『クラリネットをこわしちゃった』
そんな歌がある。あまりにも有名な歌だ。幼い頃、父の書斎にあった古びたラジオで聞いたことがあった。
思うに……僕が思うに、クラリネットは「壊しちゃった」のではなく、それ自ら「壊れた」のだ。あの歌に出てくる『ぼく』が父親から譲り受けた大切なクラリネットは、壊れるべくして壊れたのである。彼がもらった楽器は、自ら美しい音を奏でることを辞めてしまったのではなかろうか。
――僕のクラリネットがそうであるように。
僕が愛してやまなかったクラリネットはある日突然音を出さなくなってしまった。僕にそれを奏でる能力が無くなってしまったのかと思ったのも束の間、兄に曰く「取り返しのつかないほど壊れた」のだと聞かされて、あぁいやそれでも何も救われないと肩を落とした。
「本当に元には戻らない?」
「戻らないとも。なあお前も子供じゃないんだ、聞かずとも分かるだろう」
兄は宥めすかすように言って「もし無いと困るならまた購えばいいじゃないか」と溜息を吐いた。
一理ある。彼の言うことは正しい。また購えばいいというのは全くその通りであった。クラリネットはあれ一つしかない訳ではないのだし、――ただ僕があれを何年も使っているというだけであって――今は無理でも、落ち着けばまた奏でられるようになるだろう。そこまで分かっていて、矢張り僕は頷けなかった。
「それでもだめなんだ。僕はあいつの音が好きだったのに」
膝を抱えて小さくなった僕を、兄は冷たく見下ろした。彼の顔を見た訳ではないけれども、いや、わざわざ見ずとも分かる。こういう時の彼はいつだって凍てつきそうなほど冷え冷えとしたまなこで人を睥睨するのである。呆れ、怒り、憐れみ――そういったものがぐちゃぐちゃに混ざり合って出来た嘲弄の意思を隠さない、人非人の顔だ。
我が家はそういう人間の集まりで、僕にも少なからずその血が流れている。今でこそクラリネットが二度と戻らないことを嘆いているが、三日後にはけろりとしているに違いないのだ。それどころか新しいのを購って「こいつの音はいい」などと胸を張っているかもしれない。そんな哀しい事が、こんなにも容易く想像できるという事実に僕はひどく傷付いた。
兄はふんと鼻で笑って、
「まあいいさ、気の済むまでそうしているといい」
と外套を片手に部屋を出た。最近出会ったストラディバリウスのところへ行くのだろう。「あれは靭いから、長くもつだろう」――そう言って薄く笑っていたのを思い出して、ぎり、と唇を噛み締めた。
クラリネットが決して弱かった訳ではないのだ。クラリネットは――僕のクラリネットは、弱くなどなかった。兄のストラディバリウスが彼にとって最も靭くあるように、僕のビュッフェ・クランポンもまた靭かった。
しなやかでしっとりと落ち着いた、甘美な音色。あれは、あのクランポンにしか出せぬ音であった。長い年月をかけて磨き上げた音であった。
お前はアレに恋をしているのか?……父はある時こう言ってクランポンを指差した。
「もしそうなら、今一度冷静になるといい。買い与えたのは私だが、……最近のお前は気が違って見える」
僕はしばし黙っていた。
恋をしているといえばそうであろう。かと言って父の前で、その恋を告白するのは憚られる。それで、確か「恋なんかしてませんよ」と言ったのだと思う。そのように記憶している。
クランポンは、くだらない見栄を張った僕をただ黙って見ていた。
今思うと、恋だと告白してしまえばよかったのかもしれない。事実、僕はクラリネットを愛していた。クラリネットも、おそらく僕を愛していたのだから。
しかし、だ。
しかしもはやどうにもならない。僕が愛したクラリネットは、毒を飲んで壊れてしまった。
床に倒れた女の死骸からは、隠しきれない苦悶の色がどくどくと溢れていた。