か細い声で泣くように祈った。
これは報いなのだろうか。
相手も思ったより力強く殴ってしまったのか痛みを逃すように右手を振ってみせた。
「鳳くん」
目の前の悪魔が背筋が凍るような笑みを浮かべ名前を呼んだ。
それだけなのに心臓は痛いほど跳ねる。
返事が返ってこないことに眉を顰める彼。
余計な抵抗をしてしまったと気づいた時にはもう遅かった。
ゴッと嫌な音が物置に反響する。
鳳はあまりの重さに耐えきれずその場に蹲った。
「…ック……!」
拳を打ち付けられた頬は燃えるような熱を帯び、骨が溶かされてしまいそうだった。
「ああ、やっちゃった…。まあ、でも君はいつも顔が出ない役だからちょうど良かったかも」
へらりと目尻を垂れさせる彼に文句の一つでも言いたかったが恐怖と痛みで体が強張る。
口の中は嫌な錆の味が広がり、彼から無理やり与えられた暴力をこれでもかと実感させてくるのだった。
世長は丸まった背中をひっくり返すように爪先で蹴り上げると彼の顔を靴底で踏みつけた。
鳳の高い鼻筋が体重を掛ける度歪んでいく。
先ほど傷つけられた痛みが癒えぬままの猛追に鳳の瞳には涙が滲んだ。
靴底に付着している砂埃が顔に擦り込まれていく嫌悪感と頭が割れるような痛みに鳳は低く呻いた。
反射的に彼の足首を掴み止めるよう促す。
「…生意気」
夜長は彼の抵抗を光の無い目で見下ろし段々と力を込めていった。
「っっ!」
屈辱的な行為から逃れようと足の下で必死にもがく鳳。
なぜ自分がこのような目に遭わされているのか。
指先に力を入れると世長のスラックスから覗く足首に爪が刺さった。
「…っ。…離してよ、手」
講義するように靴底を何度も何度も振り下ろす。
これ以上はまずいと鳳は反射的に顔を庇った。
その行為は痛みを回避するためのものではなく彼の役者として刻み込まれた誇りであった。
それを知ってか知らずか世長は漸く足を退ける。
鳳の端正な顔には赤く靴裏の跡が残り、一部は錆色が点々と皮膚に現れていた。
一目で酷い暴行を受けたと分かる彼の顔に世長は気を良くする。
激しい暴力の波が去ったことに安堵し、鳳の体からは力が抜けていく。
その隙を見逃さなかった。
「ッ”ッ“!!グォ“ェ”ッッ“!!!……!」
抵抗をやめた鳳の柔らかな腹を思いきり踏み付けたのだ。
「はは、鳳くんって詰めが甘いよね。新人公演の時も思ったけどさ」
「ゔッ...グッ...!!」
こんなにも惨めなことがあるだろうか。
全く予期していなかった暴行に構えていなかった鳳は顔を真っ赤にし身悶えた。
必死で込み上げる胃液をどうにかせねばと喉仏を鳴らす。
世長は最後の一撃をお見舞いして漸く満足したのかすっかり埃が舞ってしまった物置を後にした。
鳳はよろよろと体を動かし上半身だけ起き上がる。
痛みが酷く、特に顔がひたすらに強い熱を帯びている。
確かめるように己の顔に触れると指先に粘液が付着した。
鼻血だった。
制服のポケットから薄い青のハンカチを取り出すとそれで鼻を押さえる。
ドーランをまた買いに行かなければ。
見るのも恐ろしい自分の顔を想像し、鳳は身震いした。
役者である自分を静かに殺していく。
まるで暴露るのを恐れていないかのように激しく淡々と。
鳳には彼が分からなかった。
ただその思考は終わらない暴力を浴びさせられる内に手放した。
「.....稽古に、行かなければ........」
尊敬する先輩方に追いつかなければ。
背中を見せる同期に喰らいついていかなければ。
痛みですっかり萎縮してしまった体を無理やり立たせ制服の埃を払った。
こんなところで砂埃のように地べたを這っているわけにはいかないのだ、自分は。
何度打ちのめされようが諦められるわけがない。
「っはは...」
僕はお前とは違うんだ。
己の才能と向かい合うこともせずただ泣き喚き周りに子どものようにあやされている。
力無く笑うと切れた口元がちくっと痛んだ。
そんな世長創司郎に天罰が降るのはもう少し先のお話。
