09

 ぐちゅ、ぐちゅ。
 室内に濡れた音が響く。いくら耳を覆っても、脳内にこびり付いて離れない。
 啓兄はいつも、お父さんの暴力から僕を庇ってくれる。啓兄は誰よりも優しい天使だから。でもその代わりに啓兄がお父さんにイジワルされる。
 ぐちゅ、ぐちゅ。
 お父さんは啓兄をおかしな風に触る。啓兄は血を流して痛そうなのに、お父さんは嬉しそうだ。
 僕はお父さんがキライだ。啓兄を泣かせるから。啓兄が嫌がることをするから。
 僕は自分がキライだ。部屋の隅っこで膝を抱えて震えることしか出来ないから。
 僕は弱い。啓兄を守りたいのに、僕は弱い。
 僕たち兄弟の世界は、六畳一間で完結している。
 逃げ出せない。ここにしか、帰る場所がないから。僕たちはこれからもここでずっと、堪え続けなきゃいけないのかな。
 でもそれじゃあ、啓兄が壊れちゃう。
 助けて、誰か助けて。
 啓兄がお父さんに壊されちゃうよ。
 ぐちゅ、ぐちゅ。
 苦しい、苦しいよ、啓兄。
 胸が張り裂けそうに痛いんだ。でも啓兄は僕の何倍も痛いんでしょう?
 ぐちゅ、ぐちゅ。
 啓兄の泣き叫ぶ顔を、もう見たくない。笑っている啓兄が好きなんだ。
 啓兄の悲痛な叫び声が耳をつんざく。
 ぐちゅ、ぐちゅ。ぐちゅ、ぐちゅ。
 やめて、やめてよ。お父さん。
 どうして啓兄にイジワルするの。
 啓兄は何も悪いことしてないのに。
 どうして啓兄に痛いことするの。
 啓兄はお父さんの子なのに。。
 どうして啓兄を物置に閉じ込めるの。
 啓兄は暗くて狭い所が嫌いなのに。
 どうして啓兄に変な触り方するの。
 啓兄が嫌がってるのに。
 どうして啓兄を壊そうとするの。
 啓兄は今にも脆く崩れそうなのに。
 どうして笑ってるの。
 啓兄が痛がってるのに。
 どうして楽しそうなの。
 啓兄が泣いているのに。
 どうして、どうして。
 ねぇ、どうして。
 どうして生きてるの?


  *


 気が付いたら、僕は血の海に立っていた。
 裸で血を流して倒れているお父さんを見下ろしている。
 手には血の付いた包丁。
 僕が殺した。
 包丁で刺した。
 何度も、何度も、何度も何度も。
 お父さんが動かなくなってからも。
 内臓が零れても、刺し続けた。
 何度も、何度も、何度も何度も。
 そうしたら、お父さんはズタズタのぼろきれみたいになった。
 呆然と立ちすくむ僕を、啓兄が強く抱きしめる。沸騰したように興奮していた脳が、少し ずつ落ち着いていく。
「周…、周…!」
 肩口が啓兄の涙でびっしょりと濡れていく。
「啓兄…」
 包丁を持った手が震える。
 お父さんが死んだ。
 僕がコロシタ。
 お父さんから流れ出す血が、畳を真っ赤に染めていく。
「ねぇ、啓兄。…僕は、悪い子?」
「周…、周は何も悪くないよ。悪いのはお父さんだから。周は何も悪くない」
 僕は悪くない。
 悪いのはお父さん。
 啓兄をイジメたお父さん。
「僕は、間違ってない?」
「うん、周は何も間違ったことしてない」
 間違っているのは啓兄をイジメたお父さん。
「僕、啓兄を守れたかな」
「当たり前だろ。ありがとう、周。俺、周に守られて、嬉しいよ。だから大丈夫だ。周は何も悪くない」
 僕を抱きしめる啓兄の腕に力がこもる。
 これでもう啓兄をイジメる人はいなくなったよ。
 僕らを縛るものはもう、何もないんだ。
 啓兄、僕、啓兄を守れるんだ。


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