甘い硝煙を嗅ぐ

※血表現あり



 暁が鉄と火薬の匂いをさせて帰ってきたのは、時計の針が2の数字を超えた頃になってからだった。ニコラとアンリを随分前に寝室に行かせ、暁が帰ってくるかどうかここで見ているからと玄関から入ってすぐの応接間に閉じこもっていた煌は、そっと屋敷の中へ入ってきて何も起こっていないというようなそぶりで靴を脱いだ暁に、
「何平然としてんだ」
 とぶっきらぼうに言葉を投げかけた。
 愛想のないその声に、暁は少しの間押し黙り、やがて「随分な出迎えじゃないか」といやに皮肉めいた笑みを浮かべて、
「痛くもないのに慌てたり泣いたりする方が変だろうが」
 などと言って、タオルを持ってくるよう煌に指示を出した。
「足の先までぐちゃぐちゃなんでね」と嘲笑的に笑う彼女に持ってきたバスタオルは、その言葉を裏付けるように瞬く間に赤く染まり、どす黒い色へと変色した。それは廊下の壁に取り付けられた燭台の明かりに照って、朱の鮮やかさを一層増して見え、ただでさえ濃かった血の臭いがより強く漂うように感ぜられ、煌はウッと顔を歪めた。それを見た彼女はというと、無理にここにいる必要はないじゃないかと言わんばかりの表情で全身に付着した血を拭い、これはもう駄目だなと諦めたように言って、シャワーを浴びてくる、とそれだけ言い残して硬い木の床を蹴ってバスルームへと消えていった。

 煌は無論、戦争というものが遠い世界の出来事に成り果てた現代に生まれた青年である。血を血で洗う戦いや、殴る蹴る、撃つ撃たれるの争いは、はっきり言って教科書でしか見たことがない。資料映像として授業中に観た戦争映画ですら、その内容の凄惨さ、砲弾を受けた無辜の民の亡骸、全身に銃弾を浴びて倒れた兵士の死に際に流れた赤黒い血の生々しさにひどく体調を悪くして、途中退室してしまったくらい、暴力だの流血だの、とにかく痛そうな、惨たらしい行為とは無縁の人生であった。
 それ故に、常に銃器を携え、硝煙の香りを全身に纏った暁の姿は酷く歪で異質なものに見えた。彼女はさも当然のようにその拳を人を殴るための武器として用いる。殴打は無論平手打ちをすることもあり、それが手加減されているものとはいえ十分に苛烈であることを煌はよく知っている。無論その行為を肯定することはできない。彼女の背中に刻み付けられた巨大な裂傷の痕を見て、この女の生涯において争いが身近なものであったのだ、切っても切れぬ関係であったのだと理解しても、他者へ暴力を振るう行為には理解を示すことなどできなかったし、当然賛同もしなかった。ただ暁にとって、殴る蹴るの争いも、人に銃口を向けるその行為も、慣れ親しんだ当たり前のものなのだという漠然とした認識だけがあった。
 彼女の過去を全て知っている訳ではないが、彼女がかつて立派な兵士として従軍していたことを煌は人伝に聞いて知っていた。「戦女神みたいな奴だったよ」とその人は言って、
「今も人に頼まれて似たようなことをしているんだろうね」
 とどこか諦めたように遠くを見ていた。
 煌も、自分より古くから暁を知る男がそう言うのなら恐らくそうなのだろうと、その程度の認識ではいたのだけれど。

