夢む少女の憂鬱

緩やかな、優しい夢だった。私は絶え間なく続く微睡みの中で、ゆらゆらと揺蕩い、足元の覚束ない恐怖感と、相反する「何も恐れることは起こり得ない」という奇妙な安心感——慢心とも言える——に包まれていた。

母と父がいて、兄が二人、子供の頃からずっと一緒に育った大柄な猫が一匹。それが私の全てであり、こうして笑い合っていられるのが何よりの幸福であった。その平穏が乱されつつあること、いや、もはや失われかけていることに、当時の私は気付かないふりをしていた。
空を飛び交う戦闘機が焼夷弾を落とす。何のためらいもなくミサイル発射のスイッチが押されて、あっという間に街がまるごと消え去ってしまう。
隣の家に住む、お人好しで有名な男性が「とうとう僕のところにも来たそうだ」と徴兵を知らせる手紙をひらつかせて、はは、と曖昧に笑っていた。「僕のような文人まで駆り立てるとは。やぁ、戦況は悪そうだね。……まぁやるだけやるさ」そう言って、彼は大人しく兵役に就いた。別れ際、僕は渡せないからと預かった新作の原稿は、今も私の机の中で眠っている。——受け取るはずだった編集者が、翌日銃撃に巻き込まれて死んだからである。
「次はおれだろう」
長兄はそんなことを言って、諦めたように笑い、それでもその日が来るまではと、いつ死ぬとも限らぬ、けれども家族が皆揃っている「平穏」を楽しんでいた。家族は一人残らずそのように振る舞った。私もまるでいつまでもこの日々が続くような顔をして笑っていた。

これが私たちの平穏なのだ。この時世、家族は皆揃っていられるだけでも随分と幸せなことなのだ。

そう考えれば、多少の飢えも、日に日に高騰していく物価も、どうということはなかった。ありとあらゆる艱難辛苦に蓋をしてごまかしていたのだ。一家総ぐるみの大芝居である。
上手くやれていたと思う。私たちの中に、演技の才に恵まれたものは一人もなかったけれど、それでも上手くやれていた。素人の三文芝居くらいにはなったのじゃなかろうか、そんな風に思う。
少なくとも私が病に倒れて、治療法が発見される未来の可能性に命を預けなければならなくなるまではそうだった。

  私は別にここで死んでもいいと本気で思っていた。目を覚ました時、家族が皆揃っているとも限らない。おそらく男手は残らず戦地に送られている。そもそもこの果てない戦争が終わっているとも限らない。
何年、何十年——……いや、もしかすると何百年も後になるかもしれない。そんな曖昧で不確定な未来のために、多額の費用を支払うのはよしてくれと頼んだ私に彼らはかぶりを振った。
なんと言っていたか——今では思い出せないけれど。
何はともあれ私は凍結保存する為の装置の中へ入れられて、ゆっくり、ゆっくり、深い眠りに落ちていった。最後に見た時、母は泣いていた。思えば彼女もあの時、もう2度と会えないことに気付いていたのかもしれない。
 
それは安らかな眠りだった。機銃の音も、緊急アラートもない。気のたった人間の怒号も、気を違えた人の叫び声もなく、心休まらない物騒な重苦しい沈黙も存在しなかった。ただ暗闇だけが広がっていた。時折そこに、平穏極まりない日常生活の虚像が映し出されては、一瞬でかき消えていくだけだった。
いつ目が覚めるのだろう。
そんなことを考えるのはとうの昔に辞めてしまった。私は静かに、穏やかだった日々の虚像を眺めて、時として追体験していれば良かった。
馬鹿げた病を治療する為の画期的な方法が発見されるその日まで、ただ黙して意識を失っていること。それが私に課せられた任務であった。
 
 
——……不意に覚醒を促される。永久に等しいほど長く続いた静かな眠りを妨げられ、私は眉間にしわを寄せた。上手くできたかどうかはわからない。コールドスリープから起こされたばかりの身体はまだ硬く、ところどころ凍りついて突っ張っていた。
ゆるゆると目を開けて何度か瞬きをする。そこでやっと、視界が半分真っ暗なままであることに気づいた。
「あぁ、よかった!無事に目を覚ますことができて」
そう放たれた声は私の知ったものではなかった。
別の声が今度は右のほうから聞こえてきて、
「おはよう」
と挨拶する。
私も何か返そうと口を開いて、……声の出し方を忘れていることにハッとした。彼らはそれも全て察したように軽く笑ってこう告げた。
「今は西暦2215年7月21日だ」
「おはよう、クラウディア」
やはり、私があれほど大事にしていた平穏な日々は、永久に失われてしまっていた。
たしかにショックなはずなのに、不思議なほど心が凪いでいた。