ぬことだとでも言いたいのか。
宗也は苛立ちに任せ、彼女の身を包む着物の襟元を乱雑に引き下げる。それはとても高価な代物だったはずなのに、見るも無残に引き裂かれ……そこから露わになったのは、雪のように白い素肌。
日当たりの良いこの部屋には月明かりもよく通る。月光に照らされたその柔肌は、別の誰かの目であれば輝いて見えただろう……しかし、今の宗也の目には誰かの手垢によりベトベトに穢されたものにしか見えなかった。
それは何も描かれていないはずの裸体だというのに「上書きをしなくては」と宗也は焦燥に駆られたまま舌を這わせ、軟く膨れたところを食み、なだらかに窪んだところに吸いつき、赤が映えそうなところは強く噛みついた。
愛している存在から隅々まで喰らわれている最中だというのに、彼女はそれでもずっと「やめて、やめて……」と顔を覆いながら泣いている。
違う、違う俺のせいじゃない。全て彼女のせいだ、この女が悪いのだ。
夫婦となって最初の夜に行われる愛の営みが、まるで飢えに苦しむ肉食獣が、怯える小動物を食欲のままに喰い殺すような行為になっているのは……決して俺のせいではなく、目の前で泣きじゃくるこの女のせいなのだ。
宗也は激しく苛立ち、ギリィッと歯軋りをする。
「泣いてんじゃねえッ!」
「ひぎッ……!」
宗也はバシィッと彼女の左頬を思いっきり引っ叩けば、彼女の口から出たとは思えないような醜い声が漏れた。先程、身体中に咲かせまくった花と負けず劣らずの赤が浮かんだのを見て、ほんの少し胸のモヤモヤを晴らした宗也は、そのまま彼女に再び覆い被さり小さな貝殻のような耳に囁き始めた。その声は怨念がふんだんに込められた酷く……酷く掠れたものだった。
「お前は俺のことを愛してんだろォ……?」
「愛、あ、愛しています……私は宗也様のことを愛しております……」
「俺に娶られるためだけに片目を捨てたんだろォッ……⁉︎」
「はい……貴方に娶って頂きたくて、私は」
「じゃあ何でだよッ!」
「んぃッ……」
宗也は枕元に置いてあった紙束をばさばさッと乱暴に手に取り、女の眼前に突き出した。
「何っでお前はこんな奴が死んだくらいでそんなに心ァ乱してんだ、ァアッ⁉︎」
「ッ……」
それは新聞だった。そこには大々的な見出しでこう書かれている。
――『伝説の刀匠六平国重 死去』
彼女は片方の瞳でその短い見出しをスゥッとなぞると「う、うぁあ……」とまた泣き出した。そんな彼女の弱々しい姿に宗也はビキリッと米神に青筋を立てて、女の頬を再度張り倒す。
「このっ……阿婆擦れが……!」
宗也は肩で息をしながら、二度目の見合いの日の彼女の言葉を思い返していた。
お前は自分で言っていたではないか。
俺が理想の男だと。この白い髪と青い瞳が良いと。
俺がお前を愛さずとも、お前は俺のことを一生愛すと……俺のことを愛していると!
