水戸が優しいのは誰に対してもだったので、私は勘違いをする前に気がついたので、深く傷つかなくて済んだので。そうやって言い訳を並べているうちに、頭の中も胸の中も水戸でいっぱいになっていて、水戸が私だけに優しくしてくれないかと願ってしまうのが悔しいようなずるいような気持ちで、多分私は水戸が好きなんだと気がついたときには息をするのも苦しかった。
同じクラスになって、水戸がそんなに怖い人じゃないと知ったときホッとした。不良と関わるような人生を歩んできたわけではなかったから、少ない小遣いをカツアゲされるのではないかと毎日が不安だった。抵抗できる自身もないし、言い返すことができるほど勇気もない。水戸はそういうことはしない。多分。少なくともクラスメイトには。それを知ることができたのは、水戸が意外と回されたプリントをきちんと後ろの人に渡したり、昼休みに決して不良ではない男子と楽しそうに話していたり、文化祭の出し物を決めるための話し合いにもきちんと意見を出していたからだと思う。教室の中の水戸は、不良ではなかった。ただの生徒だった。
ただの生徒の水戸が好きになった。
クラスでの私の立ち位置は上の方ではないし、かといって下すぎることもなく、平凡中の平凡で、だからこそ目立つ要素もなく、多分ずっと地味だった。そんな私の名前を水戸が知っているとは思わなかった。
先生にクラスの全員分のノートを集めて職員室まで持ってきてと言われた日。どうして、と小さく抗議すれば日直でしょと言い返され、なにも言えなくなったあの日。一冊ノートが増える度に重たくて嫌だなあと思ったその日。水戸だけ、ノートの中身が全く進んでいなかった。
「ごめんね、俺あんまり頭良くないから。ミョウジさん、先に出してきていいよ。俺、あとで自分で出すから」
水戸は困ったように笑って、ノートと向き合う。当然のように名前を呼ばれたことに、私はそれがその月で一番驚いたことだったけれど、水戸からすれば当然のことだったのか、まるで気にしていない。そうして、よくよく考えれば同じ教室にいながらも私はそれまで水戸のことをじっくりと見たことがなかったことにも気がついた。不良がノートと向き合う姿というのは不釣り合いで、物珍しくもあり、どこかおかしい。でも、笑うには失礼なほど水戸は真剣だった。
「あの、よければ教えましょうか」
そう言うと水戸は顔を上げて
「ほんとに? ていうかなんで敬語?」
と、眉と目尻を下げて笑った。
水戸はそれからことある事に私を頼って、私もその度に水戸に付き合った。放課後の教室でふたりきりになって、勉強のこと以外話すことがなくて、窓の外を見ると日が沈んでいくところだったり。真剣に問題を解く水戸はとても不良とは思えなかった。大きな拳が鉛筆を握っている。それを眺めている地味な私。不思議な光景だと思う。
「母親がさ、高校くらいは出ておけって言うんだよ。そしたら、留年するわけにいかなくて」
暮れていく空を見ながら、水戸が言う。問題は解き終わっていたのに、私たちはそこから動かなかった。
「水戸も人の子なんだね」
それは素直な気持ちだった。私の知らないどこかで喧嘩をしているかもしれない水戸も、不良を全うしている水戸にも親がいる。言ったあとで失礼なことを口にしたと思った。慌てて謝ろうと水戸を見ると水戸は笑っていた。
「当たり前だろ、おかしなこと言う人だな」
水戸は不良だけど、この学校の生徒で、私のクラスメイトで、そして、好きになってしまった人だった。
冬が近づいて空が暗くなるのが早くなってくると水戸は私を送ってくれるようになった。そんなことはしなくていいと断ったのに、勉強を教えもらうお礼だと言って譲らない。しかし、家まで着いてこられては偶然帰ってきた父や、郵便物を取りに出かけた母に水戸を見られるかもしれない。不良の水戸が私の隣を歩いている。それだけで両親を不安にさせかねないので、間をとって駅までにしてもらった。水戸は遠慮しなくても、と文句を言っていたけれど聞こえないふりをした。
私と水戸の家は逆方向だったので改札を抜けるとそこで別れることになる。学校から駅は近い。短い時間を私と水戸は勉強の話ばかりに費やす。それしか共通点がなかった。つまらないだろうなと思いながらもほかになにを話せばいいのか分からない。でも水戸は顔に出さない。真剣な顔で話を聞くし、質問もしてくる。改札を抜けると時間が終わる。また明日。そう言って私とは違うホームへ歩いていく背中を何度も見た。水戸は振り返らないので私がその背中を見つめていることは知らない。
