夏の幻影


あれは夏が見せた幻だったのだろうか。

暗いところにいたせいか、太陽がやけに眩しい。
最近まで肌寒かったと言うのにGWが明けると季節は一気に夏に近づいたように感じる。
大きく下る坂から浴びる風がやけ気持ちいいのはそのせいか。
ガシャンとほとんど新品に近いクロスバイクを自販機の隣に立て掛ける。
勢いで買ったそれはまだまだ乗り心地が悪い。何よりサドルが固いのだ。
買いたてのままカスタムしていないのが何より勢いで買ったという理由に輪をかけている。これから大事にしていこう、と思い再びペダルを漕いだ。

平日の朝はどこか疲れた人が多いような気がする。サラリーマンに、学生。月曜から今週が始まるエトセトラ。土日で休息を味わった後の倦怠感と言うのだろうか。
各いう私は土日も関係なく仕事で、平日の月曜日が休みというかけらの天敵な訳なので、彼らの倦怠感とは無縁であった。決して嫌味ではない。

もう直着くだろうか。小さく音を出した携帯のナビが「300M先左です」と告げる。
シャーっと坂道を滑り降りた先に目的地はあった。

自転車で1時間の距離は余程のひまがなければ一人ではなかなか来ない。
交通機関を使えばあっという間なのだろうが、今日は自分の足でこの地に来てみたかった気分だったのだ。―この箱根に。

ほんの短い期間で私はどうも触発されていたようだ。
物置で眠っていたままの新品に近いクロスバイクを引っ張り出してくるほどには。



* * * * * * *


ガシャン、と大きな音がしたと思った。
そして派手に何かが倒れる音も。後方を振り返ると案の定人が自転車から落車した光景が広がっており、辺りに人はいなかった為思わず駆け寄る。

「だ、大丈夫ですか?」

一回目は触れずに。
うつ伏せのまま反応がなかったため、失礼とは思いもしたが背に腹は代えられない。重い身体を反転させてもう一度容体の確認をする。
幸いにも肺が上下していることが確認できたので、両脇に腕を差し込み倒れた男性を道の脇へ運ぶ。言ってはいけないんだろうが、凄い汗だ。気を失っているだけなのだが、一目見ても恐らく美丈夫なのだろう事が伺える。それでも初対面の他人であり、他人の体液に正直嫌悪感を持ってしまうのは当然の事だと思う。仕事帰りで多少なりとも汗をかいている私も人のことはとやかく言えないのだが。

男性?か少年?か分からない彼を移動させた後、ついでに派手に倒れた自転車もそばに留めておく。
この自転車の事を何ていうのかすっかり忘れたが、記憶ではものすごく高かったような気がする。
以前サイクリングでも始めようと勢いで買ったマウンテンバイクと共に検索履歴に表示されていたような記憶があるが、今はそんな事どうでもいい。

もし私が目を離していた隙に盗難に遭ったとなると流石に目覚めが悪い。そもそも私がそこまで責任を負う必要もないのかもしれないけど。
近くに公園があってよかったものだ。
多少は手荒にはなるが、時間も時間で難なく人気のない公園に彼を移動させることが出来た。私よりははるかに背の高い彼を一生懸命引きずる様は一見異様なものに違いないから。
大きなベンチに彼を運び、羽織っていたカーディガンをその上半身に置き、その隣のベンチに私も腰を掛けた。
はみ出して地面に着いてしまった足は最高に格好悪いもので申し訳ないが、これが私が出来る最大の介抱手段だった。

そこからどのくらい経ったかは分からない。
鞄からハンカチを出して、いまだに乾いていない汗をぬぐってあげるお節介を焼いてしまうくらいの時間は経ったと思う。今時カチューシャをしていう人なんているんだなぁ、と額を拭った際に崩れた髪と取り分け整えた。
すると不意にきゅるるる、とお腹の虫が音を上げた。
なんとなくいじる気にもなれなくてしまっていたままのスマホを開くと21:50と表記されている。そりゃあお腹も空くわけだ。
近くの自販機で水と暖かいお茶を購入し、ベンチに戻ったところで、小さく声が聞こえ隣に寝かせた彼の意識が戻ったことに気付く。

