幸福にして呪い

月明かりの下に浮かび上がる白い花弁。その中心に蹲って慟哭し、疲弊した瞳にありありと絶望を滲ませて私を見つめる女。清らかで、さながら一枚の絵画のように艶美でありながら、救いようもないほど破滅的な光景であった。

彼女は幾度か咳き込んで、ぎろりと眼光鋭く睨め付けてくる。刺すような眼差しに背筋が粟立ち、興奮にも似た感覚が爪先から這い上がっていった。女が、あ、と声を出す。掠れ、嗄れた、いびつな声が耳を打ち、私は自身を震わせる不可思議な高揚感から目を醒ました。
「貴方、如何して此処へ来たの、——」
「なあ君、それは何という花なんだ」
彼女の問いを遮って声をかけると「何だっていいじゃないの」と凍てた返答があった。
「……貴方には関係のないことよ」
吐き捨てるように続けて、再び数度咳をする。そのどれもが空咳であった。身体を折り畳んで、血を吐くような咳を繰り返す度、女の口から、空気と一緒になって花びらが零れ落ちていく。
彼女の周囲に落ちるそれもまた、彼女が吐き出したものなのだろうか。以前、花を吐く病に関する記述を読んだことがあるが、実際にそれを患った人間を目にするのは初めてである。

傍迷惑で、どうしようもないほど下世話な好奇心が、君は花を吐くのか、などという言葉になって口から飛び出していった。彼女はだいぶ気を悪くした様子で——それはむしろ当たり前なのだが——、そうよと頷いた。その瞳には矢張り、うっすらと涙の膜が張られて、玻璃のようにきらめいている。
「君は一体、誰の為に病に苦しんでいるんだ? そんなに良い人なのかい」
「……失礼な人。でも、そうね、貴方よりずうっと良い人よ」
また、花びらが溢れた。女の顔は苦悶に歪んでいたが、想い人に考えを巡らせているのだろう、口元には薄く嫋たおやかな笑みが浮かんでいる。
そうして、肉感的な唇の端からはらはらと花弁を溢しては、喘ぐように息を継ぎ、彼女の秘密を目撃してしまった私をきつく、恨めしそうに見つめるのだ。

女が吐いた花は、どれも強い芳香を放っていた。彼女が嘔吐するたびに香りは一層濃くなり、しまいにはムッとして吐き気を覚えるほどになったが、私はなおもその場に留まっていた。女は大層不愉快そうにして「いつまでいるの」と幾度か尋ねてきたが、それには何も答えなかった。
私は、見目の綺麗な美しい女が、誰かへの思慕に苦しみ、病に侵されて花を吐いているという光景に、一種の背徳的な美を見出していたのである。芸術品に魅了され、それを熱心に鑑賞するような心地でいて、故にこの場を後にしようとは思わなかったのだ。

私は、彼女に悪いと思いながらも随分長く其処にいた。
初めはぼうっと突っ立って、何を言うでもなく傍観していたのだが、途中から籐椅子を持ち出してきて、彼女が落ち着いている時に一言、二言、声をかけるようになった。彼女もそのうちに答えを返すようになり、症状の軽い時には、やれ腹が減ったの喉が渇いたのと注文をつけるようになったので、私はその都度、注文通りの品々を女のところへ運んでやった。
何度目だか分からない月夜、ふと思い出して、
「君はいつまで花を吐くつもりでいるんだい」
と訊いてみると、
「いつまでもよ」
と返答があった。「いつまでも?」
「そう、いつまでも」
「それは——、……大層なことだが、足元に散らばっているのは君の想いの成れの果てだろう。叶えたいとは思わないのかい」
耽美だ、などと思って見ていたが、当人は無論苦しそうであった。長く近くで見ていた私には、症状が次第に重くなっていることも、彼女の死期が近いことも分かっていた。
花吐き病なる通称で知られているこの疾患は、どうも想いを遂げて結ばれることで完治するのだそうだ。不治の病というわけでもないのだし、もし一欠片でも可能性があるのなら、告白したって良いだろうに、彼女はその気配を見せず毎日花をはらりはらりと溢している。私はそれが不思議でたまらなかった。
女はごぽりと一際多くの花を落として口を拭った。

「叶わないわ」
「だって、あの人ったら、私を置いていったのだもの、もうずっと前のことだけど」
「——でも君はその人が好きなんだろう、今も」
「えぇ、そうよ」

だからこうして花を吐いているのだと、女はあだっぽく笑う。辺りに立ち込める芳香と女の色香が混ざり合い、強烈な麻薬として脳髄を刺激し、ほとんど反射的に私は立ち上がった。
ふらふらと花園の真ん中に膝をつく彼女の下へ歩み寄る。一歩足を踏み出す度に、革靴の底でカサカサと萎びた花弁が音を立てた。

そうする間にも女の笑みが崩れ、喉元と口を押さえて激しく咳き込み、また大量の花を溢す。花びらがどうも喉に引っかかっているらしく、幾度も空咳をして無理に吐こうとしたものだから、やっと吐き出した白い花弁にはべっとりと鮮血が付いていた。
「君、そう無理をするもんじゃないよ。そんな風にして、これ以上酷くなったら君は、あまり言いたくはないが死んでしまうだろう」
「私は死ぬのよ、その為に、……死んであの人のところに行くわ」
背中をさすろうと手を伸ばす私に、余計なことをするなと言わんばかりの視線が注がれる。
女の目からは滂沱の涙が零れ落ち、血に濡れた唇の隙間からなおも大小様々の花を落とし続けていた。霞むように滲む眼の焦点は合わず、顔面は蒼白である。そこには人を畏怖させるだけの気迫があった。私は一瞬、彼女から離れて籐椅子に座って、そうしてそこから彼女の死に様を見届けるべきなのではないかと考えた。

だが結局、彼女の隣に留まってその死を見届けることにした。理性の裏では、本能が、魂が、この女の恐ろしく凄絶な死を最も近い場所で見ていたいと必死に叫び声をあげていた。そしてそれは理性を丸ごと飲み込んでしまって、私の足を、血と花にまみれた大地にくくりつけたのである。
……いや、初めからそのつもりで此処にいたのに違いない。私は女が花を吐く様を美しいと思って、魅了されて此処にいた。ある人間の破滅を、繊細に優美に描き出した——そういう名画が動いているのを鑑賞するような思いで椅子に座っていたのだから。
ふと彼女の双眸を覗き込もうと身じろいだ瞬間、柔らかく、少し湿ったものが指をかすめた。何だろうと視線を落とすと、彼女が数刻前に吐き出した胡蝶蘭であった。胃のあたりにもやもやとした不快感を宿った。私の顔が顰められたのを見て、女は苦悶の中に笑みを滲ませる。
「貴方も、」
貴方も私と同じになるのよ、と彼女は言った。
同じ。同じというのは、つまり、そういうことか。

彼女は最期に月下美人の花びらを何枚も零して、自らが作り出した花の海に身を横たえた。ぞくりと背筋の粟立つような光景だった。色を失い、温もりを喪っていく女を見つめる私の口から、ひとつ、花が落ちていった。