水戸がテストでいつもよりもいい点を取ったと嬉しそうに報告してきた。その声が少し大きかったので、教室にいた何人かが、どうしてと水戸に聞いた。それは不良だったし、元々成績もあまり良くなかったから単純な疑問と、よかったねという気持ちから出たものだったのだろう。
「ミョウジさんのおかげ」
水戸が私の名前を出したおかげで、教室が騒がしくなる、なんてことはなく。教えてもらった、とだけ言えば納得され、水戸の点数が良かったせいで、じゃあ私も教えて欲しいという人が何人か現れた。水戸には教えるのに他の人には教えない、なんて言えるわけがなかった。
放課後、水戸と過ごす時間は以前よりずっと減った。水戸の方が遠慮するようになって、その代わり他の悩んでいるクラスメイトに勉強を教えている。窓の外の暮れていく空を眺める。話すことはないくせに、楽しかった気がするあの時間を思い出す。
水戸は優しい。だから、私が他の誰かに教えていれば身を引くし、誰かの成績が上がればそれも喜ばしいことだと受け止める。勉強に時間を費やすことが少なくなった水戸は元々やっていたバイトをさらに増やしたようで、放課後はほとんどすぐに帰った。さようなら、ミョウジさん。そう言われる度に胸が苦しかった。なんで敬語なのと笑って、真面目に勉強をする理由を教えてくれて、お礼と言って送ろうとしてくれて。水戸に会いたかった。
帰ろうとする水戸の名前を呼ぶと、廊下に出たところで水戸が止まる。
「どうしたの、ミョウジさん」
「どうもしないけど、水戸元気かなって」
「心配してくれてるの? ありがと。元気だよ。ミョウジさんは?」
「私も元気」
「ふーん、よかったよ」
早々に話すことがなくなってしまう。なにかを言わなければ、水戸は帰ってしまう。水戸。名前を呼ぶと目が合う。
「勉強しよう」
もっと気の利いた言葉を言うべきだった。思い浮かばなくても、もう少しひねるべきだった。でも、水戸はそれを受け入れた。
「今日はバイトもないし、お願いしようかな」
部活へ行く人、遊びに行く人、帰る人。そうやってひとりひとり教室から減っていくと、ふたりきりになってしまって、だからと言って話す内容が浮かばなかった。同じ教室で過ごしている仲間にこれ以上元気かどうか聞くのもおかしな話だ。いつかのように窓の外を見る。暗くなるのが早くなったせいでほとんど太陽は見えなかった。そのかわりに星が少しだけ見える。水戸が鉛筆を動かす音が聞こえるあいだ、星を数えた。
一番星に願いをかけると叶うと聞いたことがあった。目の前の空には一番星どころかいくつかの星が瞬いている。そんなのジンクスだと分かっている。どこかで信じたい気持ちが人に願いをかけさせるのだたと。私は願いは叶わなくてもよかった。元々、叶うこともないだろう願いに期待を寄せてもあとが悲しいだけだと知っている。
「ほんとうは水戸にしか教えたくない」
だから私がそう口にしたのは願いじゃなくて、ただの本心だった。鉛筆の音が止まる。
「それって、面倒だから? それとも、そういうこと」
水戸の方を見ることができなかった。
「多分、あとの方」
言わないで後悔するより、言って後悔した方がいいと誰かは言う。それはまだ先の未来で思うことであって、とても今の私には受け入れることの出来ない言葉だった。でも、もう口に出してしまったものは引っ込めることができない。泣きたかった。泣いてごまかせば、まだなんとかなるような気がした。
「ミョウジさん、遅いよ。俺、その言葉すごい待ってたんだよ」
水戸が鉛筆を手放すとノートの上で転がる。
「テストの点数が上がってみんなに聞かれたとき、俺ミョウジさんの名前出さなければよかったって何度も後悔したよ。ミョウジさん、皆にとっ捕まっちゃってさ。俺、あんまり頭良くないから教えるなら物分りのいいヤツらの方がいいだろうと思って、そしたら身を引くしかないでしょ」
「そんなこと」
「暇になった時間、バイトを増やしたんだけどその間も今頃誰かに教えてるのかなとか、俺、聞きたいことあったなとか思ってて」
「でも、私、水戸に気を使わせてたと思う。勉強の話ばかりで、面白くないし」
