「え、クリスマス?別にやらなくてもいいでしょ」
今年もあと1ヶ月という年の瀬の寒い季節に、ふたりの逢瀬のために借りたナイフラストのアパートで、炬燵を囲みながらみかんを食べる。そんな穏やかな空間で、斎はぴたりと動きを止めた。
ふたりで過ごす初めてのクリスマスをどう過ごそうか?という斎の疑問に対するギルバートの答えが斎の予想に反していたためだ。
ギルバートは夕食後に読み始めた本にすっかり夢中で、固まったままの斎に気がつくことなくぺらりとページを捲っていく。
「だいたい男ふたりでなにするっていうのさ、クリスマスに」
ギルバートの視線は上から下へ。また上に戻って下へと美しい文字の羅列を読み進めていく。
「恋人と過ごすクリスマス」に浮かれていた斎。てっきりギルバートも「そう」なのだと思っていただけに、淡白な対応をされて頭が追いつかない。すいすい進んでいくギルバートの視線とは裏腹に斎の思考は停滞していた。
しかしいつまでも黙っているわけには行かず、斎はみかんを剥きながらゆっくりと口を開く。
「そうだよねえ、忙しい時期だし」
「僕も教会のミサの準備とか、店の方もクリスマスに向けた期間限定メニューが思ったより人気で忙しくなりそうなんだよね」
白い筋がひとつもないみかんの粒を斎の手から食べて、ちらりと本から目を離す。「アンタも似たようなもんだろ」と問いかけて、斎が曖昧に頷くのを見てギルバートは不審感を抱いた。もっと駄々をこねると思っていたし、「まあね」と歯切れの悪い斎の様子はどこかおかしい。
しかし、そうは思いつつもついつい本の続きが気になってしまいその場で言及することはなかった。
昔からお世話になっている知り合いの御侍に貸してもらったのだが、これがなかなかどうして面白くて先ほどからページを捲る手が止められないでいるのだ。せっかく忙しいふたりが一緒に過ごせる時間に、申し訳ないと思いつつもゆっくり本を読める時間もまた貴重なため許してほしいと思う。
こうしてふたり、同じ空間にいるだけで幸せを感じるようになったのはいつからだったか。特別な何かをしなくても心が満たされていくのだ。
「なにかしたいことがあった?少しなら時間取れると思うけど」
「いや、いいよ。俺も忘年会シーズンで忙しいし、特になにがあるってわけじゃないから」
「そう?」