「……きっつ」

 ぽろりとそんな言葉が口から出ていく。
 彼女が全身に血を浴びて帰るのは何も今日が初めてではない。こんな凄まじいものをあの穢れを知らない姉妹に見せるわけにもいかない、と彼女の帰りが遅い日には二人を早々に寝室にやって、暁の無事を確認するために自分は起きて待っているというのが定番になりつつあったが、何度見ても、その凄絶な戦いの後を見せられるのは堪えるものがあった。
 彼女が万一怪我をしている時のために救急箱を出してきて、応急処置の準備だけ整えてリビングで待っていると、やがて風呂を終えた暁が戻ってきて「律儀だな」と呆れたような皮肉のような調子で言って、それでも大人しく煌の前に腰を下ろした。
 先ほどの言葉を聞かれていただろうかと内心恐れながら、なんとか「怪我は」という単語だけ絞り出す。
「特にないよ。あれは大体全部……」
「そんなんいちいち言うなよ。大怪我じゃなくて小さいのとかそういうのもねえの」
「悪かったな。……どうだったかな。少し切りつけられたような気もするが」
「どこを?」尋ねると暁はまた、どこだったか、と小さく唸る。まだ高揚感が残っているのだろうか、どうも痛覚も鈍っているらしい彼女は、そのまま数十秒ほど黙り込んでいたが、やがて「あ」と声を上げ、
「耳と腹だ」
 と短く返事をした。「耳と腹……」「多分左だな」
 端的な会話の後、彼女の左耳を観察すると、なるほど確かに小さな切り傷が付いている。ぱっくりと深く開いたものじゃなくて良かったと小さな安堵を覚えながら――この安堵に少しばかりの自己嫌悪を覚えて――、消毒液をガーゼに含ませて傷口の周りをそっと丁寧に、慎重に洗い、小さな絆創膏をぺたりと貼った。その間、暁はぴくりとも動かずただじっと黙していて、痛いとも滲みるとも言わずに目を伏せていたが、「腹は?」と煌が些か躊躇いがちに訊くと数度目を瞬かせて、「多分浅いよ」と言いながら特に恥じることもなくタンクトップを捲り上げた。この手当てされ慣れたような羞恥心と警戒心のなさも、煌はあまり好きでなかった。
 腹部の傷は、なるほどさほど深い傷ではなさそうだ。素人目にはそう見えるが、しかし些か裂傷の範囲が広いようにも思われる。これもやはり傷の周りを消毒してやって、ガーゼを挟んで包帯を巻いてやらねばと煌は床に屈んで、これは何も邪な目的ではないのだと自身に厳しく言いつけた。

 風呂から出たばかりの暁の体からは、自分のそれと同じボディソープの香りがほのかに漂っている。こんな怪我をこしらえておきながらきちんとボディソープを使って体を洗ったのかと一瞬彼女を見上げると、
「血腥いよりマシだろ」
 と淡々とした言葉が帰ってきた。
「それはまあ、そうかもしれねえけどさ……」
 だからと言って本当に使う奴があるか、と滲みた時の痛みを想像して身震いしながら、細かい傷跡の残る肌の上へガーゼをぽんぽんと押し当てて、
「明日医者に診てもらえよ」
「あいつか?」
「そ。……あの人なら何も聞かねえだろうし。俺もお前も医者じゃねえだろ。もしこれがめっちゃやばい怪我とかでもわかんないし」
 煌は本気で自分が医者でないのを悔やんでいるようだった。
 この屋敷の主人は、訳ありのヒトもどきだ。その体がどれほど人間と同じものだか分からないが、少なくとも彼女が人間でないことに変わりはない。加えて何やら仄暗い闇稼業に手をつけている始末であるから、普通の病院などには容易にかかれないのが現実であった。幸い彼らの知己には暁の古い知り合いである元軍医がいる。今のところは彼を頼りにしているが、彼も特別若い訳ではない。いつか彼が亡くなったら、とそう考えるとぞっとしなかった。暁の治癒能力が人のそれを遥かに上回ることだけが不幸中の幸いだったが、それでも煌は、たとえば自分がもっと賢く裕福であったならばと考えるのをやめられなかった。
 ぐるぐると巻きつけた包帯を留めて、終わったぞと声をかけると、暁はタンクトップを下ろして「ありがとう」と短く告げる。

「ココアでも飲むか?」
「今から?」
「体が温まってよく眠れるかもしれないじゃないか。今から風呂に入り直すのは嫌だろう」
「それは、」

 全く気にならないといえばそれは嘘だった。否定も肯定もできず硬直した彼に、暁がからりと笑って「そんなに気にしなくていい。私は気にしないから」とキッチンの方へ向かっていく。
「俺が気にすんだよ」
「お前は真面目だからなぁ。まぁ気にしないでくれ」
 ちょっとした揶揄だよと平然としている彼女の姿を見送って「たちが悪ぃんだよな」と先ほどまで彼女が座っていたソファにどっかと腰を下ろす。スプリングが軋み、クッションに体を沈めた瞬間、ふわりと先ほどと同じ石鹸の匂いが香った。わずかに硝煙の匂いが混ざった残り香にずくりと疼いた胸の鼓動がひどく煩わしかった。




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