「ん………ここ、は?」
「具合はどうですか?」

私が覗き込むように声を掛けると、彼は我に返ったように勢いよく飛び起きた。
そしてそのあと脳震盪からくるであろう頭痛に頭を抱えていた。

「あの、自転車から落車してたのであまり動かない方がいいと思います。よかったらこれ、口つけてないのでどうぞ。」
「お言葉に甘えて、有り難くいただきます。」

余程喉が渇いていたのか、受け取ったペットボトルの水は半分くらい一瞬で消えていった。

「気分がすぐれないようでしたら救急車でも呼びましょうか?」
「いえ、平気です。お水も、有り難うございます。…それと、俺をここまで運んでくれたのはあなたでしょうか?」
「すみません、少し荒っぽい介抱になってしまいましたが。痛むところはありませんか?」
「いえ。むしろこんな好待遇をして頂き感謝しています」

チラリと見やった、自転車の事も含めてだろう。傍に駐輪していてよかったと判断は間違っていなかったことに安堵した。
ある程度会話を交わしたところで、彼は頭痛が治まったようで綺麗な姿勢でベンチに腰を掛け直した。
彼の目の前に立ったままだった私は、よかったらこちらに、誘導された彼の隣に腰をかけた。

「改めてですが、何から何まで有り難う御座いました。このカーディガンもお借りしてたみたいで…お身体は冷えていないですか?」
「大丈夫です。それで、本当に体調は平気ですか?」
「しばらく休ませて頂いていたので、この通りです。とても…いや、凄く感謝しています」
「いえいえそんな」

気になさらず、と微笑めば彼は何度か考え込むような仕草をした後、そのまま私の両手を掴んだ。自然に彼と距離が近くなりそのまま彼が口を開く。

「遅くなってしまい申し訳ありません。俺は箱根学園3年、東堂尽八と申します。失礼でなければ、お名前を聞かせて頂いてもいいでしょうか」
「こちらこそすみません。紹介が遅れました、私は苗字名前です。社会人です」

深くお辞儀をする姿は学生には見えないくらいしっかりとしていた。閉じているときよりも目覚めた顔の方がやけに幼く感じたのも納得だ。

「そうか。名前さん」
「はい?」

そのまま握られた手に力がこもる。

「こんな華奢な手で、しかも女性に。俺の事をここまで運び介抱をしてくれたと考えるだけで胸が痛む。何か、俺にできる恩返しなどないだろうか」
「いえ、そんな結構です。健康な姿が確認できただけで十分です」
「それでは俺の気が済まない。それに…敬語は入りません」

先程の紳士的な口調とは打って変わった特徴的なしゃべり方に、思わず握られた手をパッと振りほどく。振りほどかれた手を見た東堂君は少し顔をしかめた後また強引に私に詰め寄る。

「今日は時間も遅いから諦めるが、今度この御礼をさせてほしいです」
「いえ、結構です」
「無理にとは言わない、と言いたいところですが、ここは無理でも言わせてください」
「そんな学生の子に流石にさせれないから」
「そういうのを抜きにして、東堂尽八からの謝礼だと思ってもらえないだろうか」


一歩も引かない彼、東堂君に考えるように俯くとそれから彼はどこかに電話をはじめ、立あわよくば今の間に、と立ち去ろうとした私を引き留めた。
そして強引に実家だという旅館の送迎バスを呼び、私を自宅まで送ってくれた。
勿論彼と自転車もそのバスに同乗しており、帰り際に必ず連絡してください、と旅館の名刺とその隣に手書きで書かれた番号を指さすのも忘れずに。
またお会いしましょう、と私の髪の毛に唇を寄せて。

走り去ったバスと、ワンテンポ遅れて今更ながら「は…?」と気の抜けた声がでた私はさぞ間抜けだったろう。今のが学生の18歳の男の子のする事か?キザすぎる。

しっかりと握らされた名刺はわずかに皺が寄っていた。しかも東堂庵なんて、かなり有名な老舗旅館ではないか。というか神奈川に住んでいれば知らない人など居ない。私も家族旅行で何度か足を運んだこともある。
しっかりしていた印象の通り止め跳ねがきっちりされている彼の字にはその名と姿勢の通り説得力があるな、なんてしみじみ思いながらも彼の触れた髪の毛の先を手櫛でほぐす。
少しかさついた指先だとか、出会いのない社会で男性慣れしなさすぎたせいか、そんな行動に動揺してしまうのはしょうが無い事だと思う。