その日の夜は、本を読み終えたギルバートが斎の眠るベッドにそっと潜り込んで静かに眠った。



「で、そんな辛気臭い顔をしているわけかい?話終わったんならさっさと帰ってくんな、客が逃げる」
「うっせえ、傷心なんだらもっと優しくしろよ」
「いつものお愛想振りまいたお前さんみたいに?御免だね」
翌日。
斎が目を覚ました時には一緒に眠ったはずのギルバートの姿は既になく、斎は冷たくなった部屋にひとり取り残されていた。がらんどうとした部屋に居続けるのもなんだか癪で、こうして千耀が経営する店に足を運んで居座っている。
ショコラティエの千耀の城であるこの「Reine du chocolat」という店はチョコレートとコーヒーとアルコールが楽しめるカフェバーである。開店はランチの時間帯からで、軽食も舌を巻くほど美味だと巷では有名だ。
すでに仕込みは済ませてあるとはいえ、開店前の早朝に押しかけてきて「コーヒーを飲ませろ」という斎の我儘は千耀にとって傍迷惑な話だった。
そのうえ理由が「恋人とうまくいってない」とは、犬も食わない話にため息を禁じ得ない。
節くれだった千耀の手がコーヒーをカップに注ぐ。ソーサーにはチョコレートの切り落とした端が不恰好な姿でころりと転がっていた。
「チョコレートは人を幸せにする」千耀の口癖だ。
だから斎はここへ来た。千耀が作ったチョコレートもコーヒーも斎の落ち込んだ心を温めてくれる。まあ、作り手が辛辣なので今日ばかりは効果もイマイチといったところだが。
昔より皺の増えた手がグラスを磨く様子を眺めながら、またひとつため息が溢れてコーヒーの海に溶けていく。
「しょうがないだろう、あの子も忙しいんだから。それにクリスマスは家族との特別な思い出があるし、ぽっと出のお前が土足で踏みこめるわけないだろう」
「そーーーーーなんだけどさあ」
不機嫌丸出しの声で返事して、家族との思い出を神聖視している節のあるギルバートのことを思い浮かべる。
出会ってから紆余曲折あってやっと今の関係に落ち着くことができた。それでも彼が家族のことを思った時間を前にすると、ギルバートにとって斎はまだまだ新参者で、けして一番ではない。
もちろん彼の一番になりたいし、今現在諦めたわけではないけれども。その道のりはきっと困難なものになるだろう。
理想と現実の差にがっくりと肩を落として意気消沈したところで、はたと気がついたように斎は千耀の顔を見つめた。年々皺が増えて、その溝が深くなっていく顔に時間の流れを感じながら斎が訝しげに口を開く。
「なんでジジイが訳知り顔なわけ?」
今まで恋人の話をしてきたことは幾度とあったけれども、個人を特定できるような情報は伝えていないはずだった。恋人の名前も、家族のことも。
だというのにギルバートのことを知人のように話すものだから、思わず面の奥で眉間がぴくりと皺を寄せた。
「近くの教会の神父だろう?知ってるよ」
「・・・・・・」
「あの子も時々ここに来ては話していくからねえ、秘密の恋人の話」
ふたりの話を聞いて、共通点が多々あることに気がついたのだという。
まさかギルバートもここの常連だったとは・・・。
知らなかったこととは言え自分の迂闊さにほとほと呆れる。頭を抱えた斎に更に追い討ちをかけるように千耀は言葉を続けた。
「まあ、あの子が御侍になってからの付き合いだし、相談しやすかったのかもね」
「は・・・?」
あからさまに斎の面が不機嫌になったことを示して、千耀が肩を竦める。まったく心の狭い男だ、と。
そうして千耀が「男の嫉妬は嫌われるぞ」だの「余裕がない男はこれだから」だの茶化すものだから、斎の機嫌はどんどん下降していった。
更には昨日彼を夢中にさせた本の出どころが千耀であると察した斎の気分は、もう最悪と言って過言ではない。おかげで久々の逢瀬だというのにちっとも構ってもらえなかったのだから。
「昔、お世話になった御侍」の存在は前々から知ってはいた。事あるごとにギルバートの口から話題に上がるからだ。
よくしてもらっている。尊敬している。信頼できる。
ギルバートが語る「彼」の存在は斎にとって目の上のたんこぶだった。
それでも今まで黙って聞いていたのは、年齢も離れているようだったし「父親」の影を求めているのだろうと察することができたからだ。とはいえ恋人から聞かされる「他所の男」の話はやっぱりいけ好かなかったけれども。
ただ、斎がギルバートの父親になることは不可能だったから。彼が追い求めているのが父親だと知っていても、斎がなりたかったのは恋人だった。だから黙って聞いていた。彼の「父親」の話を。
しかしまさかその父親が千耀だったとは。寝耳に水である。
正直、驚きよりも苛立ちの方が大きかった。というよりも、千耀の言う通り男の醜い嫉妬だ。
自分よりも先に出会い、付き合いが長い。頼られ、尊敬され、好意を寄せられている。
聞けば、一緒に料理もするし映画を観に行ったり流行りのカフェを巡ったりしているそうじゃないか。デートみたいに。
俺は気軽に会うことさえ難しいのに、と。
斎にとって、架空の人物からよく知る男に変わったことによって、今までひた隠しにされていた嫉妬が見事に露見した。
「ほんとまじで冗談でなく死んで欲しい・・・」
「物騒なこと言ってあの子に嫌われても知らないよ」
「あーーーーーー腹立つ!」
この男の口からギルバートの話を聞くのはごめんだった。
財布からコーヒー代を出して、磨き上げられたテーブルに叩きつける。せっかくコーヒーでいい気分になれるかと思ったのに台無しだ。元々はクリスマスを恋人と過ごせない傷心を癒しに来たと言うのに。
「クリスマス、無理強いするんじゃないよ」
「わぁってるよクソジジイ!」
背中にかけられる声に、心の中で中指立てて乱暴に返事をしながら斎は店をでた。
ナイフラストの気候は桜の島に比べて寒い気候のため、ちょっと吹いた風も斎には骨身に沁みた。刺さる痛みにも似た寒さに、自然と身は縮こまって背中が丸くなる。
体も心も冷え切っていた。


