ユニヴァール歌劇学校のクォーツ生が日々研鑽に励むその場所は、先ほどまで多くの新た
な原石達が汗を流していたが打って変わり今は広すぎる部屋に四人だけとなっていた。
長机に並べられたパイプ椅子に唯一腰掛けているのは今年からこのクォーツを纏め上げる
立場になった組長白田。
広げられたノートと卒業した先輩の形見である新人公演用の脚本。
それをボールペンで小突きながら何やら考え込んでいる姿を三人はただじっと見守ってい
た。
「...あの〜、白田先輩。いったい俺たちいつまで待てば...」
「黙って」
痺れを切らした織巻が恐る恐る白田に口火を切ったがふわりとした声音なのにどこか圧力
を感じさせる短い言葉で押し黙らさせる。
彼としてはこの要件を早々に終わらせ他の一年生のフォローに回っている鳳や他の同期た
ちの元へ向かいたいためだったがそれ以上何も言及できず渋々冷たいリノリウムの床にし
ゃがみ込んだ。
それを全体を見渡せる位置で壁に背中を預け体育座りしている立花は見ていた。
彼女の対面には静かに腕を組み白田の動向を見る恋人・世長の姿が。
先輩である白田のことに集中していないわけではないがつい目線が彼を追ってしまう。
痛すぎる視線に気がついたのか世長は目線をバチっと合わせ暫く二人は見つめ合った。
それは恋人同士という割には何の色も含んでいない無機質なものだった。
ただ気になるものが視界の端に写ったから見た。その程度のもの。
その視線の繋がりを自分へのメッセージだと汲み取った白田は手遊びしていたボールペン
を机に離し漸く重い口を開けた。
「...待たせて悪かった。これから新人公演のジャックナイトを発表する」
「ぅおっしゃーー!!待ってましたッ!!」
「ちょっとスズくん...。白田先輩だって」
初めての演出なんだから、という言葉は先輩にあたる白田に失礼になるかもしれないと世
長は言葉を飲み込んだ。
かく言う世長自身も緊張で声が掠れていた。
先程まで痛いほどの静寂と白田がボールペンをノックする音だけが響いていた稽古場が緊
張感から解放され賑やかな音を取り戻す。
今から丁度1 時間前に新人公演の台本がクォーツ生に配られた。
しかし配役の欄は未だ空白。
新一年生の初の晴れ舞台ということもあり彼らをできるだけ前に出してあげたい。
そんな気持ちと裏腹に頼りになる卒業生たちの後釜を育てたいという思いもあった。
全ては先輩達が創り上げてきたクォーツのため。
己がするべきことを一人で舵取りしていかなければならない重圧と危うさに米神が痛くな
ってしまうほどだった。
「織巻。世長」
「ハイッ!!」
「...はい!」
「これからお前らには各々が思う『嬉しい』を演じてもらう」
「うれしい...。嬉しい...っすね...」
「白田先輩...ということは」
「そう。オーディションだ」
「スズくんと僕...」
「今回の公演は一年生をアルジャンヌに置こうと考えてる。今のクォーツに足りないもの
は圧倒的なジャンヌ」
「っえ!?そうなんすか...?