「なんで、お前はそんな、一度も会ったこともねえっ! 話したことすらもねえ、男の写真ひ、とつ……で……?」
そして、こうも言っていた。
生涯の恋心はこの人にだけと、写真一つで決めてしまうような一途で莫迦で……酷く、愚かな女だと。
「お、まえ、まさか……」
宗也は震える声で、辿々しく声を漏らす。
この女は、いつも会うたび宗也に「愛している」と言っていた。
それだけは確かだ。
だが、彼女は……彼に「恋しい」と言ったことが一度たりともない。
「おい、違うよな……?」
「……」
「なあ、おい、なんか、言えよ……言えッ!」
「ぅ、イッ……」
「愛してる、だけじゃなくて、俺のことを……この俺を!」
宗也は彼女の髪を掴み上げ、耳元で叫んだ。
「この俺を恋しいと言えッ!」
彼は気付いているのだろうか。自分が今、自身の手によって組み敷かれた女よりも……ずっと醜い泣き顔を晒しているということに。
先程まで抱いていた怒りが、悲しみに移り変わってしまっていることに。
懇願する者と懇願される者の立場が、逆転してしまっていることに。
「……ねえ、漣宗也」
手酷く扱われているはずであるのに、彼女はいつの間にか落ち着いていた。
それどころか、今では彼のことを心の底から見下すような視線を向けている……組み敷かれているのは彼女の方だというにも関わらず。
「お前、何を勘違いしているの?」
そして、ようやく彼女の口から発せられたものは、それが彼女のものとは思えないほどに雑な言葉遣いと冷酷な声だった。
「私はお前を恋しく思ったことなんて、ただの一度もありゃしないわよ」
あれは、彼女がまだ九歳の頃のことだ。彼女は執事に日本史について教わっていた。そして、斉廷戦争についての教材を眺めていた時に、その写真を目にしてしまったのだ。
ツンツンとした硬そうな黒髪に、力強く燃えるような真っ赤な瞳を持つ男だった。
とうの昔に隠居してしまい、写真でしかその姿を目にすることしか叶わぬ、伝説の刀匠……その名は六平国重。
彼女はその男の写真を見た瞬間、腹の底から湧き上がる炎にその身を焦がされるような恋心と……この人と自分が結ばれることなど、何があろうが決して叶わぬことなのだ、という絶望を覚えた。
それでも、この恋を終わらせることはどうしても出来なかったのだ。
それならば……せめて、せめてこの恋を霞ませないような結婚をしなければ。
誰もが欲しがるような麗しい乙女となり、母数を増やせるだけ増やして理想の殿方を確実に手にしなくては。
「お前は都合が良かったのよ」
自分の弟に心の底から陶酔しきり、それ以外の……家族のことでさえも無関心な名家の長男。決してこちらに恋心を向けることのないであろう、無彩色の瞳を持つ男。
彼女はずっと、そんな男を求めていたのだ。
彼女を求めようとしない、無関心な男を。
「ねえ、貴方ご存知? 恋する女にとって、想い人以外の人間から向けられる恋慕は鬱陶しくて、気色が悪くて、怖気に苛まれて仕方ないものなのよ?」
そして、そんな恋する女が最も嫌うことは、別の男に想い人の幻影を重ねてしまうことだった。
髪を掴み上げたままの宗也とは違い、彼女は彼の髪に指をゆっくりと通しくるくると弄んだ。その手つきは優しく、優しく……いっそ残酷な程に心地良いもので。
「ああ、そうそう。実は私……お前に傷物にされた後も、本当は幾つか縁談話が来ていたのよ?」
見た目がほんの少し悪くなったところで、彼女の気品の高さは変わらない。そんな彼女と真剣に結婚したいと思っていた男達は、少なかったとしても確かに存在していたのだ。
それに彼女の妖術は精神干渉。話術で相手の男に少しでも好印象を持たせることが出来たのなら、その後に婚約まで話を持っていくことは造作もない。
「まあ、その縁談話はどれも相手方とお会いする前から全てお断りさせて頂いたけれど」
そして、彼女は見た目などに左右されぬ男達よりも、傷物にした張本人である漣宗也の方を選んだのだ。
