「お前はいつまで拗ねてるつもりなんだ。年端のいかないガキじゃないんだから、いい加減に機嫌を直せ、じゃなきゃ理由を話せよ」
紅茶の入ったカップをソーサーに置きながら、暁は嘆息した。ローテーブルを挟んだ真正面、ソファにその身を横たえる長身の青年は、彼女の言葉に「拗ねてる訳じゃねえ」と小さくごちた。
その日は珍しく屋敷に来客があった。田園の真ん中にぽつんと建っている洋館には、暁の知り合いは愚か郵便配達員さえ滅多に訪れないので、今回の来客には青年——煌はもちろん、共に住まう双子の姉妹や、家主である暁当人さえ驚いていた。
とはいえ彼女には知己が多い。どんな繋がりか知れないが、妙に老齢の知人もあるらしく、今日訪ねてきた異国の若者は、どうやら老齢の知人の関係者のようであった。
客人は四半時ほど応接間で暁と談笑した後、そろそろ時間だからと去っていった。暁にひとつ接吻を残して。
煌が、曰く「拗ねて」いるのは、その接吻に原因があった。
人の家の玄関先でキスをする奴があるか、大体そんなことをするなんてまさか暁の恋人か何かなのだろうか。——そもそもこいつもこいつだ、簡単に受け入れやがって、云々。不平をあれやこれやと並べ立てながら、しかし声に出さぬよう注意して、暢気に紅茶を啜る彼女を見やる。
「……何が気に食わないんだ、え? 夕飯が中華じゃなかったのが不満なのか」
「そんな子供みたいな理由な訳あるかよ。ばかなんじゃねえの」
「私から見りゃお前なんか子供も子供だね。違うなら話してみろよ、そうぶすくれられても困る」
何か言いたいことがあるんだろう、と畳み掛けられて、煌は思わず舌打ちした。言いたいことは確かにあるが、だが何と説明したら良いものか分からないのである。
あいつとキスしていただろうと言うのが一番簡単で、一番正しいのだというのは分かっていたが、しかしそんな言い方をすればまるで嫉妬しているようではないか。自分と彼女は、そういう関係ではないし、此方としてもそういった関係になることを望んでなどいないのだから、余計な誤解を招くことのないような言い回しが……、オブラートに包んだ都合の良い言い回しが、煌には思いつかなかった。
ごにょごにょと声を漏らす。すると彼女が「何だって?」と少し苛立たしげな声で問うてくる。
——そうだった、暁という女は見かけよりずっと短気な方だった。話したくはないが黙っていてもろくなことにはならないだろう。気が立ってくると、暁はどうも口より先に手が出てくる。彼女の平手打ちは、手加減されていても涙が出るほど痛いのだ。
痛む頬を押さえて眠りにつくよりは、理由を告白する方が幾分かましである。渋々ながらも口を開き、お前が、と言葉を紡いだ。
「お前が、あの……あいつと、別れる時に、」
「あぁ、あれか」
「……付き合ってんの」
「笑えない冗談はよせ。昔の上司の孫と懇ろになる趣味はない」
交際を認めてくれた方がよほどか気が晴れた、と内心毒づいた。
遠距離恋愛の真っ最中であるのだと言われれば、なるほど接吻にも頷けるように思うが、男女の仲でもないとは、ならばあれはどういうことなのか。そう糾弾してやろうと煌が再び声を発するより早く「あれはな」と切り出される。
「あいつの故郷の挨拶でな。深い意味はないんだ、少なくとも私にはないし、向こうも無いだろう」
「挨拶?」
「挨拶だ」
なにぶん日本より向こうで過ごした時間の方が長いんで疑問に思ったことはなかったが、お前みたいな童には刺激が強かったか?
ふん、と小馬鹿にされたような気がした。そして恐らく気のせいでは無い。暁の唇が楽しそうに歪んでいるのが何よりの証拠だ。
殴るのでもなく罵るでもなく、ただひたすら煌を子供扱いしている時の彼女は、煌の知る「暁」の性質のうち最も厄介で腹立たしく、そして外見年齢に釣り合うだけの悪戯っぽさがあった。とはいえそれを「可愛い」などと表現できはしなかったが。
舌打ち混じりに「どうってことねえよ」と吐き出す。
「それくらい俺だってできる」
へえ、と彼女が息を漏らした。「なら今してみようじゃないか」
弄ばれている。この屋敷の家主はとことんたちが悪い。
「——いい!要らねえ、わざわざ今しなくてもいいだろ!」
半ば怒鳴るようにしながら立ち上がり、居間の扉に向かう道すがら、一旦止まって、未だに意地の悪い笑みをたたえている暁に、おやすみ、とやはりこれも叫ぶように告げる。
此方はこんなに気が立っているというのに、諸悪の根源たる彼女はあっけらかんとしたまま「なら私も寝よう」とソーサーを片手に席を立った。そうして、目にも留まらぬ速さで彼の襟首を引っ掴んで顔を寄せる。額に一瞬受けた柔い衝撃は、触れたのだか触れていないのだか分からないほど微弱なもので、ハッと気付いた時には既に離れていた。
「おやすみ煌」
と軽い足取りで立ち去っていく暁に、煌はまたひとつ小さな舌打ちをこぼした。