...なんか勝手に立花も白田先輩もいるし大丈夫かなって思ってました」
「俺はトレゾール兼組長としてやらなければいけないことが多すぎる。
これからは芝居量の多い役をこなすのは難しいだろう。だからこそ立花にだけ任せるんじ
ゃなく、それぞれが目を惹く魅力的な役者を育てたいんだ」
それがクォーツが大事にしてきたもの。
先輩達が自分の個性を尊重してくれたように下級生たちにもそうしてやりたい。
「そのためにどちらかがジャックエースとして一年のサポートをする」
サポートといっても今回の演目のジャックエースはかなり解釈が難しい役であった。
『ポポロとツクヨ』ーー。
ポポロはツクヨの研究者の助手をしている青年で二人は恋仲である。
しかしある日ツクヨの秘密を知ってしまう。
「...アルジャンヌであるツクヨは研究者という肩書きで一見真面目そうな雰囲気だが感情
の起伏が激しい役だからやり甲斐はあるだろう」
「反対にポポロはそんなに自分から前に出る役じゃないですもんね」
織巻は腕を組みながら先程読んだ台本を思い返す。
「織巻の言うとおりポポロは台詞自体はあまりないが口数が少ないだけでいつもニコニコ
している陽だまりのような存在の男だ」
「...そんなポポロは研究所で彼女の秘密を知ってしまうんですよね」
世長は眉を顰め、彼に同情するかのように拳に力を入れる。
「...そうだ。ポポロが見つけてしまったのは自分の遺体だった。
ポポロは彼女が実験して生まれた恋人のクローンだったわけだ。
そして全てを知ってしまったポポロに懺悔するツクヨ。
ラストだが...そんなツクヨにポポロは嬉しそうに声を掛けるんだ」
「嬉しそうに....」
ひたすらに口を閉ざしていた立花がポツリと呟く。
(ツクヨとポポロは恋人同士。
亡くなってしまった恋人を求めてクローンを作り上げたけど自分との記憶が一切なくなっ
てしまったポポロ。
そして遺体を見て全てを思い出すんだ...。
ひたすら謝るツクヨに声をかけるんだけどそれを嬉しそうに...って)
「そういうわけで今から『うれしい』を演じてもらう。
まずは織巻。お前からだ」
「...ッす!!.........ふぅ..」
自分の名前を呼ばれた織巻は目を瞑り一度呼吸を整える。
新人公演以来のジャックエースを任される大きなチャンス。
吐き出した息はこの場の緊張を消し去り、入り込んできた空気はお腹の中から沸々と湧き
上がる高揚感へと変わる。
「ーーーーっっ....!!!!!!!
ーーーーーーっしゃああああああ〜〜〜!!!!!!!」
嬉しさを噛み締めながら両手を天井に突き上げ体全体でまるでバチバチと美しい火花が散
るように表現する織巻。
男らしいが澄んだその声はまるで打楽器のように聴くものの体を心を震わせる。
(なんて声量...!
スズくんまた一段と声が通るようになった...)
全身に力を漲らせた織巻の表現は『嬉しい』と表すにぴったりだった。
そして最後に軽やかに飛び跳ね擬音が聞こえてきそうなほどの満面の笑みで締め括られる。
「......ふん」
椅子に腰掛けたままの白田は目線を少しも彼から逸らすことなくボールペンを握った。
口元にあてた指先に隠された口角がほんの少し上がっていたことに織巻は気が付かないが。
織巻はこの一年で自分の強みである華の魅せ方に更に磨きをかけてきたのだ。
明らかに成長を見せた彼の表現に世長は固唾を飲んだ。
否、飲まれてはいけないー。
織巻という男は会場を味方にしてしまうのだ。
それは彼の元々持っている物語の主人公のような資質。
誰もが彼を舞台上で観ると好きになってしまうのだ。
ーー構うもんか。
世長はこの砂を舐めさせられるような気持ちをこの一年間嫌というほど味合わされてきた。
しかし彼の強さはその逆境で必死に生き抜いてきた鋭い硝子のような執着心。
(ぁ.....)
世長の表情がガラリと変わる。
痛いほどのプレッシャーに突き刺されていた体からは力がすっと抜け、静かに片手を掬い
あげるように上げていく。
正面へと伸ばされた腕は胸ほどの高さで止まった。
そして少しの静寂の後、彼は目を細め柔らかく愛おしそうに笑んだ。
(...創ちゃん.....凄い....)
織巻の表現が観るもの全てに情感を伝えるものだとすれば世長はたった一人の観客の心を
掴みにいくものだった。
二人が表したものは解釈も違えば表現方法も違う。
「...ふむ」
白田は世長の演技を見終えると空間にいる一人一人に目をやっていく。
(...『嬉しい』か......)
「おい立花」
「ぇ、あ、はいっ!」
「お前なら...どう表現する?」
「...ぇ」
私なら。
「っ!?」
「ぇ...」
頭で考えるより体が先に動いていた。
同期二人の演技に魅せられ徐々に募っていく情熱を止めることができなかった。
それが今解放へと導かれる。
「...............ッ...!
