そのとばりを落として

双子過去編



ぴり、とひりつく痛みが耳に走った。顔のすぐそばに突き立てられた鋭い刃にごくんと息を飲む。
銀製のナイフ。柄の部分に精緻な彫刻が施されたそれは、確かドイツの親戚が手土産に持ち込んだカトラリーの中の品だ。母がいたく気に入り、特別な時——例えばクリスマスや誰かの誕生日——の食事で使おうと言って、家のどこかにしまい込んでいたものである。
私はそれがどこにしまわれていたのか気付くことはなかったのだけれども、彼女には容易に解き明かせる問題であったらしい。その証拠に、母の宝物であるはずのナイフが、今こうして床に突き立てられている。
美しいカトラリーを握り締める白魚のような手も、また彫刻のように美しかった。否、彫刻など生ぬるい。あんなものよりもずっと、どんな美術品も及ばぬほど、その手は可憐で美しい。

「姉様」と掠れた声が出る。
私の上に跨って凶器を握り締める姉様の瞳は、いつにも増して無機質だ。レインボーフローライトをそのまま埋め込んだように透き通る、静謐な眼差し。ほかの何よりも愛おしい両の眼は、どこまでも無機的でありながら、その奥底に堪えようもない憤怒を宿している。
ぞわりと背中が粟立った。姉様に殺されるのだと思った。アンティークドールのような、一枚の絵画のような、人離れした、誰よりも麗しく愛おしいひとに殺されるのだと思った。
姉様は何も言わずに私を見下ろしている。今から誰かを殺すのだとは到底思われない、静かな、凪いだお顔。
「ニコルお姉様」
もう一度彼女を呼ぶと、今度は「何?」と短い返答があった。いつもと寸分違わぬ玲瓏とした声にほんの少しだけ安心してしまう。
「私、死ぬの?」
姉様はまた沈黙した。そっと瞼を伏せて、ゆるゆるとナイフの柄を握り直す。指先の動きが映画のワンシーンのように綺麗で、スローモーションの動画を見ているようで、ほう、とため息が漏れた。
 
姉様に殺されるならば本望だと思う自分がいた。それどころか、彼女が人を殺めるならば、その相手は私でなければならないとさえ思った。
誰より美しく、清廉な姉様が、その手を汚すならば、それは私の為でなければならないのだ。そうでなければ私は、彼女の犯罪を赦せなかった。どうして私でなかったのだ、貴女の手を濡らす朱は私のものではないのか、——そう詰問してしまうのではないかと思われた。
けれど今はその可能性もない。愛すべき姉様の、鮮烈なまでの怒りも、それを込めた刃も、全て私一人に向けられている。ならば、良い。
母には申し訳が立たないが、この凶器が私の心臓を貫くならばそれはとても幸福なことなのだ。
「姉様、どうか聞いて」

殺されるならばそれで良い。しかし、置き土産のひとつくらいは残しておきたかった。
現人神に等しい彼女の尊さを損なうからと、胸の奥の方で大事に匿っていた、歪んだ恋慕の情。ニコルという人間は、私と瓜二つの実姉であると同時に、清らかで慕わしい一人の女であったのだ。

刃物を握る彼女の手に、己のそれを添える。
小さく華奢なその手には、ナイフなど相応しくないと思っていたのだけれど、嗚呼、こうして実際に目の当たりにすると何のことはない。相応しくないだなんて嘘だ。倒錯的で、とても艶美ではないか。
「……アンリエッタ、」
「愛してるわ、ニコルお姉様」
その言葉に姉様の瞳がわずかに揺らいだ。
「……本当に、心から」
彼女の手から力が抜けた隙をついてすかさず指を絡めた。私とよく似た手だというのに、私よりも柔らかで繊細だった。
「どうして」と小さな声が漏れる。
自分の想像よりも遥かにうろたえた様子の姉様の姿に、かすかに胸が高鳴った。姉様は常日頃から冷静で、心を乱したりするようなこともないのだが、それ故にこんな風に動揺しているのを見られたことがどうしようもないほど幸せだと感じる。死ぬ間際にこんな気持ちになれるだなんて。
「姉様は、……姉様は私を」
「——……愛してるわ」
無機質な双眸に切ない炎が揺らめいて、端整な顔が少しだけ歪む。
「でも、わたし、……」
言わんとしていることは解った。だから私はただ静かにかぶりを振って、いいの、と呟いた。
良いのだ。ただ、ただ、——。
「最期にキスをして」
姉様の頬に添えるための左手が私にはなかった。今更恨むべくもない生まれついてのものだけれど、それでもこの肝心な時に、とほんの少しだけ口惜しくなってしまう。
彼女も同じ気持ちでいてくれるだろうかとその顔を窺って、ふ、と息を吐いた。
ゆるい八の字になった垂れた眉尻を一層垂れさせて、彼女もまた息を吐く。
そうしてこくりと頷いて、柔らかな唇で私のそれを塞いでくれた。唇が触れたのはほんの一瞬だったと思うけれど、私には人生で一番長く感じられる「一瞬」だった。優しく、哀しい口付けに、思わずぽろりと涙が溢れてしまう。
ぱた、と頬に雫がぶつかって、はっと見上げると姉様も泣いていた。仄暗い部屋の中で溢れた涙がきらきらと輝いて、彼女の瞬きの度に煌めく星の欠片と相まって、二人の間に夜空が広がっているようだった。