クォーツ寮の稽古場で一人高みを目指す鳳。
敬愛する上級生らは卒業してしまい、頼りにしたい人の一人である白田も今は慣れない組長の仕事に追われており、自分なんかが声をかけるのは躊躇われた。
日中は授業を受け、放課後になれば下級生の面倒を見る。
そんな多忙なスケジュールをこなし漸く自主稽古の時間が訪れる。
痛む全身に鞭を打ちながらセリフを体に落とし込んでいく。
大きな動きをすれば先日痛めつけられた手首が悲鳴をあげた。
「ーッ!........」
咄嗟にリストバンドに包まれた手首を庇う。
世長によって刻みつけられた暴行の証は顔にドーランを塗ることによって隠されている。
畏れに支配されそうになる頭を何とか止め、鳳は目の前の台本と向き直った。
その音が張り詰めた空間にガチャリと音が響き渡る。
「あっ、鳳くん!」
手をひらひらとさせ目を輝かせた立花が鳳に近づいていく。
誰にでも笑顔を振り撒く彼女だが、それは頑なな態度をとっている鳳の前でも例外ではなかった。
稽古場で1人残り台本と向き合っている彼の姿を嬉々とした表情で見る。
「なんだ、立花。僕に何か用かっ」
自分に向けられた好意の意図がわからず鳳は冷たく言い放つ。
だが立花はそんな拒絶を物ともせず鳳の近くでしゃがみこむと頬杖をついた。
長居するということかと鳳は目を瞑り小さく溜息をこぼす。
「…なんだ、稽古しないなら帰ればいいだろう!」
「あっ邪魔だった?」
「邪魔とまでは言っていないっ!」
ただ視線が気になる。
彼女の射抜くような視線。
どろりと背中を伝っていく視線はまるで品定めされているかのよう。
彼女に調子を狂わされつつも台本を片手に役を落とし込んでいく。
それを立花は頬杖をつきながらじっと見つめる。
鳳の首筋には汗が浮かんだ。
それを宝物でも見るような目で見るのだから戸惑ってしまう。
一頻り台詞を言い終わると鳳は隅に置いていた水の入ったボトルを取りに向かった。
それを皮切りに立花は立ち上がり鳳の元へと駆け寄る。
「鳳くんの王様、すっっっごく、良かったよっ!!」
「な、なんだっ!?気持ち悪い……!」
「ねえ、あそこの台詞の解釈って『本当は民の心を思いやっての発言』であってる?」
まるで子供が親に疑問に思ったことを尋ねたくてしょうがないといった風に純真な表情で詰め寄る立花。
己が表現した意図が伝わり、鳳は柄にもなく鼻をならし喜んだ。
そして暫し二人で稽古に勤しんだ。
他人と自主トレーニングをするなど卒業してしまった先輩たち以来でなつかしさを覚える。。
鳳は立花が加わったことによって新たな気づきを得る度、胸が躍った。
演技とは一人でも出来るが数多の人が積み重なってできたものこそ至高だ。
それをこの一年間、立花を筆頭としたクォーツ生の面々が教えてくれた。
彼らが歩んだ先には確かに美しい道が築かれていた。。
「二人とも遅くまでお疲れ様!」
二人の視線が一気に扉の方へ集中する。
涼しい顔をし、笑顔を張り付けたその眼は曇りガラスのようだった。
「創ちゃん!まだ残ってたんだ」
「うん。ちょっと、ね。よかったら僕も一緒に稽古してもいいかな?」
鳳の体が一気に強張る。
下腹が奇妙なほどキリキリ音を立て、鉛を飲み込んでしまったかのようだ。
先程までの前向きな気持ちはどこへ消えてしまったのだろう。
彼という存在がいるだけでこんなに呼吸がし辛かったなんて。
鳳の額に脂汗が滲んだ。
「もちろんだよ、創ちゃん!あ、鳳くんがよければだけど......って、鳳くん?!」
鳳を振り返った立花は彼の異常が目に入り驚きの声を上げた。
数分前までの彼が嘘みたいに青ざめている。
「どうしたのっ!?酸欠になっちゃった?!」
確かに部屋は防音だったため空気は薄かった。
鳳の身を案じ、立花は彼の肩を掴んでその場に座るよう促す。
しかしそれを鳳は力無く止める。
「...余計なお世話だ。......己の体調管理など己でするっ!....」
「でも、顔色すごいよ...!」
