桜餅と桜色のもちもちと


 もう三月も後半になる。
 それが何を意味するか……それはもちろん、我々が心寂しく耐え忍ぶ極寒の季節を乗り越え、若芽の芽吹く春を迎えられた、ということである。
 冬が悪い、というわけではない。それでもどこか喪失感を覚えてしまうことは、最早仕方ないことだと私は思っている。何故なら、どうしたって人という存在が安心を覚える為に必要なのは『ぬくもり』であると言えるだろう。冬というものは、その優しい温度を何の感情もなく奪い去る冷たい風を常に私達の周りを覆ってしまうのだ。
 でも、今まで、それに耐えた。耐えてきたのだ……!
「つまり、私は何の罪悪感を覚えることなく、桜餅を思いっきり頬張れるということなんだよチヒロくん」
「ちょっといい話にしようとしても無駄だからね。一個だけだよ」
「けちっ!」
「決してけちじゃない」
 別にいいではないか、桜餅を夕飯前に三個食べたって! え、何? 夕飯が入らなくなるだろうって? それはそう……。
 ピィンとほど良く己を律することの出来る冬を乗り越え、私たちを待っていたのは『春眠暁を覚えず』という諺を生み出す、ぬくもりと同時に気の弛みを与える春なであった……春歌秋冬、いついかなる時でも己を律することの出来るチヒロくんに、お皿に可愛い可愛い桜餅を三つ並べているところを見つかってしまい、私はどうしてもバツが悪くなってしまう。
「別に食べてもいいけど。忠告したのにも関わらず、腹持ちのする桜餅を多く食べて……その結果、俺の作る夕飯食べられないとか言ったら、明日以降から桜餅なんてもう食べさせないからね」
「すみませんでした」
 チヒロくんは凄いなあ。絶対に有無を言わさぬ条件を出してくるんだから……やっと春になったのに桜餅テイスティーチャンスを奪うとかそれはもう死刑宣告なんだよチヒロくん。
 私はわざとらしくひんひん泣き真似をしながら桜餅を二つほど箱にしまい、白い皿にポツリと一つだけ乗った桜餅を全力で楽しむことにした。
「チヒロくんは桜餅、食べたりはしないの?」
「え? いや……甘いものの最もたるお菓子でしょ、餡子系はさ」
「そうだけどさ」
 長い付き合いなのだからそれくらい分かるだろうに、と言いたげにチヒロくんは不思議そうな表情になる。もちろん、チヒロくんが甘いものが苦手なことくらい私は知っている。それでも、私は『勿体無いなぁ』と……どうしても思ってしまうのだ。
「だって、桜餅って……甘いのもそうだけど、春になったなぁっていう風情があるじゃん。しかも、こんなにピンク色で可愛いし。そういうの、桜餅と一緒にチヒロくんと味わえたらなぁってさ」
 私はポツリとそう零して、フニフニとしたピンク色の生地を指で丁寧に掴む。いまだにこの感覚は、何というか慣れない。ああ、潰れすぎないで出てこようとしないで餡子さんステイステイ。
 まあ、甘いものが苦手なのなら仕方がない、と私は「あー」と言いながら桜餅を口に……
「……ほォッッ⁉︎」
 運ぶことはできなかった。
 私は驚きのあまりに、白いお皿にぼとりと桜餅を落としてしまったのだ。私が一体何に驚いたか。それは私の左頬に感じる、何かに啄まれたかのようなくすぐったい感覚……。
「ごめん。ピンク色に染まってる可愛いほっぺを桜餅と間違えた」
「なっ、ん、そっそれは無理あるくない⁉︎」
「間違えた」
「あくまでそれで通す気なの⁉︎」
 そう、いきなりチヒロくんにほっぺちゅーを頂いてしまったのだ! な、何だそのすんっとした顔は! ほんとっチヒロくん、そういうところある!
「確かに季節のお菓子を食べるのは風情を感じるにはいいね」
「無視しちゃうのかっ! こ、このっ可愛いほっぺの持ち主の私を⁉︎」
「でも、やっぱり俺はお菓子は苦手で食べられないから、可愛いほっぺ持ってる好きな女の子と開花の日にでも花見に行きたいな」
「すっ……んん嘘でしょ。あんなに長い時を共に過ごしたのに私の声が一切届いてない……!」
「桜の下でなら桜餅を思いっきり頬張っても良いと思うんだけどな」
「よろしくお願いしまぁすッ!」
 どうやら、春歌秋冬、いついかなる時でも己を律することの出来るチヒロくんでも、ついつい浮かれてしまう時はあるようだ……と、どこか嬉しそうに微笑む彼の横顔を見ながら、私はやっとあむっと桜餅にありつけたのだった。
 あぁ、甘い甘い。