* * * * * * *


それから数日後、私から東堂君にアポイントを取ることはなかった。

彼はお礼がしたい、と私に連絡先を渡してきたのだ。それで連絡をするなど、御礼をせびっているようにしか見えないし、社会人としてのプライドもあった。あれからの容態は気になるものの、そもそもなんと送っていいものかも分からない。
まるで学生時代の片思いしていた先輩の時と同じではないか。そんな思考を消すように頭を振り、いつか自分に返ってくるだろう幸福への前払いだったのだと自分に言い聞かせた。


それからまた数日後の休日。
仕事も休日を頂いておりのんびりとしていたところ、突然荷物が届いた。
差出人も見ず素直に受け取った後に早々に後悔した。受け取った手前返すことも出来ない。
なぜ住所が…という疑問はそういえばバスで送ってもらったんだ、と思い出しその疑問はすぐに消えた。
観念しダンボールの封を開け、丁寧に梱包された中には東堂庵、とでかでか書かれたタオルのセットと以前売店で限定販売されている割と高値の入浴剤セットが入っていた。
タオルはふわふわで今治タオルらしくさわり心地も最高で、入浴剤も誘惑に負け使用してしまった。とてもいい香りで明日からも仕事を頑張ろうと言う気にされた。
―頭を抱えた。



それから翌日、また荷物が届いた。
今度は差出人を見た。言わずもがな「東堂庵 東堂尽八」である。今度は品名に食品(生もの)。クール便ときた。受け取るか躊躇していると早くしてくださいと言わんばかりの配達員の視線に耐えられず、サインして受け取ってしまった。そして入っていた生羊羹も美味しくいただいた。
―今度は頭痛がした。


それから数日にわたり彼からのプレゼント攻撃は続いた。
流石にそろそろ勘弁してもらわないといけない。
相手は旅館のご子息と言えど高校生だ。

私は、漸く旅館の名刺を再度手にした。
勿論やることはただ一つ。
東堂尽八、と書かれ、その横に連なる12ケタの数字にショートメッセージを作る。


「東堂尽八君
ご無沙汰しております。苗字名前です。ご連絡が遅くなってしまったこと、大変お詫び申し上げます。
また、この度は美味しいお菓子とタオルに入浴剤、たくさんご用意して頂き有難う御座いました。非常にうれしい贈り物ではございましたが、もう十分にお礼をしていただいたのでこれ以上の贈り物の贈呈は非常に困りますのでご遠慮居ていただけると助かります。どうか、ご容赦くださいませ。
これからも猛暑が続きますがお体ご自愛ください。
苗字 名前」

少し企業メール風になってしまった感は否めないがこんなもんだろうと送信を押した。
これで怒涛のプレゼント攻撃はなくなるだろう、と嘆息を付いたや否や、東堂尽八と登録したての名前から着信が入る。しかもなかなかに鳴り止まない。
故意に不在を立てたにもかかわらず、一回目は不在着信の通知。なのにまたすぐに着信が入る。
あぁ、もう、と痺れを切らしてしまった私はついにその着信に出てしまった。


「ようやくでたな!待ちくたびれていたぞ!」

痺れを切らしていたのはどうやら私だけではなかったようだ。
あの時とは違う、カチッとした敬語ではなく、本来の東堂君の喋り方と思わせる弾んだ声が爆音で聞こえた。キーンと響く声に思わずスマホを耳から外した。
久しぶりに聞く東堂君の声は脳が記憶していたよりも声量があり、あの夜とはあまり想像がつかないほどハキハキしていた。
そういえば、電話って機械が発信側の音声を拾い、その音源に一番近い音を発しているだけで本人の声をコピーしてるわけじゃない、と何かの授業で習ったなーとほかの事を考える事が出来るくらい余裕はあった。

「も、もしもし」
「お久しぶりです、名前さん。メール見ました。連絡がきて嬉しいです」

思わずスマホの音量ボタンにマイナスを連打した事は許してほしい。

「こんにちは東堂君。連絡が遅くなってしまってごめんなさい。いろいろと贈り物、ありがとう」
「気にしないでください。無事届いていたようで、なによりです」

もう一度ありがとう東堂君、というとお互い様です、と言った彼は何かを口にしようとしたが、途中で切れ言い口を噤んだ。―少しの沈黙が流れる。
先に口を開いたのは東堂君からであり、案外通話も長くなるものかと思ったが、どうやら休み時間の最中だったようで、また連絡します、という一言と共に通話は切られた。
時間を見れば12時半だったので、お昼の最中だったかもしれない。
少し悪い事をしたな、と思う反面、あっさりと通話が終了した事に少し寂しさを覚えた。