.....フッ....ぅぁ.....ぅうう...ーーーー!!!!」
彼女は思いきり泣き喚いた。
両手でとめどなく溢れてくる涙を拭う。
後から後から嗚咽とともに幸福が押し寄せてきて立花を緩やかに攫っていく。
その表現はこの場にいる三人をどこか切なくも優しい子守唄が包む。
ーーー嬉しい。
決して二人の解釈が間違っていたわけではない。
立花という人間の狂気と演劇に対する誰もよりも純粋な思いがそれらを全て飲み込んでい
く。
しかしそれはどこか心地良く。
「...なるほど。それがお前の答えか」
白田は手にしていたボールペンを脚本に滑らかな手つきで走らせる。
パイプ椅子をギイと鳴らしながら白田は立ち上がり三人に向き直った。
「今回の新人公演。
主役であるツクヨを支えるジャックエース・ポポロに立花に任命するーー」
「っえ....?」
「えっ!?...ってか立花さっきの何だよあれは!!?...ってか白田先輩ッッ!!
ポポロは世長か俺って言ってませんでしたっけ??!」
「仕方ないだろ。お前の芝居も世長の芝居も良かった。
ーーが、こいつの芝居がツクヨには必要なんだ。
あと立花がジャックをやるにあたってポポロの設定を変更したい。
世長。後で頼む」
「......はいっ!」
「あの...白田先輩...」
「立花...」
部屋を出て行こうとする白田の元へ駆け寄る立花。
先程の狂気はどこへ形を顰めているのかすっかり毒気の抜けた不安そうな表情へ戻ってい
る。
白田はハアと溜息を溢すと彼女の額を軽く小突いた。
「任せたぞ。俺たちが先輩方から貰ったものはとんでもなく重い。
...でもな、そんな先輩方の最高の舞台を観てここにやって来た可愛い後輩たちの前でそんな
顔したら今度は本気で痛いのお見舞いするぞ」
「......っ!し、失礼しましたッ!!」
白田の意図を汲み取り立花は急いで姿勢を正す。
颯爽と去っていく白田の背中に卒業していった先輩達の影を見た。
彼は確実に組長としての器へ歩み始めたのだ。
「.........ぁれ?...そういや結局俺たちの役は?」
かつて組長の部屋だった埃と本の山は持ち主と共に綺麗に片付けられていた。
「...っよ」
それでも未だ残された机の上に置かれたメモ帳の切れ端と台本を隅においやる。
デスクへ向かうとあの人がどれだけ孤独に夢を描いていたのかが嫌というほどわかり白田
は溜息を溢した。
「失礼します」
「...入って」
世長は務めて冷静に部屋へと足を踏み入れた。
白田は世長に背を向けたまま古ぼけたパソコンを起動しキーボードを叩く。
この沈黙が自分を責めているように感じ世長は思わずギュッと目を瞑った。
自分の不甲斐なさと立花の姿が脳裏に浮かんでは己の心臓を逆撫でしていく。
白田はもう一度台本へと目を落とすとボールペンをくるりと手の中で回した。
自己に浸っている世長にはその姿は見えない。
次の瞬間、静寂を破くようなガリっという音が彼の耳をつんざいた。
「ッ!?.....ぇ、白田先輩....」
「なに」
「だ、台本.......」
彼の持つボールペンは脚本の文字列を容赦なく黒で貫いていく。
先程彼女がジャックになることで台本が変更になると伝えられたばかりだったがそんなに
大きな変更なのかと世長は面を食らった。
「不服なの?」
「い、いえ....」
この本の創造主である人物を尊敬している白田がまさか脚本に対して冒涜ともとれるよう
な行いをしていることにギャップを感じ世長は口篭った。
事実白田も脚本を変更していいものかと直前まで悩んでいた。
執筆者である彼の意図に反抗している自分がいることにも驚いた。
だがそれと相反して手は驚くほど順調に作品を塗り替えていく。
数十分前まで頭を悩ませていた根が引き抜かれていくようだった。
「...なあ世長。お前の恋人がもしお前が死んだとして生き返らせたらどうする?」
「ぇっ...ぁ.....」
白田が何を意図しているのか頭の良い彼は直ぐに理解した。
それと同時に頭で浮かんでくる彼女との情景。