立花は鳳のボトルとスポーツタオルを彼に手渡し心配そうに見つめる。
タオルを持つ指先に変に力が入り無意識に痙攣していることに気が付く。
それを認めないと言わんばかりにタオルで顔を力任せに拭った。
顔を離すとタオルの生地に橙色の塗料が付着しており、その正体が自身の顔に塗ったドーランだと分かると鳳は咄嗟にタオルで頬を覆い隠した。。
「本当に大丈夫、鳳くん?もう帰った方がいいんじゃないかな...」
世長は眉を八の字に曲げながら心配そうな声音を出した。
よくもまあこのような言葉が出るもんだと彼の役者としての技量を嫌な時に見てしまい心の中で悪態をつく。
鳳はタオルを頬にあてたまま片手でボトルと台本を拾い上げると世長の立っている扉の方へ歩き始めた。
「私寮まで送って行こうか?」
「菜々ちゃん。それなら僕が送っていくよ」
鳳が横切る際に世長の手が彼の肩に触れようとした。
「寄るなッッ!!!!…いや、子供じゃあるまいし、一人で帰れる…」
鳳は咄嗟に声を荒げてしまい逃げるように部屋を後にした。
取り残された立花は考え込むように俯いた。
「.......一体どうしちゃったんだろうね、彼。菜々ちゃん、よかったら僕の読み合わせに付き合ってもらっても…」
「私やっぱり心配だからちょっと見てくる!」
「え……」
自分に歩み寄ってくる世長を避け、立花は部屋を飛び出した。
明らかに普通の様子ではなかった彼が気になってしかたなかった。
「...酷いな」
一人取り残された男の言葉は誰の耳にも届かず扉へと吸い込まれていった。
鳳は人の目を避けるよう早足で寮にある自室へと戻った。
しかし部屋の前で何者かによって肩を掴まれ行手を阻まれる。
「なっ?!...立花ッ!なんでオマエがここに!!.......」
「ッハア!...だ、だって....鳳くん....!ほんとにしんどそうだった、からっ...!」
稽古場から寮まで走ったせいで息が整わない。
鳳は苦虫を噛んでしまったかのような表情を示す。
まずい。
今は人目につくのは避けたい。
何とか心配する立花を宥めようとするが彼女の表情は暗いままだった。
「ねえ、ほんとに大丈夫...?」
「.......あぁ、そう言ってるだろ」
鳳はそんな立花をよそに背を向ける。
本当はあの時、叫び出したかった。
怖いと震えていれば良かったのだろうか。
きっと奴はどれも許してはくれまい。
鳳は背筋に痛みが走った気がして顔を歪めた。
身を固くした彼に立花は自身がどうすべきなのか迷っていた。
何も言わなくなった彼女を拒絶するように鳳は自室の扉を開ける。
鳳の様子は誰が見てもおかしかった。
そんな彼を放っておけるわけがない。
気が付けば彼の腕をつかんで引き留めていた。
「ッッッ!!!…」
「ぇ…ご、ごめん!」
しかし立花は鳳のあまりの痛がり様に慌てて手を放す。
強烈な違和感。
立花は鳳の手首を見る。
先ほど自分は手に力をほとんどいれていたつもりはない。
それなのに何なのだ、この痛がりようは。
「鳳くん、ちょっとごめんね」
立花は鳳の手首に巻かれた黒いリストバンドを手早く外した。
「っっ!!……」
「え…どうしたのその痣…」
とっさに手首を頬のタオルを持っていた手で庇ってしまったため彼の頬の痛々しい痣が露見してしまった。
今度は自分の顔を隠そうとしたがそれが裏目に出てしまう。
「…この手首の痣も…!…鳳くん、一体どうしたの?」
「関係ないだろう。頼むから放っておいてくれ…」
鳳はその場から逃げるように扉を閉める。
取り残された立花はしばらくその場から動けずにいた。
足に重い衝撃が走った。
痛みから思わず足を引こうとしたが目の前の人物がそれを許さなかった。
「ぃ゛ッ゛ッ゛ッ゛ッ゛!!!?………」
「なんで逃げようとしたの?」
上履きの上からとはいえ爪先がじんじんと痛み、熱くなる。
鳳が痛みから逃れようとすればするほど世長は足に体重を掛けていく。
その重みに耐え兼ね、足の甲がみしりと歪んだ。