カナコ

ピグマリオンコンプレックス(アガルマトフィリア?)



 その女は人形のように美しかった。

 彼女は、私の旧い友人のもちものだった。初めて会ったのは、もう十数年も前のことになろうか、山奥の田舎の、友人が所有するコテージでのことになる。彫刻家と兼ねて人形師をやっていた友人は、そのコテージを自宅兼アトリエとして使用していて、普段は世間――というより、人――から離れて静かな暮らしを営んでいたのだが、なんでも「久しぶりに誰かと話をしたくなった」とか、そういった理由で私を招いてくれたのである。
 彼は散らかっているけれど、と言ってリビングに私を通して、
「君は何が好きだったっけ、お茶……、や、コーヒーだったか」
「あぁいや、最近はコーヒーはやめにしたんだ」
「そうなのかい?それはすまなかった、」
 とキッチンの方へ歩いて行った。その後ろ姿に「私の方こそすまないね」と投げ掛けて、ふ、と視線を室内へ彷徨わせた時に、ちょうど彼女が壁際に置かれた長椅子にしなだれかかっているのが目に入ったのである。

 艶々とした黒髪が椅子の座面に散らばって、優美な曲線を描いている。力なく垂れた腕は白磁のごとく白く、そして細かった。顔立ちの方は私の座る椅子からでははっきりとは判らないが、すっと通った鼻筋から続く顎までの曲線を見るに、きっと相当な美人だろうと勝手に想像した。
 人里離れたこの場所で一人静かに生活しているものとばかり思っていたが、なんだ、同居人がいるのではないか。そうなると「久しぶりに誰かと話したくなった」という彼の誘い文句に、いささかの疑問が生まれるが何か事情があるのだろう。

 と、そこへ家主が淹れたてのお茶と甘味とを持って戻ってきて、「あぁ」と声をあげた。
「紹介がまだだったね。……ほらカナコ、立てるかい……」
 カナコと呼ばれた女性は、彼の呼び声に答えぬまま、やはりだらんと四肢を投げ出している。具合が悪いのじゃあないか、それならそのままで構わないのだけれどと友人に声をかけると、いやいや、と彼は首を振った。
「これはいつもこうなんだよ、……」
 言いながら彼はカナコを抱き上げる。ぶらんと細い腕が揺れて、彼の肩にぶら下がった瞬間、ギィ、と何か不自然に軋むような音があがった。風でどこか軋んだのだろうかと思ったが、その音は友人が一歩一歩進むたび頼りなく揺れるカナコの腕や足から聞こえてきている。おおよそ、生きた人間の体から発せられる音ではない。ぞわりとした悪寒が背筋を駆け抜けて、友人にその身を預ける「何か」から、それとなく視線を逸らそうとしてみれど、不思議にどこか異様なこの光景を視界の外へ追いやることはできなかった。

 ぴしりと硬直したまま二人を見つめる私の、すぐ斜め右に置かれた椅子に、友人はカナコを座らせた。白く華奢な腕が肘置きにぶつかって、かちゃんと硬い音を立てる。先程と同様、やはり人体からは出ないはずの音に、心臓がどくんと大きく跳ねた。

 近くで見ると、カナコはやはり人外じみていた。絵具で塗り潰したような白皙の肌には艶がなく、青ざめているだとか病的であるだとかと言うよりも、生気がないと言ったほうがしっくりくる。かと言って死んでいる訳ではない。そもそも初めから生きていないように思われる。薄く開いたくちびるだけはかろうじて薄桃に染まっていたが、それも内側から滲む血色ではなく、外から筆か何かで刷きつけたような色合いであった。

「……彼女は?」
 と静かに問うた声がかすかに震える。
「カナコ。ぼくの妻だ。可愛いだろう?」
 ぼくが造ったんだ。

 心酔したような声が耳を打った。友人の口から出たとは信じがたい甘く蕩けた音色に愕然とする私の目の前で、ゆっくり、ゆっくり、彼女の薄いまぶたが持ち上がっていく。その様は、生身の人間の目覚めとあまり変わらないように見えた。一介の人形師にこんなことが出来るのだろうか。この陶酔ぶりである、悪魔か何かに魂を売ってしまったのではなかろうか。あらぬことを考えた私をよそに、友人は変わらず、心底愛おしそうな眼差しを『カナコ』と名付けた己の被造物――曰く妻――に注いでいる。
 ぱっちり開いたカナコの瞳は、硝子玉で出来ていた。