「......僕は嬉しいです。ーーーすごく」
それがどんな形でも。
かつての自分ならそう信じて疑わなかっただろう。
だがそれは宗教を信仰するようなものでそうしなければ心が壊れて濁流に流されていって
しまうからだ。
必死にしがみついた枝は酷く細く。
白田はそんな世長の言葉を背中で静かに受け止めていく。
いくら目を開けたところで縋り付けるものなどありはしない。
「..........だけど、悲しい、です....」
「....なんで?」
ツクヨと築いてきた思い出は今のポポロとのモノではない。
いくら彼が記憶を取り戻したとしてもきっとそれまで彼女に抱いていた気持ちはクローン
のポポロのものでそれを否定されてしまうように感じる。
またツクヨもポポロを通して過去の恋人を求めてしまっていると感じたから。
だからツクヨはきっと泣きながら懺悔するのだろう。
「...そか。ーーーーお前ってさ、優しいんだな。やっぱ」
「...ふぇ...っ?」
突然降ってきた思っても見なかった言葉に思わず声が上擦る。
「正直ポポロはお前にも織巻にも合ってると思う。
織巻はあのバカみたいな明るさで勝手に人を巻き込んでいくし、世長は人の良いところば
かり見ようとする。
....だからラストのポポロの嬉しいという言葉がツクヨを救えないんだ」
「.........っ」
また己の未熟さを痛感し今直ぐ図書館へと駆け込み本の海へと沈みたいと思った。
「ーーーだから変える。ポポロを」
「..えっ.....」
「ずっと違和感だった。あの言葉じゃツクヨは一生自分を責め続けるだろう...。
ーーーだからそれを壊すんだ」
さっきの立花の演技が白田の背中を押した。
何を躊躇していたんだ自分は。
心から尊敬している先輩の台本に自分なんかが難癖つけていいのかと頭を抱えていたが杞
憂だった。
あの先輩なら『面白いモノを作れ』と言ってくれるはずーーー。
「ポポロはツクヨより年下ってことにする。
元々アルジャンヌより背が低いあいつじゃ説得力に欠けるし.....。
そしてポポロはツクヨの父親という設定でいく」
「.......ぇ...ち、父親...?」
「なんだ、早速ダメ出しか」
「っち、ちがいますッ!!....」
「ーーポポロはクローンの研究をしてる博士だった。
そんな父親を心から尊敬していたツクヨだが、その研究所は火事になり彼も彼の夢も途絶
えてしまう....。
そして父親の夢を叶えるためにその想いを継いでいくんだ」
白田の頭には強烈に物語が展開されていきボールペンは真っ白なノートを埋め尽くしてい
く。
何かに取り憑かれたかのように書き殴っていく白田を世長は呆然と見ていた。
そして内側からジリジリと滲み寄ってくる気配に気がつく。
ーー早くこの舞台を観てみたい。
ーーこの中で生きてみたい。
それが自分の中の渇きであることに気が付き嬉しく思った。
自分は彼女しか愛せないと思っていたがちゃんと演劇を愛していたんだ。
「そしてラストにポポロは自分が恋心を抱いていた相手が娘と知るんだ」
「....そんなポポロはツクヨに嬉しいという言葉を....父親として娘を褒めてあげるんです
ね....」
何だか彼女がポポロに選ばれた理由が分かってきた気がする。
あの時彼女が周りを包み込んだ嬉しさ。
あれは恋人という身を焦がすような相手ではなくもっと深い根を下ろした家族のような暖
かみを感じた。
なぜ喜劇を演じた織巻でもなくたった一人を見つめていた自分でもなかったのか漸くカチ
ッとピースが嵌まった。
そうなると自分でも驚くぐらい視界が広がっていく。
「ポポロがツクヨに想いを寄せていたのはかつて自分が愛していた妻の面影を見ていたの
かもしれないですね」
「........!」
「ぁ.....すいません....出しゃばったマネして....」
「それ、面白いぞ」
「ぁっ.......はいッ!!!!....」
白田が頬を緩めた姿が自分という存在を再び支えてくれる。
世長は高揚感に自分の顔が熱くなるのが分かった。
「うるさい」
「す、すみません.....!」