「ミョウジさんさ、俺に教えてくれるとき、一生懸命なのよ。少しでも分かりやすくって。それで、解けたらよかったねって笑ってくれるでしょ。帰りだって無言にならないように気を使って一生懸命に話してくれる。それに、あのとき」
「あのとき?」
「母親の話をしたとき。ミョウジさん、俺が人の子だって言ったでしょ。当たり前だって笑ったけど、俺そんなこと言われたのはじめてだったし、ひとりの人間として見てもらった気がして、なんか嬉しくて」
水戸が私の手を握った。
「ミョウジさん、嫌じゃなかったら他の奴に教えるのやめて。その分、俺に教えて。勉強も、ミョウジさんのことも。なにが好きなの、行きたいところはどこ、休みはなにをしてるの。教えてよ」
水戸と目が合うと顔がずっと熱くなった。そんなの、私もずっと知りたかった。知りたいくせに踏み出すのが怖かった。
「私ばっかりじゃなくて、水戸のことも教えてよ」
水戸が笑う。それなのに私は泣けてきて、堪えようと思って変な顔になったりして、結局堪えきれなくて泣いた。ぐずぐず泣いてしまったところに運悪く教室の戸締りを確認しに先生が入ってきた。泣いている私と不良の水戸。恐喝されているのだと勘違いした先生が大きな声を出したせいでちょっとした騒ぎになってしまった。そのあとで先生たちの誤解を解くのに私たちは今起こったことを話さなければいけなくなって、余計に恥ずかしい思いをする。それなのに水戸は笑っていたし、誤解を招くような行動をするなと説教されている間も手を離さなかった。
「今日、ほんとはバイトあったんだ」
帰り道、水戸が言った。私はギョッとして握られていた手を振りほどいてしまった。
「どうして早く言ってくれないの。すっぽかしたことになるんでしょう? 私のことなんて放って行くべきだったのに」
振りほどいた手を水戸がまた握る。寒さのせいで冷たい、でも、大きな手だった。
「バイトよりも大切なことがあっただけ」
もう駅で別れることはしなかった。水戸が家まで、と言い張って引かなかったせいだ。そのせいで、やっぱり父に見つかった。慌てる父が、険しい顔で水戸に近付く。
「娘に、なんの用だ」
父の視線が私たちの手に向けられ、それに気がついたことでさらなる尋問を受けるのはまた別のおはなしで。
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同じクラスになって、水戸がそんなに怖い人じゃないと知ったときホッとした。不良と関わるような人生を歩んできたわけではなかったから、少ない小遣いをカツアゲされるのではないかと毎日が不安だった。抵抗できる自身もないし、言い返すことができるほど勇気もない。水戸はそういうことはしない。多分。少なくともクラスメイトには。それを知ることができたのは、水戸が意外と回されたプリントをきちんと後ろの人に渡したり、昼休みに決して不良ではない男子と楽しそうに話していたり、文化祭の出し物を決めるための話し合いにもきちんと意見を出していたからだと思う。教室の中の水戸は、不良ではなかった。ただの生徒だった。
ただの生徒の水戸が好きになった。
クラスでの私の立ち位置は上の方ではないし、かといって下すぎることもなく、平凡中の平凡で、だからこそ目立つ要素もなく、多分ずっと地味だった。そんな私の名前を水戸が知っているとは思わなかった。
先生にクラスの全員分のノートを集めて職員室まで持ってきてと言われた日。どうして、と小さく抗議すれば日直でしょと言い返され、なにも言えなくなったあの日。一冊ノートが増える度に重たくて嫌だなあと思ったその日。水戸だけ、ノートの中身が全く進んでいなかった。
「ごめんね、俺あんまり頭良くないから。ミョウジさん、先に出してきていいよ。俺、あとで自分で出すから」
水戸は困ったように笑って、ノートと向き合う。当然のように名前を呼ばれたことに、私はそれがその月で一番驚いたことだったけれど、水戸からすれば当然のことだったのか、まるで気にしていない。そうして、よくよく考えれば同じ教室にいながらも私はそれまで水戸のことをじっくりと見たことがなかったことにも気がついた。不良がノートと向き合う姿というのは不釣り合いで、物珍しくもあり、どこかおかしい。でも、笑うには失礼なほど水戸は真剣だった。
