彼の出すグラスは小説の味がする。これは何もグラスの一杯一杯に「物語を感じる」と言っているのではない。彼が作るカクテルには、人の手によって紡がれた数多のストーリーが文字通り「溶け込んで」いるのだ。
どのように溶かし込んでいるのか、どこでその術を得たのか、彼は一切話そうとはしなかった。曰く、簡単に種を明かしてはつまらないでしょう、ということらしい。中にはそれでもなおしつこく種明かしをせがむ者もいたが、あまりに頑なな店主にだんだん飽き飽きしてしまったのだろうか、そのうち店では姿を見なくなった。
私は店内を流れる風雅なクラシックのレコードに耳を傾けつつ、『オペラ座の怪人』を喉の奥へ流し込んだ。芳醇で深みのある華やかな甘さが、舌の上できらきらと輝いている。ぎらついているようにも感ぜられる豊かな味わい、うっとりと心酔してしまいそうな芳香の中に、ちらちらと渋味が覗いている。苦味、と言った方がふさわしいかもしれない。どこまでも奥行きのある底無しの苦さが、天使の声の陰にひっそりと忍んでいるのである。
きらびやかなオペラ座の、ずぅっと下、仄暗い地下水路から酷く湿った恐怖が這い上がってくるこの味が、私のお気に入りだった。
と、そんなお気に入りを舌の上へ転がして恍惚とする隣に、一人の若い青年が腰を下ろす。年の頃は十五、六だろうか、こんなひっそりとしたバーに何か飲みに訪れるには、いささか若すぎるようにも思われる。じろじろと見るべきではないと分かっていて、けれど彼の持つ不安定さ――不可思議な危うさに目が離せなくなってしまう。
青年は一瞬私を横目で見て、薄く微笑んだかと思うと、店主に向き直って、
「ゲーテを」
と端的にオーダーした。
――ゲーテ?
果たして彼の著作がメニューにあっただろうかと内心首を傾げる。無論頼めば――待ち時間の長短はあるにしろ――大抵なんでも作ってもらえるのがこの店であるが……しかし、ゲーテ?
店主と青年は、部外者かつ中心円の半径内にいる私を無視して、とんとんと話を進めていく。
「それでお間違いはありませんか?」
「はい、……」
「少し苦いかも」
「構いません。ぼくはゲーテがいい、あれでないとダメなんです」
「承知しました」
……と、彼は頷いて少しの間カウンターを他のスタッフに任せていた。青年が頼んだものは、カウンターでは作れないほどの大作なのだろうか、それとも『物語を溶かす』技術以上の企業秘密なのだろうか。裏メニューみたいなものかなとそんなふうに考えているうちに、店主は小さなカクテルグラスを持って戻ってきた。見た目のシルエットだけなら、それは青い珊瑚礁によく似ている。だが、グラスになみなみ注がれた液体は、かのカクテルには似ても似つかぬ色をしている。底に沈められたさくらんぼも、どうもマラスキーノ・チェリーの赤とは違って見えた。
青年はそれを少し眺めたかと思うとぐっと一気に呷ってしまう。ゆっくり味わうまでもなく胃の中へ押し込められたゲーテを、それでも彼は「おいしい」と半ば泣いたような顔で評して、レジへ紙幣を置いて出て行ってしまった。よほど忙しかったのだろうか、随分と慌ただしい退店に呆気にとられる私に、店主はやわく微笑んで「ゲーテを頼まれる方は、よくああして忙しそうにしてらっしゃいますよ」と何やら物悲しげな声で口にした。
『若きウェルテルの悩み』を飲んだ男が拳銃自殺を図ったと報道されたのは、それから一週間と経たない頃であった。テレビ画面に映し出された男の顔には見覚えがある。くすんだ色の肌に、落ち窪んだ眼窩。そこに黒々した目玉が二つ収まっていて、憂いを帯びた鈍い光を放っている。
これはあの夜、私の隣でグラスを呷った青年ではなかろうか。ゲーテを、と頼んだ彼が、どうして――……と考えて、ある一つの恐ろしい思考に行き着いた。
確証はない。
けれどそうだとしたら、彼の異様なまでの慌ただしさ、店主の薄ら寂しい悲哀にも納得できるような気がした。いてもたってもいられず、コートと財布とだけ持って家を飛び出した。準急と各駅とを乗り継いで駅前商店街の大通りから一本逸れた場所にあるバーへ向かう。
電車を待つ一分一秒が惜しい。乗り換えのためにエレベーターを使うのも煩わしくて堪らず、かといってエスカレーターに乗って大人しく引き上げられるのを待つのも嫌で階段を駆け上がった。駅構内の長く大きな階段を駆け上がるなどというのは、実に十数年ぶりだった。
バーの最寄り駅、そのコンコースに出る頃には私は既に息も絶え絶えであった。酒と煙草で弱った体は重く、ほとんど引きずるようにしながら、目的地への最後の曲がり角を曲がって、細い路地の奥へと進んでいく。
薄暗い道を行き、ふ、と息を吐いて。あとはこのドアを叩くだけだと顔を上げて、「あ、」と小さく叫び声をあげた。
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