それから数日後、仕事の休憩中に届いたのは郵便ではなくメールだった。

来週の水曜日が休部であり、会えないかと言う誘いだった。
何を理由に?と思いつつ特に用事もないが、予定があって無理です、とやんわり断ると、その予定が何時に終わるかというメールさらに届く。
18時くらいです、と送ったらしばらく返事は来なかったので諦めたのだろう。
休憩時間も残りわずかになったので、スマホを鞄に仕舞い仕事へ戻った。


今日も一日が終わったと感じるのは終業時間がやってきた時だ。お疲れ様です、と同期の友人に声をかけ足早に電車に乗る。
暇つぶしに音楽でも聞こうとスマホを取り出すと、新着一覧の先頭に最近見慣れた名前と内容に思わず咳き込む。
タップして内容を開けば、そこには冒頭に一文と、来週の水曜日、私急遽要した嘘の用事が終わる時間のそのあとに初めて会った、東堂君を介抱した公園で会えないか、という分が綴られていた。

社会人になって、こんなに引き下がって来る人を見たことがない。
一度断った人や、明らかに拒絶の意志を見せた人間に好き好んで近づこうと人はいない。これは若さ故なのか、私が当たり障りのない人間と付き合ってきたせいなのかは分からないが、一つ言える事は、東堂君は落ち着きもあり大人びているが、その行動力と自分の決めた所は譲らない所は年相応の男の子であることを感じさせた。それと同時に、一種の執念のようなものも見えたような気がした。先に根負けしたのは私であり、19時にあの公園に迎える事を返信すると、楽しみにしている、とすぐ返事がきた。それを見た私は仕事帰りにすぐさま百貨店に寄って月位置の自分へのご褒美だと毎月買っている高級菓子を買って帰路に着く。これはたくさんお礼をしてもらったお返しだ。他意はない。
なのに、明らかに彼のペースにハマってしまったことを私は気付いてない。


それからあれやそれやで約束の水曜日は早くやってきた。
用事も何もない休日と言うのは非常に退屈ではあったが、溜まった家事片づけるにはちょうど良かった。
ひと段落、と手を止めいい時間だと気づいた頃には約束の時間まであと数時間と言う所だった。
シャワーを浴び、支度を進め、18時には家を出た。
もちろんあの日購入した高級菓子は忘れない。

蒸し暑いな、とハンカチで汗をぬぐったところで、そういや化粧も崩れていなければとりわけラフな格好をして家を出た事に気づき、さも予定なんかなくゆっくりしていましたよ感を出してしまっている訳だが、彼は勘づいてしまうだろうか。気付いたところで賢い彼はきっと口にはしないだろうが。

久しぶりに寄ったその公園はこの間立ち寄った時よりも少し見渡しが良かった。
土を払いベンチに腰を掛ける。人の気配はしない。
遊具や砂浜が荒れている所を見ると、数時間前までは子供たちが遊んでいた光景が伺える。時刻は予定していた約束の40分前だったことに気付く。
東堂君の姿は案の定見えない。
早く着きすぎた感は否めないが、待たせるよりもよっぽどいい。
そんなこともあろうかと用意していた小説が役に立った。
見開きからしおりを辿り、本を開けば40分も早いものだろう、と手元に目線を落とした。

次に意識が本から逸れたのは何分後だったろうか。
聞きなれた自転車の音と、この間とは違う、私服だ。少しスポーツウェアっぽいけどこの間のような部活着ではない。珍しいわけでもないのに凝視してしまった。その視線に気づいたようで東堂君はにやりと笑っていた。

「この東堂尽八が美形すぎて見惚れてしまったか?」

フッと襟足を払う仕草がやけに似合っていた。

「久しぶりだね、東堂君。今日の調子はどう?」
「見ての通り、万全だ!」

はっはっはーと笑う彼はやはりこの間とは印象も明るく、言うとおり元気そうだ。









「なんとか、またお会い出来ないだろうか」











もちろん私は東堂君に連絡などしなかった。