「あの、よければ教えましょうか」
そう言うと水戸は顔を上げて
「ほんとに? ていうかなんで敬語?」
と、眉と目尻を下げて笑った。
水戸はそれからことある事に私を頼って、私もその度に水戸に付き合った。放課後の教室でふたりきりになって、勉強のこと以外話すことがなくて、窓の外を見ると日が沈んでいくところだったり。真剣に問題を解く水戸はとても不良とは思えなかった。大きな拳が鉛筆を握っている。それを眺めている地味な私。不思議な光景だと思う。
「母親がさ、高校くらいは出ておけって言うんだよ。そしたら、留年するわけにいかなくて」
暮れていく空を見ながら、水戸が言う。問題は解き終わっていたのに、私たちはそこから動かなかった。
「水戸も人の子なんだね」
それは素直な気持ちだった。私の知らないどこかで喧嘩をしているかもしれない水戸も、不良を全うしている水戸にも親がいる。言ったあとで失礼なことを口にしたと思った。慌てて謝ろうと水戸を見ると水戸は笑っていた。
「当たり前だろ、おかしなこと言う人だな」
水戸は不良だけど、この学校の生徒で、私のクラスメイトで、そして、好きになってしまった人だった。
冬が近づいて空が暗くなるのが早くなってくると水戸は私を送ってくれるようになった。そんなことはしなくていいと断ったのに、勉強を教えもらうお礼だと言って譲らない。しかし、家まで着いてこられては偶然帰ってきた父や、郵便物を取りに出かけた母に水戸を見られるかもしれない。不良の水戸が私の隣を歩いている。それだけで両親を不安にさせかねないので、間をとって駅までにしてもらった。水戸は遠慮しなくても、と文句を言っていたけれど聞こえないふりをした。
私と水戸の家は逆方向だったので改札を抜けるとそこで別れることになる。学校から駅は近い。短い時間を私と水戸は勉強の話ばかりに費やす。それしか共通点がなかった。つまらないだろうなと思いながらもほかになにを話せばいいのか分からない。でも水戸は顔に出さない。真剣な顔で話を聞くし、質問もしてくる。改札を抜けると時間が終わる。また明日。そう言って私とは違うホームへ歩いていく背中を何度も見た。水戸は振り返らないので私がその背中を見つめていることは知らない。
水戸がテストでいつもよりもいい点を取ったと嬉しそうに報告してきた。その声が少し大きかったので、教室にいた何人かが、どうしてと水戸に聞いた。それは不良だったし、元々成績もあまり良くなかったから単純な疑問と、よかったねという気持ちから出たものだったのだろう。
「ミョウジさんのおかげ」
水戸が私の名前を出したおかげで、教室が騒がしくなる、なんてことはなく。教えてもらった、とだけ言えば納得され、水戸の点数が良かったせいで、じゃあ私も教えて欲しいという人が何人か現れた。水戸には教えるのに他の人には教えない、なんて言えるわけがなかった。
放課後、水戸と過ごす時間は以前よりずっと減った。水戸の方が遠慮するようになって、その代わり他の悩んでいるクラスメイトに勉強を教えている。窓の外の暮れていく空を眺める。話すことはないくせに、楽しかった気がするあの時間を思い出す。
水戸は優しい。だから、私が他の誰かに教えていれば身を引くし、誰かの成績が上がればそれも喜ばしいことだと受け止める。勉強に時間を費やすことが少なくなった水戸は元々やっていたバイトをさらに増やしたようで、放課後はほとんどすぐに帰った。さようなら、ミョウジさん。そう言われる度に胸が苦しかった。なんで敬語なのと笑って、真面目に勉強をする理由を教えてくれて、お礼と言って送ろうとしてくれて。水戸に会いたかった。
帰ろうとする水戸の名前を呼ぶと、廊下に出たところで水戸が止まる。
「どうしたの、ミョウジさん」
「どうもしないけど、水戸元気かなって」
「心配してくれてるの? ありがと。元気だよ。ミョウジさんは?」
「私も元気」
「ふーん、よかったよ」
早々に話すことがなくなってしまう。なにかを言わなければ、水戸は帰ってしまう。水戸。名前を呼ぶと目が合う。
「勉強しよう」
もっと気の利いた言葉を言うべきだった。思い浮かばなくても、もう少しひねるべきだった。でも、水戸はそれを受け入れた。
「今日はバイトもないし、お願いしようかな」