織巻とつるんでるから馬鹿デカい声がうつったんだと軽口を叩く白田の声はどこか楽し気
だった。
そうだ。
自分には大好きなものが沢山ある。
居場所を求めて何にもなれなかった自分は居場所を探すために走っていなかっただけなの
だ。
もう一人なのだと縋り付いていた洞穴は暗く重い足枷となっていたが今は違う。
自分は夜を駆け前へ前へともつれた脚を進めていくのだ。
「....ってなわけで世長は立花のサポートに回ってもらうから久々のジャンヌ、頼むぞ」
「....................っぇええええええっ!!!!???」
「というわけでして.......その..ご指導お願いします...」
「ふふ、はいっ!」
何やら神妙な面持ちで彼が部屋に訪ねてきたと思ったらそんなことかと立花はクスリと笑
った。
「へへっ.....なんか...変な感じだね.....」
彼女の反応に気を許した世長はふにゃりと笑い照れたように頭をかいた。
二人は恋人同士ではあるものの人目を避けなければいけないため自室から一歩でも外へ出
れば仲の良い幼馴染兼同期の顔へと戻るのであった。
「えっと...創ちゃんの役はーー」
「ぁ、研究者のシンシアだね」
シンシアは頭が良くツクヨの研究所でも一目置かれている存在である。
一人で過ごすことが多い彼女は誰にでも分け隔てなく接するポポロに心を動かされ密かに
恋心を抱くようになる。
久々のジャンヌにしどろもどろになっている世長だが彼女演じるポポロに抱くものが自身
と同じであることが密かに嬉しかった。
しかしそれと同時にまた彼女へ固執してしまう黒い影に引き摺り込まれてしまうのではな
いかという一抹の不安も胸にあった。
「...また難しい顔してる」
「ぇ、ええ....?」
「ほら、こっち見て」
彼女の小さな両手が両頬に添えられその甘い心地に意識が溶かされ蕩けていく。
彼女の輝く瞳に反射している自分の姿は紛れもなく彼女が自分しか見ていないという証拠
でその事実も彼の心を跳ねさせるのだった。
「ぅわ.....顔、絶対熱いよね....今..」
「うん。真っ赤だね」
「うぅう...っ........」
こんなの恥ずかしい。
目の前にいる彼女の表情がより自分の動揺を証明する。
思わず視線を下げようとすると緩く閉じられた唇が目に入った。
自分は逃げようとしたのにと世長は喉を鳴らす。
己を諭す言い訳を頭に浮かべてはそのどれもがすぐに消え去っていく。
彼の待った時間を考えれば当然のことなのだが飢えた獣のような自分を無視できない。
それが今の自分の脳味噌と重なってしまえば迷わずその心に従ってしまうだろう。
「ッッ!!........コラっ!!!」
「ぁてっ!.....」
気づいたら視界いっぱいに彼女が広がっていた。
額に触れた柔らかい髪の感触がふわりと余韻を残し、その後じんわりとした痛みが現れて
くる。
立花に頭突きをされた世長は自分が無意識のうちに彼女に口付けようとしていたことを知
り更に頬を赤く染める。
打ち付けられた額よりも朱が濃くなってしまった表情を見られたくないとまた顔を背けよ
うとするが立花はそれを許さなかった。
「今から創ちゃんのためにジャンヌの手解きをするって話だったでしょ!」
「..ぅぅ〜............はぃ.......」
「もう.......」
何も言い返せず気まずそうに返事をする世長に若干呆れつつも漸く彼の顔を解放する。
頬に触れる温もりが離れてしまい少し寂しい気持ちになったが立ち上がった彼女の姿が眩
しいぐらい格好良くて世長は思わず見惚れてしまう。
目の前まで差し出された手は指先まで神経が行き届いており完璧なまでに美しかった。
「.....お嬢さん、お手を......」
「.....ふわっ........ぁ.....はぃ....」
自分よりも小さく柔らかな手だったが頼もしかった。
そのまま座り込んでいた自分をひょいと立ち上がらせ華麗にリードしていく。
立花が動く度に自分がどのような所作をすべきなのか体が勝手についていく。
