自暴自棄という言葉がある。
希望を失ったがために自分を粗末に扱うことやその様を表す名詞および形容動詞であり、一般的にはあまり良くない事柄として認識されているだろう。だが私はこれを、心の均衡を保つための自己防衛手段ととらえている。
飲まなきゃやってられない。理不尽溢れる社会に身を置く大人には、そういう時があるのだ。





「ようこそいらっしゃいました」


新緑に囲まれた日本家屋の前に立ちその大きさに圧倒されていると、木々のざわめきに混じり誰かの声が聞こえた。風が吹き、鎖骨より少し下まで伸びた髪がサラサラと揺れる。目線を下げれば、私の足元で声の主がぺこりと頭を下げた。


「初めまして審神者様、私は式神のこんのすけと申します。政府との橋渡しなどさせて頂きますので、よろしくお願い致します」


ここでいう審神者とは、簡単に言えば物の思いを呼び起こし、歴史を守るべく奮闘する存在を統べる者のことだ。
数十年前に突如現れた歴史修正主義者という、歴史を変えんとする存在に対抗するために用意された存在。職業名であり、役職であり、一般社会においては公務員に分類されている。
先に述べた奮闘する存在とは、刀剣男士という人の姿をした刀の付喪神であり、審神者はそれらを使役する役目を持つ。何だか一気に話がフィクションじみてきた気がするが、これは現実だ。

審神者は高給取りで衣食住も保障されるが、身の安全や命は保障されない危険な職業とされていることもあり、常に人手不足、猫の手も借りたい状態らしい。
わけあってそんな職に就いてしまったのだが、その名で呼ばれるのにはまだ慣れない。数か月前までただの会社員だったのだ、様付けなんてされては、胸の辺りがくすぐったくて仕方ない。

けれど足元の狐は、そんな私の恥じらいなんて知らないとばかりに何度も私を呼ぶ。
審神者様、審神者様?返事がないことを不思議に思ったのだろう、トンと足を踏み出したそれは、私の靴にそっと前足を乗せた。


「あの、審神者様?」

「ああ、うん、ごめんね。聞こえてるよ」

「てっきりご気分でも悪いのかと」

「ありがとう、大丈夫だよ」


名前は確か、こんのすけといっただろうか。その狐は私の言葉に納得したらしく、靴から前足を下ろして咳ばらいをする。


「それでは……無事研修を終えられ晴れて審神者となられたあなたには、本日よりこの本丸にて生活して頂くことになります」

「うん」

「しかし、ここは少々特殊……と言うと大袈裟ですが、恐らく研修で伝えられていた本丸とは異なる形態となっております」

「……特殊?」

「ご案内がてら説明致しましょう」


そう言って踵を返したこんのすけの後に続く。
特殊とは一体。少々の嫌な予感を胸に抱えながら、本来あるべき本丸での形態を思い出す。
確か本丸とは、審神者ひとりひとりに与えられる住居兼職場であり、審神者に代わって歴史修正主義者と戦ってくれる刀剣男士と共に生活する空間のことだ。
そんなことを思い返しつつおのぼりさんよろしく周囲を眺めるも、特に変わった様子はない。


「審神者様、本丸に着いたらまず何をするとお聞きになりましたか?」

「えーと……初期刀選び?」

「そうですね。ですが、審神者様には初期刀は選んで頂きません」

「えっ」


な、なんで?審神者になったらまず最初の刀剣を選んで、鍛刀とか刀装とか手入れについてとか、あと戦い方について最終確認としての指導を受けるって聞いてたんだけど。
そんな疑問に思わず足を止めた私の方を振り返り、こんのすけが言う。


「ここには既に、数多の刀剣がいます」

「……は、」


意味がわからないん、だけど、どういうことだ。
これはまさか、あれだろうか。研修の時にも何度か聞いた、引き継ぎというやつではなかろうか。
想定外の事態に心臓がばくばくと鳴るのを感じながら、私はこんのすけの言葉を待つ。
どうか、どうか引き継ぎではありませんように。
そう密かに願ってはみたけれど、その願いが叶わないことなんて、私にはわかっていた。