部活へ行く人、遊びに行く人、帰る人。そうやってひとりひとり教室から減っていくと、ふたりきりになってしまって、だからと言って話す内容が浮かばなかった。同じ教室で過ごしている仲間にこれ以上元気かどうか聞くのもおかしな話だ。いつかのように窓の外を見る。暗くなるのが早くなったせいでほとんど太陽は見えなかった。そのかわりに星が少しだけ見える。水戸が鉛筆を動かす音が聞こえるあいだ、星を数えた。
一番星に願いをかけると叶うと聞いたことがあった。目の前の空には一番星どころかいくつかの星が瞬いている。そんなのジンクスだと分かっている。どこかで信じたい気持ちが人に願いをかけさせるのだたと。私は願いは叶わなくてもよかった。元々、叶うこともないだろう願いに期待を寄せてもあとが悲しいだけだと知っている。
「ほんとうは水戸にしか教えたくない」
だから私がそう口にしたのは願いじゃなくて、ただの本心だった。鉛筆の音が止まる。
「それって、面倒だから? それとも、そういうこと」
水戸の方を見ることができなかった。
「多分、あとの方」
言わないで後悔するより、言って後悔した方がいいと誰かは言う。それはまだ先の未来で思うことであって、とても今の私には受け入れることの出来ない言葉だった。でも、もう口に出してしまったものは引っ込めることができない。泣きたかった。泣いてごまかせば、まだなんとかなるような気がした。
「ミョウジさん、遅いよ。俺、その言葉すごい待ってたんだよ」
水戸が鉛筆を手放すとノートの上で転がる。
「テストの点数が上がってみんなに聞かれたとき、俺ミョウジさんの名前出さなければよかったって何度も後悔したよ。ミョウジさん、皆にとっ捕まっちゃってさ。俺、あんまり頭良くないから教えるなら物分りのいいヤツらの方がいいだろうと思って、そしたら身を引くしかないでしょ」
「そんなこと」
「暇になった時間、バイトを増やしたんだけどその間も今頃誰かに教えてるのかなとか、俺、聞きたいことあったなとか思ってて」
「でも、私、水戸に気を使わせてたと思う。勉強の話ばかりで、面白くないし」
「ミョウジさんさ、俺に教えてくれるとき、一生懸命なのよ。少しでも分かりやすくって。それで、解けたらよかったねって笑ってくれるでしょ。帰りだって無言にならないように気を使って一生懸命に話してくれる。それに、あのとき」
「あのとき?」
「母親の話をしたとき。ミョウジさん、俺が人の子だって言ったでしょ。当たり前だって笑ったけど、俺そんなこと言われたのはじめてだったし、ひとりの人間として見てもらった気がして、なんか嬉しくて」
水戸が私の手を握った。
「ミョウジさん、嫌じゃなかったら他の奴に教えるのやめて。その分、俺に教えて。勉強も、ミョウジさんのことも。なにが好きなの、行きたいところはどこ、休みはなにをしてるの。教えてよ」
水戸と目が合うと顔がずっと熱くなった。そんなの、私もずっと知りたかった。知りたいくせに踏み出すのが怖かった。
「私ばっかりじゃなくて、水戸のことも教えてよ」
水戸が笑う。それなのに私は泣けてきて、堪えようと思って変な顔になったりして、結局堪えきれなくて泣いた。ぐずぐず泣いてしまったところに運悪く教室の戸締りを確認しに先生が入ってきた。泣いている私と不良の水戸。恐喝されているのだと勘違いした先生が大きな声を出したせいでちょっとした騒ぎになってしまった。そのあとで先生たちの誤解を解くのに私たちは今起こったことを話さなければいけなくなって、余計に恥ずかしい思いをする。それなのに水戸は笑っていたし、誤解を招くような行動をするなと説教されている間も手を離さなかった。
「今日、ほんとはバイトあったんだ」
帰り道、水戸が言った。私はギョッとして握られていた手を振りほどいてしまった。
「どうして早く言ってくれないの。すっぽかしたことになるんでしょう? 私のことなんて放って行くべきだったのに」
振りほどいた手を水戸がまた握る。寒さのせいで冷たい、でも、大きな手だった。
「バイトよりも大切なことがあっただけ」
もう駅で別れることはしなかった。水戸が家まで、と言い張って引かなかったせいだ。そのせいで、やっぱり父に見つかった。慌てる父が、険しい顔で水戸に近付く。
「娘に、なんの用だ」
父の視線が私たちの手に向けられ、それに気がついたことでさらなる尋問を受けるのはまた別のおはなしで。