ケロイド

暁の身体は細く、そして薄い。描く線こそ華奢であるが、しかしそれは、すなわち余計な肉が付いていないことの裏返しでもあった。
彼女の細腕はしかし豪腕である。その手は数多の血に塗れ、幾度も銃の引き金をひき、剣の柄を握り締めた。すらりと伸びた脚も、様々な戦地を駆け、或いは長旅を踏破した健脚である。
暁は長い生命のうち、多くの時を闘争の中で過ごした。なれば。

  なれば、その身に多く傷痕を持っているのも当然のことわりと言えよう。
 
煌は一度だけ、暁の背中を見たことがある。
些細な事故であった。夜更けに帰ってきて、風呂に入ろうとしていた暁が、洗面所の鍵を掛け忘れていた。夢見の悪さに起きた煌が、ぼんやりした意識を醒ますべく、顔を洗いに扉を開けた。そこにシャツを脱いだ暁がいた、ただそれだけである。
だが目の前に突如飛び込んだ薄橙に煌の意識は一気に覚醒し、飛んでくるであろう拳を素直に受け止める為に目を閉じる——その一瞬。
一瞬見えた彼女の背に、無数の傷痕があるのをはっきりと覚えているのである。
 
大小様々な痕の中でも、一番に目を惹いたのは、白磁の肌を斜めに走る大きな切創であった。
少し骨ばった背中を、右から左へ、腰までばっさり斬られたらしい傷痕に、思わず「それ、」と声を漏らして、すぐさま口を噤んだ。
触れるべきではない、と思ったのだ。無論、触れるべきではない。そも、その痕について事情を聞いたとて煌にはどうすることもできなかった。
彼女の身体には、戦の名残がしっかり刻み込まれている。煌が生まれる以前の戦争で拵えたのだろうと直感した。
慌てて謝罪を述べて、踵を返した煌に、あぁ、と暁が声を上げる。
「別に知られて困ることじゃない、気にするな」
玲瓏とした声は普段のそれと変わらない。狼狽はもちろんのこと、素肌を見られたことに対する羞恥や、或いは怒りさえ感じられなかった。
 
並みの女ではない、と思ってはいた。思ってはいたが、その証左をまざまざと見せつけられたような、そんな印象の残る背中であった。
暁はああ言ったが、「わかりました、気にしないことにします」と忘れられるほど煌は素直ではなく、また淡白でもない。
寒いと古傷が痛むという人間は大勢いる。暁もまたそうなのだろうか。自分にはあまり大怪我をした記憶もなく、「古傷が痛む」感覚も分からないのだがあれほど広く大きなケロイドを作るような傷である。今も痛むならば相当痛いに違いなかった。

朝焼けに白みつつあるリビングで悶々と唸っていた煌のところへ、風呂から上がったばかりの暁がふらりと現れた。
まだわずかに湿っている様子の髪をタオルで押さえながら、
「間違ってもあいつらに言ったりするなよ」
あの二人にこんなののことは知らせなくていい。
「言わねえよ」
全く見当違いな忠告だと思った。例えば相手があの姉妹でなくとも、暁の背が傷だらけだった、などということをわざわざ吹聴するような悪辣さを煌は持ち合わせていなかった。
むしろ斬られた時の痛みやその後を思うと、身の毛がよだつようだった。およそ想像し難いことだが、彼女も膝をつき、或いは地に伏せたやも知れない。回復にどれほど掛かったか分からないが、その治療とて楽ではなかったはずである。いつ事切れるとも知れぬ危篤状態にあったかもしれない。煌は何より、暁が立っていた場所があまりに死と近いのを心底恐れた。
恐怖心や不安を気取られぬよう努めて静かに、今も痛むのかと問う。
隣に座った暁がこちらに視線を寄越したのが分かった。朝日に照った瞳は凪いだ深紅である。——一瞬血だまりを想像して、煌は内心かぶりを振った。
暁は「いいや、」と答えかけて数秒口を閉ざした。
「……痛む時もある、が、まぁ要は慣れだよ。酷かったのは最初だけで今は大したことじゃないんだ」
だから何もお前が気にすることじゃない——と言う彼女の声は、やはり普段と何ら変わりなかった。静かで耳触りのいい、不思議なほど落ち着いた声音であった。