「審神者様にはこの本丸を引き継いで頂きます」


やはりか。


「……ちょっと待って。じゃあここにいる刀の主さんは、」

「死にました」

「えっ」

「死にました」

「聞こえなかったんじゃないよ、戸惑ったの!」


死ぬ可能性はゼロではないが、そこは運としかいいようがない。審神者でなくとも、生きている以上事件や事故に巻き込まれたり病で命を落とす可能性があるのと同じですね。
研修の時に指導員が言っていた言葉を思い出す。彼に言わせれば、前の審神者さんは運が悪かったということなのだろう。
にしても、就任早々そんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。幸先悪過ぎるだろう。
そう今後を憂いていると、こちらが鍛刀部屋ですとこんのすけが事務的に呟く。


「先程から刀剣男士の姿が見えないのもそのためです。あれは自身の主たる審神者の霊力なくして、長期間人の器を保つことはできませんから」

「……ちなみに死んだ理由とかは、」

「プライバシー保護の観点からお話しすることは禁じられています」

「ああそう……」


そう言われたらなにも返せないが、これはなかなかに苦労しそうだ。
だって、刀剣男士は一見すると人間のようで、感情も有しているという。前任者との思い出だってあるだろうし、悲しみの癒えぬまま新しい審神者が来たところで受け入れられないんじゃないか。


「前向きに考えれば、わざわざ刀剣を集める必要がないということです。決して数は多くありませんが、一部の入手困難な刀剣もいますし、就任したばかりということを思えば審神者様も随分楽な状態かと」

「それは……そうかもしれないけどさあ」

「ということで、まずはこの中から近侍をお選びください」


どういうことだよ。そう言いたいのをこらえこんのすけの方を見れば、まるで傘立てに置き去りにされた傘のように、乱雑に壺へ入れられたたくさんの刀があった。
そこに入りきらないもの、また短過ぎて壺に入れれば埋もれるだろう短刀や長過ぎる大太刀に薙刀などは、布一枚引くこともなく、壺のすぐ横の床へ直に置かれている。
あまりの光景に、私は思わず眉をひそめた。


「……付喪神とは神様なんでしょ。いいの、こんな風に雑に扱って」

「恐らく、前任者の私物などを片付ける際に作業員がここへ置いたのでしょう。政府の者に伝えておきます」

「……言ったところで変わるとも思えないけど」


それにしても近侍か。確か審神者の補佐的な役目のことだった気がするけど、なんて考えながらしゃがみ込んだ私は、直に床へ置かれた刀へ手を伸ばす。
短刀よりは長く打刀よりわずかに短いそれは、美しい金色の鞘を持った刀だった。


「そちらは脇差のにっかり青江です」

「…にっかり青江、」


幽霊斬りの刀か。
記憶の底に押し込まれていた情報を引っ張り上げながら、その刀を手にする。

ここにいた刀剣達にとって前任者がどんな存在だったかは私の知るところじゃないけれど、かつてこの本丸に息づいていた刀剣が置き去りにされている以上、彼等が謀反を起こしていないことは明白だ。
理由が何であれ自分の主たる審神者に刀を向けることは重罪とされ、その命を奪った場合はすべからく刀解処分を受けることになるというのは、研修を初めてまだ日が浅い頃に聞いた話である。
つまり前任者は、自分の使役する刀剣によって殺されていない。それだけでもう、審神者と刀剣男士としての最低限の関係は築けていたことがわかってしまった。

ならば自分の主が命を落とし、思うところがなかったわけじゃないだろう。
別れを悲しみ、涙を流したかもしれない。何の感情も抱かなかった可能性もゼロではないが、もし彼等が前任者を慕っていたとすれば、この仕打ちはひどすぎやしないだろうか。
ただでさえつらい思いをしているところに、こんな風に雑に扱われて。傷も癒えないうちに新しい主として私を寄越すだなんて、政府は神様を何だと思っているんだ。
私がその政府の犬でしかないことは今は置いておくとして、ただ今は、この物言わぬ彼等が哀れで仕方なかった。


「……ごめんね。もう大丈夫だよ」


私は、君達を大切にする。
そう小さく呟いて、金色の鞘を撫でた時だった。
突然手元が眩しく光り、目も開けていられないくらいの閃光が鍛刀部屋に広がる。
さながら暗く長いトンネルを抜けいっぱいの日光を浴びた瞬間のような明るさに私の目は眩み、後方からは「審神者様!」と私を呼ぶこんのすけの声がした。手元が熱く、眩しい。とてもじゃないが目を開けてなんかいられない。

