たとえこれが呪いでも

彼という人が、呪いであったか、それとも救いであったか、今となっては分からない。けれども確かに、彼は今なお私を縛って、身動きの取れない窮屈な箱に閉じ込めている。

当時の私には、——いや私たち二人にとっては、世界の全てが敵だった。悪を裁き、正義を仰ぐ社会の在り方も、私たちが置かれた境遇を哀れみと好奇の目で見る人々も、この身を案ずる家族でさえも。
私は彼に逃避行を提案した。どうにかして逃げてしまおうと思ったのだ。
この国はいずれ私たちを糾弾する。何も知らない大衆が、勝手な憶測で二人を引き裂いてしまう。私は無論、家族の元へ引き渡されるだろう。彼らは私を愛し、ある程度の自由を与えてくれていたが、きっと貴方に会うことを許してはくれない。貴方が私に会いに来ることも、家族は許してくれない。
それどころか、貴方と私の面会は社会が望まないことなのだ。もし此処で引き剥がされて仕舞えば、もう二度とは会えないに違いないと、そう言って。
「見つかれば貴方は牢屋に入れられてしまうのよ」
これは誤魔化しの効かない事実であった。見つかれば彼は警察に捕らえられて、人攫さらいとして冷たい独房に閉じ込められてしまう、そういう運命にあった。
「私が望んで、此処にいると言っても、」
——その先は、言えなかった。
彼はただ静かに首を振って曖昧に微笑んでいた。

私は彼を本当に愛していたのだ。彼もまた、私を愛してくれていた。私たちの間には確固たる愛が存在していた。誰が何と言おうとも、それだけは間違いがないのである。
たとえ、私たちの始まりが、本当に誘拐犯とその被害者という関係だったとしても。

何もかもが暴かれて、私たち二人の秘密までもが世間の目に晒されてしまった後、
「あんなろくでもない奴のことなど早く忘れてしまいなさい」
父は頻りにそう言って、矢張り彼との面会を許さなかった。父だけではない。家族の誰もがそうであった。それもまた道理なのだ、私だって攫われたのが妹や姉であったなら「会いに行くなどと言うたちの悪い冗談を言うのはやめてほしい」と言うに違いない。

両親は「悪い夢を見たんだろう」「怖いのを誤魔化そうとして、好きだと錯覚しているんじゃないか」と言って、幾度となく縁談を持ち込んだ。お見合いの相手の中に、交際にまで発展した人がいるのも事実である。
だのに、誰かと交際して睦言を囁かれる度に、彼のことが思い出されるのだ。
彼は愛を告げるようなことをただの一度も言ってはくれなかったし、事情が事情であるから、近所の喫茶店にさえ二人で行くことは叶わなかったけれど、私は彼と居られるのなら、それだけで十分だったのだ。「何処にも連れて行ってやれなくて済まない」と、大層心苦しげに零して、その代わりにと誠心誠意尽くしてくれた彼を想うと、途端に今隣にいる人への想いがすっと冷めていったのである。

「どうしてもあの人でなければ嫌なの」
と、私は初めて両親に懇願した。
彼でなければ愛せないことを切々と話して、どうか面会に行かせて欲しいと頼み込む私の姿は、二人の目にどう映っただろうか。
『自分を攫った男』に恋い焦がれるなどと言う、哀れな、あるいは滑稽にさえ思われるような娘の姿を、彼らはどんな思いで見つめていたのだろう。二人はしばらくの間沈黙していた。私にはそれが途方も無く長い時間であるように感ぜられたが、長くてもほんの一分あるかどうかというところであっただろう。
やがて重く深い溜息が部屋に響き、次いで母が、
「……呪われたのね」
とたったそれだけ呟いた。
ぐっと押し殺されたその声は、涙に濡れて、わずかに震えていた。