「漣宗也……私はね、絶対にお前じゃないと駄目だったのよ。だって、貴方はものの見事にぜーんぶ逆なんだもの。柔らかい白髪に、真っ青の瞳。間違っても私が想い人と重ねることのないような見た目だったのだから」
彼女の左目は失明している。だというのに、宗也にはその灰の瞳の奥にギラついた執着の色が揺らめいて見えた。
「お前は私の理想そのもの。この私に対して恋も愛も持ち得ぬ程に無関心……だったのに、そのザマは何? よくもそんなに泣けたものね。興味もない女の恋心が、実は別の男の物だったってだけで……ずっとずっと要らぬとさえ思ってた癖に」
「……! 違ッ要らなくなんか」
「違わないでしょうが。貴方、碌に私の名前すら覚えていないじゃない」
「……ッ」
宗也はそう指摘されて、初めて気付いた。宗也が今、縋り付いている女の名前を、彼は一度たりとも呼んだことがないどころか……覚えようとしたこともない事実に。
言葉を詰まらせた後も、記憶の隅から一人の女の名前すら引き出すことの出来ない愚かな男を見つめる女は……なんてみっともない救世主なのだろうと、思わず微笑んでしまう。
そう、彼女にとって漣宗也は理想の男であると同時に、救世主でもあったのだ。
想い人に全く似ていない男が婚姻を結んでくれたおかげで、あんなに身を焦がすような苦しみを覚えるのは生涯、一人の男だけで済む。
あんなに美しかった自分を、無数の男達の劣情の的から外れるように醜くもしてくれた。
他の誰に邪魔されることのない、恋しい男について浸れる一人の時間もたっぷりと与えてくれた。
既に別の男に心臓を滅茶苦茶にされていた……とっくの昔からの『傷物』の女にとってこれ以上の幸福はなかったのだろう。
だからね? 漣宗也。
「そんなお前だから、私は貴方を一生愛し続けられるのよ」
一体、何がいけなかったというのだろう。
今日、いつも通りに読物として新聞を彼女に渡さなければこんな想いをすることはなかったのだろうか。
新聞の見出し食いついた、初めて目にする彼女の動揺にさえ気付かないような無関心なままの男でいられたら良かったのだろうか。
そうしたら、こんなに身を焦がすような苦しみを覚えることはなかったのだろうか。
「ぅ、あ……あぁあ……」
「あらあら」
いつの間にか宗也は彼女の髪から手を放し、子供のように弱々しく泣き崩れていた。妻となったばかりの女の胸に顔を埋め「嫌だ、嫌だ」と呻くばかり……まるで音の鳴る人形のようだ。
そんな哀れな夫の髪を……妻は一房ずつ、ゆっくりと心の底から愛でるように撫で始める。
「……宗也様、」
そして、小さなナイフで彼の心に二度と消えぬ傷を刻むかのように、こう言うのだ……二年前、彼が彼女の額に、そうしたように。
「私は貴方のことを、深く深ぁく……愛していますわ」
もう彼は耐えきれなかった。
ぐぎゅぅっと喉を醜く鳴らした宗也は、次の瞬間にはうおん、うおんと絶叫し始めてしまう。
それでも妻はニコニコと微笑みながら、夫の髪を撫でるのをやめない。
「……やはり、貴方は存外可愛らしいお方ですの」
暫くの間、妻は号泣し続ける夫の頭を優しく抱きしめていたが……彼は妻の胸に顔を埋めたまま、一向に泣き止む気配がなかった。
小さな泉が出来てしまうほどに胸元を濡らされた妻は仕方がないな、といった様子で目の前の哀れな夫の頬に手を当て、クイと前を向かせた。
「う……」
「こーんな愛の言葉一つで惨めに喚き散らすだなんて、まるであの時と一緒ですわ」
そうして、彼の唇に己のそれをそっと重ねた……まるで、特大の愛で彼を包むように。
「そんな愛する夫がこんなに泣いているのだから妻としては頑張りどころ、とも言えますわね」
ねえ、宗也様。私やはり、撤回致しますわ。
「今宵は私のことを、たっぷりと甚振ってくださいませ」
夫を見つめる女の瞳は宵闇を閉じ込めたような漆黒であり、もう片方の瞳はまるで曇天の空のような見窄らしい灰だった。
宗也にとっては、そのどちらもが……酷く蠱惑的だった。抗えるわけが、なかった。
その夜、月明かりは激しく重なる二人を照らし続けていたという。