そうして数秒が経っただろうか。
私の手から重みと熱が消えたのと、部屋中に広がっていた閃光が落ち着きを見せたのと、目の前から“トン”と何かが舞い降りる音がしたのは、ほぼ同時だった。


「やあ、はじめまして」


頭上から聞こえてきた声に思わず顔を上げ目を見開けば、ぎゅっと瞼を閉じていたせいだろう、久しく感じた明るさに目が痛んだ。
それでもなんとか声の主をこの目にとらえようと瞬きを繰り返すも、焦点が合わない上にもやがかかったようにぼんやりとしか見えない。それに苛立って小さく舌打ちをすれば、声の主のものだろうくすくすという笑い声が聞こえた。

そうしてしばらく経った頃、徐々にはっきりとしてきた視界に、私の心臓が早鐘を打つ。もしかしたら、目の前には。
期待にも似た緊張を胸に抱きながら、私はゆっくりと瞬きをした。


「眩しかったよね。もう目は見えるかな」

「…は、」

「僕はにっかり青江。うんうん、君も変な名前だと思うだろう?」

「え、ちょっと、……え?」

「どうしたんだい、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」


君が新しい審神者かな。そう言いながらへたり込む私に手を差し出した男は、自らをにっかり青江と称した。
ちょっと待って、色々理解できてない。言葉にならない思いを抱えこんのすけの方へ目を向ければ、今日初めての笑顔を向けられる。


「つつがなく近侍も決まったようで何より、こんのすけも嬉しいです!」

「えっ、いや、ちょっと待ってなにこれ」


いきなり過ぎて気が動転している私を見て、にっかり青江がまた笑う。
あんたのせいでこんなことになったのに何笑ってるんだ、という言葉を喉奥ギリギリのところで抑えられたのは、社会人としての経験の賜物だろう。


「ええ、と。私、別に顕現させようとなんてしてないんだけど」

「しかし、あなたの手によってにっかり青江様が顕現したのは事実です」

「……いや、事実にしてもさ」


事実だから何だと言うんだ。
駄目だこいつとは話にならない、心の中でそう毒づいてため息を吐けば、幸せが逃げるよというにっかり青江の声が聞こえた。この刀は、ずいぶんと人間らしいことを言う刀だ。
幸せじゃないからため息と吐くのだと言いたくなったが、そんなことを言ったところで何の意味があるだろう。私は言葉を飲み込んで、再びこんのすけの方を向く。


「っていうか、私これにするだなんて言ってないんだけど」

「これ、だなんてひどいなあ。さっきは僕のを慈しむように優しく、熱っぽく撫でてくれたっていうのに」

「……………」

「ふふっ、鞘のことだよ?」


決して間違いではないが、なんか嫌なものの言い方をされた気がするのは気のせいだろうか。


「まあ、何はともあれこうして顔を合わせることができたわけだしさ。君が新しい主ってことでいいんだろう?」

「ええっと……一応、そうなる……のかな。……あっ、でしょうか」

「もっと自信を持ってください」

「あー……うん、主、です」


気恥ずかしさと緊張が混ざり合ったような複雑な気持ちになりながら答えれば、にっかり青江は穏やかな笑みを浮かべる。
突然いろんなことが起きて困惑してたから気付かなかったけど、よく見てみればすさまじい美青年だ。
涼し気な目元は長いまつ毛に縁取られ、艶やかな髪はポニーテールのように後頭部の高い位置でひとまとめにされている。身に着けている詰襟はきっちりと着込んでいることから、顔と首、そして手袋から覗く手首くらいしか露出していないのに、なぜだかひどく色っぽい。


「……主?」


芸能人顔負けの美しさに思わず凝視していると、にっかり青江が不思議そうな顔をして再び手を差し出してきた。
いけないいけない、いつまでもへたり込んでいないできちんと挨拶しなくては。
ハッとして彼の手を取れば、手袋越しにわずかなぬくもりが伝わってきた。掴まれたままの手は握手のつもりなのだろう、離れることなくそのまま握られている。


「それじゃあ新しい主、これからよろしくね」

「う、ん。こちらこそ」


よろしくお願いします。握手はそのままに頭を下げれば、初々しいねえと彼が笑う。
その様子に違和感を覚えながらも顔を上げれば、相変わらずにっかり青江は笑っていた。


 
ALICE+