カランコロン、と扉のチャイムが鳴る。
冷たい風とともに店内に入ってきたのは、神父服に身を包んだ青年だった。少し褪せた色の金糸が店の照明に照らされてきらきらと光を放ち、新緑を彷彿とさせる緑色の瞳が、カウンターの千耀を捉えて嬉しそうに細められる。
「今日は先客万来だね」
「すみません、開店には少し早いと思ったのですが時間が出来たので・・・他にも誰か?」
「いやいや、気にしないで。ちょっと不出来な息子がね」
「・・・息子さん、いたんですね」
「気になるかい?」
「ええ、まあ。正直気になります」
素直だねえとくつくつ笑う千耀に青年、ギルバートは恥じ入るように俯いた。
家族について話を聞いたことはなかったが、てっきり独り身なのだと思い込んでいたため息子がいたとは驚きだった。しかも千耀に「不出来」と言わしめる息子とは一体・・・。
「今日も朝早くから恋人とクリスマスを過ごせそうにないって嘆いていたよ」
「クリスマス、ですか・・・。恋人と過ごすことがそんなに大事なんですかね?僕にはよくわからなくて」
ギルバートは昨夜の斎との会話を掻い摘んで説明した。
本を読んでいる間も、眠って起きてからもずっと気になっていたのだ。浮かない表情で身を引いたから尚更に。
あの時抱いた不審感の正体を解明するべきだったのではないかと、ギルバートの胸にしこりのように残っていた。

クリスマスは家族と過ごすものだった。
父親がいなくなってからは母とふたりで。それも最近は教会や店、御侍としての仕事が忙しくなったことを理由に、クリスマス当日に会いに行かなくなった。
病状が回復してきたとはいえ、時々自分の息子のことすらわからなくなる母。ギルバートの事を看護師だと思い込む母親に付き合うのは精神的苦痛を伴った。
そして現実逃避のように昔のことばかり思い出してしまう。楽しかった日々を。
快活に笑う父親がいて。母の顔は今のようにかさかさに乾燥して痩せこけていなくて。
ふくよかな頬を緩めて笑った母親の笑顔と、手作りのクリスマスケーキ。
頭を優しく撫でてくれた手は、今では白いシーツの上で力なく横たわっているだけ。ぴくりとも動かない。
あの頃、両親のいないクリスマスなど想像もできなかった。両親よりも大切なものなどないはずだった。ましてやふたりを差し置いて、クリスマスを過ごせるはずもなかった。
ましてや家族の思い出を上塗りするなんて、そんなこと・・・・・・。

俯いてカップの中のコーヒーを見つめるギルバートの頭にふいに重みが加わった。
視線を上げると、苦笑した千耀に頭を撫でられていることに気がつく。久しぶりに感じる重さに、ぴんと張り詰められた糸が緩んだ気がした。
カップの白い縁がじわりと歪んでぼやけていく。輪郭があやふやな視界の中で、カラメル色の水面に幾重にも輪ができて広がっては消えていくのを眺めた。
「私はね、ギル坊に素敵な一日を過ごしてほしいと思うよ。今に幸せを感じることが過去を冒涜することにはならないし、過去の幸せが消えるにはならないんじゃないかい?」
それはアルバムに写真を並べていくことに似ているのだと千耀は言った。開けばいつでも色褪せることなく蘇る。消えることなどないのだと。
「家族とのクリスマスが“特別”なのはわかる。でもギル坊は今生きてるんだから、過去に囚われすぎてはいけないよ」
「・・・ギル坊、」
「ん?」
「いえ、彼も出会った当初は僕のことをそう呼んでたなって思って。そういえば少し千耀さんに似ている気がします」
「ああ、なるほどね」

愚息のこと、よろしく頼むよ。

「えっ」
跳ねるように顔を上げて、その言葉の真意を聞き出そうとしたがタイミング悪くカランコロンと音がして、千耀は接客のためにその場を後にした。
ボックス席に座る客の元へと向かう千耀の背中を見て「出来の悪い息子」「愚息」について考える。

まさかね。

戻ってきた千耀にコーヒー代を渡してギルバートは店を出た。
おつりと一緒に貰ったチョコレートの切れ端を口に放り込んで、じわりと溶けていくチョコレートの滑らかな口どけを楽しむ。少し甘い味に練り込まれた柑橘系のピールの苦味。
クリスマスに向けてますます気温が下がったナイフラストの空気にカカオの香りが溶けていく。
口から吐き出される白い靄と一緒に、寒がりの彼のことを思い出すと頬が緩んで心がじんわりと温まった。