*
女は己を背後から抱きしめる夫の熱を感じながら目を覚ました。
頸にはふぅふぅと、生暖かい寝息が絶えず吹きかけられている。
女からは見えなかったが、目元は化粧でもしたのかと思えるほどに赤く彩られていた。
「……暑苦しい」
嗄れた寝起きの一言はこれだった。
彼女は痛む身体に鞭を打ちながら身を捩り、夫の腕から逃れようとするが……寝ているというのにも関わらず、彼の拘束は非常に強くどうやっても逃れることが出来ない。
眠りながらも妻に縋り付く夫から、脱出を早々に諦めた女は溜息を一つ吐き、彼が目覚めるまでそのままでいることにした。
「ねえ、宗也様。貴方、今回は気付いていましたか?」
女は昨夜、妖術を使用した。
彼の感情が、怒りから悲しみに移り変わったその瞬間から、宗也は既に彼女の掌の上だったのだ。
「流石の私も痴情のもつれからの怒りで殺されるのは御免でしたからね。怒り以外の感情に夢中になって頂きましたの。心中にまで踏み込まれなくて幸いでしたわ……まぁ、似たようなものではありましたが……」
彼女はぬとりと太腿に纏わりつく体液から、昨夜の凄惨さを思い返しては溜息を吐いた。
アレは本当に酷かった。
生娘であったことも原因の一つだが、宗也に肉欲を抱けぬ彼女の蜜壺は濡れ難く乾き易い。辛うじて、防衛本能によりしっとりと濡れてはいたが、やはりその程度。むしろ潤滑油の役割を果たす汁を出していたのは宗也の方ではないか、と思わせたほどだ……もっとじっくり時間をかけて嬲ってくれたのなら話は別だったろうが、昨夜の彼にそんな余裕を期待するだけ無駄である。
ただでさえ体格差があるというのに、そこへと無理に割り込まれた時の身を裂くような痛みは筆舌に尽くし難く、彼女は冗談ではなく本当に殺されてしまうのではと思ったものだ。
そして、宗也も。
痛みを覚えるほどに強い締め付けと、衝撃に悶絶しつつ必死に耐える彼女に興奮しながら……悲しみと虚しさを腹の底から何度も何度も撃ち放っていた。
涙、鼻水、涎で顔中を汚し上からも下からも体液を垂れ流し続ける様を眺める彼女からすれば……夫が溺れ死んでいく様を目の前で見ているかのようで。
あれは最早、愛の営みというよりも、二人とも生きたまま心中し続けているようなもの。どうせ宗也なんぞに人を優しく愛する才能などないだろう、と踏んだから「甚振れ」と彼女は言ったが呆れるほどに予想通りであった。
しかし、散々な交わりだったとしても……悦楽から逃れられず苦しみ、みっともなく「嗚呼、嗚呼」と喘ぎながら腰を振る宗也の姿だけは、彼女に痛烈な爽快感を覚えさせた。
ああいうところは、本当に可愛らしい……宗也は彼女の嗜虐心を煽るのが随分と上手いのだ。
それ故かついついやりすぎてしまった、と彼女はほんの少し後悔する。
「……ねえ、宗也様」
どうやら、彼女は少々加減を誤ってしまったらしい。引き際を間違えた強い感情は、術を解いた後でも尾を引いてしまうようだ。
「私は宗也様のことを愛していますわ、本当ですのよ? 私は宗也様のことを一生愛し続けます。貴方が私に何をしても、何もしてくれなくとも……私のことをどう想おうとも、私は貴方を愛し続けます。そう、たとえ……」
実のところ、宗也が妻のことを愛しているのかどうかは分からない。
何故なら、彼女は愛されるより愛したい派。
故に、愛の受け取り方が分からない。
それでも明確に分かることだけが一つだけあった。
「私を包む宗也様の逞しい腕が、私にとって鬱陶しくて、気色が悪くて、怖気に苛まれて仕方ないものだとしても……それだけは、決して変わらないわ」
漣宗也が、名も知らぬ女に恋をしたということを。
「……それにしても哀れな男ね。身に余る欲に逆らわず手を伸ばした罰がそれよ。二度と消えぬ炎の上で無様にのたうち回るといいわ。永遠にね」
貴方も、そして私も。
そうして女は……夫の腕に抱かれたまま、恋してやまぬ別の男の死に想いを馳せては、つつと涙を流し、もう一度静かに眠りについた。