物心着く前から私のそばにはヒソカがいた。顔も覚えていない両親が預けたのか、誰かにそうしなさいとすすめられたのか分からないけれど、とにかく私にとってヒソカは家族と呼べるほど近く、友人と呼ぶには少し違う存在だった。
 幼い頃はひとりで眠るのが怖くて、とくに真暗な部屋が嫌いだった。実際にそこにはなにもないのに壁の上でなにかが動いているように見えたり、誰かに見られているような気がしたり、足に触れられたらどうしよう。一瞬でもそんなことを考えてしまうと眠る所ではなく、わんわんと泣いて毎日ヒソカを困らせた。多分、ヒソカも寝不足だったのだろう。しばらくして、私の部屋に家庭用のプラネタリウムが置かれ、壁一面にたくさんの星が映し出されるようになった。
「もう怖くないね」
 ヒソカにそう言われると、もうこれ以上ヒソカを困らせてはいけない気がして頷いた。本当はまだ少しだけ怖かった。星がたくさんあってもこれは偽物で、部屋にはひとりきりで、と考えるとまた泣きたくなる。でも、誤魔化すように眠たくなるまで星の数を数えることでそれは解決した。毎晩、右の天井からひとつずつ数えていくのだ。集中すれば余計なことは考えなくて済む。そうしていつの間にか朝を迎えている。ただし、嵐の夜だけは違う。雨風で窓が揺れたり、叩かれる音が聞こえると星を数えることにも集中出来ず、嫌な想像ばかりをしてしまって昔のようにわんわん泣いた。そういうときは私がヒソカのベッドに潜り込むか、ヒソカが私のベッドに入った。そうしないと、この問題は解決しなかったからだ。
「キミはいつまでたっても赤ん坊だね」
 窓が揺れるたび、雷が鳴るたび、グズグズ泣き続けていると、決まってヒソカは私の鼻をつまんでそう言った。
「手も、足も、出会った頃より大きくなったのに中身だけは少しも変わらない」
 指の一本一本を数えるようにヒソカが握る。その手の温もりは昔から変わらなかった。
「ボクがいる間はなにも起こらないから、安心して寝てごらん」
 大きな手が背中を撫でる。まだ歩けなかった頃、歩き始めた頃、喋れるようになった頃、ヒソカはいつも私の背中を撫でてくれていたのに、大きくなるに連れて私とヒソカの部屋は分かれたし、距離も遠くなった。だから、嵐の夜は嫌いだけど唯一、昔のようにヒソカと一緒にいられるこの時間は好きだった。
 足の冷える朝だった。指先の感覚が鈍くて、いつまでもぼんやりと眠たい。そのくせ、お腹がじくじくと痛むのでもう一度眠ることもできない。仕方なく身を起こしたあと。下半身、というよりも下着に湿った不快感があった。布団をめくって見ればシーツが赤く、血で濡れている。それを見た瞬間、さらにお腹が痛くなった気がして動けなくなった。大変な病気であるとか、怪我をしたとか、いくつも考えられることはあるけれど、それよりもどうしてそうなったのか原因が分からないことの方が怖くて動けなかった。
 どれくらいそうしていたのか。ある程度の寝坊は許されていたけれど、あんまりにも起きてこない私を心配してヒソカが部屋に入ってきた。ドアを開けてすぐ、ベッドの上で半分泣いている私と赤く汚れたシーツを見てヒソカはどう思ったのだろう。
「とりあえず、来てごらん」
 ヒソカは私をベッドの横にきちんと立たせてからバスルームへ連れていった。汚れたドロワーズと下着は取り払われる。ぬるい温度のシャワーでじゃぶじゃぶと足を洗われた。
「寒いかい」
 私は返事のかわりに横に首を振った。
「バスタブに湯を張る時間がなくてね。ごめんね」
 すっかり足が綺麗になってバスルームたっぷりに石鹸の香りがする頃、ヒソカは洗いたてのバスタオルで私を包んだ。嗅ぎなれた洗剤とお日様の香りがする。はじめて、息ができたような気がした。ヒソカが濡れてしまうのも忘れて抱きついた。ヒソカはバスタオルの上から私の背中を撫でる。
「ボクは男だからこういうときの対処をあんまり知らないんだよね」
 ヒソカは天井を見上げながら大きく息を吐いた。
「いつか、こういう日がくるとは思っていたけど」
「私、病気なの?」
「そうじゃない」
 着替えのために用意された真白いシャツも、ベビーピンクのスカートも全部ヒソカが選んだものだった。
「ボクがしてあげられるのはここまで。これからは自分で考えて行動しないと。その意味がわかるかい?」
 ヒソカから私の体が剥がされ、目と目が合う。優しいのにどこか寂しくて、胸のずっと奥が痛くなるような目をしていた。
「キミがボクの手を離れて、大人になる日がきたんだよ。さようなら、ボクの赤ちゃんだったお姉さん」
 ヒソカは私の鼻をつまんで、静かに笑った。
 それから、ヒソカは私の前から姿を消した。ひとりぼっちになった家にはヒソカに雇われた、とシッターのような人がきて毎日世話をしてくれる。でも、それはご飯を作るとか洗濯をしてくれるとか最低限の家事ばかりで、嵐の夜に慰めてくれるようなことはしない。戸締りをしっかりしてね、と注意だけを残して帰ってしまう。今では、ヒソカなんて人は本当はいなくて全部夢だったのかもしれないと思うけれど、夢ではなかったという証拠のように夜になるとプラネタリウムが壁一面に星を彩る。
 私は右の天井からひとつずつ星を数える。大人になりたくなかった自分を忘れるように、余計なことを考えないように。ぽっかりと空いた背中がいつまでも寂しい。


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