彼女と呼ぶのが申し訳なくなるぐらいの紳士な対応に世長は自身の男が薄らいでいくのを
感じた。
以前は立花から雄の色香を感じる度、己がいかに下か見せつけられるようで燻っていた男
としてのプライドがゆっくりと解けていく。
彼女に手を引かれ腰を抱き寄せられながらゆったりとした動作でダンスを踊るかのように
体を揺する。
今はこの人に身を任せて良いんだ。
そう思えば自然とチグハグだった心と体が一つに混ざり合っていく感覚に陥った。
「......ふふ、お嬢さん。
そんな切ない表情をしていたら私に隠している気持ちが暴かれてしまいますよ?....」
「っ!!......」
「その顔もとても可愛らしいです....」
余裕そうでどこか影のあるその表情に言いくるめられていると感じてしまうもののそれを
心地良いとさえ思ってしまう自分は本当にこの人に恋焦がれているんだと実感してしまう。
だがこれはあくまで稽古。
自分のために立花は一役買ってくれているのだ。
「ぁ....ひ...卑怯ですわ......そんなこと...」
「卑怯とは?」
「そんなこと言われたら....私の気持ちは.....胸に秘めていたこの感情は.....どうすればいい
のですか....」
「....?!」
立花の腕から逃れられない世長は儚げで今にも崩れてしまいそうなか細い声で訴える。
しかし表情はどこか優しげでそれは立花という人間を拒絶してはおらず、あくまでも相手
を気遣った思いやりに満ち溢れていた。
立花は一気に感情が湧き立つのを感じた。
感情の赴くままに。
彼に詫びるように慰めの口付けを。
「....んむっ!」
「....素敵な紳士様....今はダメですよ...?」
その唇は世長の掌によって防がれた。
これは一杯食わされたとおどけたように肩を揺らす立花に世長は崩れた笑顔を浮かべた。
無邪気で毒気のないその顔に立花はハッとする。
「創ちゃん.....!
その表情すごくいいよ!
ポポロへの恋心を隠しているシンシアそのものだよ!」
「えっ、ほんとに...?」
「うん、うんっ!
仕草もすごく柔らかでこんな女性なら男性は放っておかないよ!」
「は、ははは...嬉しいな...。
でも君がリードしてくれたおかげだよ....」
「ううん。だって本当にキスしたくなっちゃったもん」
「ぅっ...........」
「あーあ、キスしたかったのになー」
「っぅぅ........ぁ、あの、さ......」
「でも仕方ないもんね。今は」
「..っ〜〜〜〜〜!!!」
すっかり体を離してしまった立花はクッションの上へ腰を下ろす。
態とらしく溜息を吐いてみせると顔を真っ赤にした恋人が乱暴な足取りで目の前にしゃが
み込んだ。
「....き、きす....今したいです....」
「ふふ、どうぞ」
世長が口付けしやすいよう目を閉じると次の瞬間熱すぎる唇が重なった。
熱い吐息は彼の緊張と情欲を含んでおりその余韻に夢中になる。
頬に添えられた手は指が細く緊張のせいか少し冷たかった。
学園で過ごしていく中でたった少ししかないこの時間をしっかりと味わう。
少し苦しくなってきた立花は頭を少し後ろへと逸らしそれを合図に世長は唇を解放した。
「.....あ、あのさっ.....」
「....さーて!私もポポロの台詞練習しないと!」
「ぇっ....」
この先彼が何を言わんとしているかが熱すぎる吐息のせいで分かってしまいそれを跳ね除
けるように声を上げた。
心地いい温もりは名残惜しかったが今はそれよりも自分の胸を突き動かすものがあった。
「創ちゃんのシンシアが思わず惚れちゃうようなポポロにしないといけないしね」
「ぁ!....っう、うん!
僕も後で白田先輩にもう一度ジャンヌの所作を教えてもらいにいってくる!」
彼女に自分を肯定されたことへの喜び。
そしてこれから創り上げていくものへの期待に世長は沸騰していた熱がまた別の熱いもの
へと塗り替えられていくのを感じた。
また新たな時代が幕を開ける。
近い未来胸をときめかせるあの舞台へ今日も彼らは恋をするのだ。