血濡れても

 煌には、これだけは認められないということが二つあった。まず一つは、自分が暁を好きであること。これは、認めてしまえば自分の中で何かが決定的に歪んでしまう気がしてのことだった。それに何より、あの手の荒い暁に自分が恋心を抱いているなどというのは、何か、ある種の屈辱を受けるようでならなかったのだ。俺はもっと可愛らしくて、大人しい女子の方が好きなのだ、と言い聞かせながら、それでも暁を思い出す度小さく高鳴る胸を押さえつけ、いや違う、とかぶりを振った。二つ目は、そんな暁が未だに争いの中に身を置いていることだった。元は軍人であったという暁は、世界大戦が終わって何十年も経過した今でも、その手に銃を持ち、何か胡乱な仕事をして金を稼いできている。彼女のその生き方は、おそらく、彼女が数十年――あるいは数百年以上にわたり生きてきて、最適解として見出したものなのだろう。きっとそうなのだ、だからあいつは今も人を殺して生きているのだと理解しながら、煌は、そんなことを理解できてしまう自分が嫌だった。

 今時分、人を殺さずとも生きていく道は多くある。暁は勉学にも運動にも長けているから、何か一つを極めてその道のプロとして金を稼ぐという選択肢もあるだろう。彼女にあるものは、常人より満遍なく上を行く頭脳と、卓越した身体能力だけではなかった。一通りの家事と、数多くある趣味と、剣術と拳銃を扱う腕。趣味と称してライフルを持ち出し、近隣の山へ狩りに行くことも少なくない彼女に、煌は以前「猟師になる気はねえのか?」と問いかけたことがある。暁の答えは、迷うことのないYESだった。

「まあ、お前の言いたいことも分かるがな」
「危険度は同じくらいかもしれねえけど、血ぃ浴びて帰ってこなくていいだろ、猟師なら」

 暁は度々強い血の匂いをさせて帰宅することがあった。どこでどう立ち振る舞ったらこれほど強烈な血臭をつけて帰ってくるのか、と疑問に思ったことも一度や二度ではない。そういう時、彼女は決まってニコルとアンリエッタが眠った深夜に帰ってくる。そういう時の煌の役目は、血まみれの暁を玄関で出迎えて、こういう時の為に取っておいてあるのだという使い古しのタオルを彼女に渡し、白いポリエステルの記事がどす黒く染まっていくのを呆然と眺め、シャワーを浴びた暁の身体を診て簡単に応急処置を施すことだった。煌は医者ではなかった。スプラッタもグロテスクも苦手だった。この役目は荷が勝ちすぎる――そう思ったことも、少なくはなかった。できることなら、暁には、今すぐにでも前線を退いてほしかった。

「どうかな。案外獣くさい血を浴びるのかもしれん」
「……やめろよ、そういうの」
「……そうだな、悪かった。だがまあ、お前に心配されることのほどでもないさ。私は現に生きているし、――」

 自分の命を露ほども大切に思っていないのであろう暁の発言が遠く聞こえる。何百年も生きた生物は、こうなるのだろうか。それとも、彼女が置かれていた戦場という環境が暁をそうさせたのだろうか。
 煌はぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、暁のしっとりと落ち着いた声が道徳や倫理に欠けた発言をするのを聞いていたが、「――それに、怪我をしても傷跡が増えるだけだ。気にするな」という台詞で、ハッと顔を上げて口を開いてしまった。

「ッだから辞めろって言ってんだろうが!」
「何で怒ってるんだ。お前が怒ることじゃないだろう。こうして生きていくと決めたのは私だし……」
「怒るに決まってるだろ、なんでお前はいつも自分を蔑ろにするんだよ」

 そう言った瞬間、暁の真紅の双眸がぎらりと光った。そして、蔑ろになどしていない、とワントーン低くなった声が耳を打つ。彼女の声は、怒りのために震え、ざらついていた。
「そもそも、お前は私にそういうことを言える立場なのか? 私が今の仕事を辞めて、普通の職に就いたとして、失った分の稼ぎをお前が取り戻してくれるのか、煌」
 それは、と一瞬言葉に詰まった。普段何もしていない――訳ではないが、自分の稼ぎはこの屋敷の維持費からすれば雀の涙のようなものだった。それも趣味のハイヒール蒐集にほとんど費やしてしまう。暁が争いごとに関わるのを辞めるというのなら、買ってくる靴の本数を減らしても構わなかったが、不幸なことに、煌にはそれを認めるだけの素直さがなかった。それは何だか、彼女のことをとても大切に思っていると宣言するようで、この期に及んでなお気恥ずかしいという気持ちがあったのだ。
「そもそもこの国は終身雇用だろう」
 そう言われて、煌はハッとした。

 暁の身体は、老化が極端に遅かった。数年働くだけならばまだしも、十年、二十年と勤めようとすると、その特性は一種の弊害を生んだ。かと言って中途退職すれば経歴に傷がつく。ころころ職場を替わるような人間は、この国の社会ではあまり必要とされないのだ。暁はその体質の為に、結果的に犯罪行為に手を染めねば生きていけず、またそれ以外の生き方も知らないのであろう。それは何だか、とても哀しい話だった。

「……でも、わざわざお前が血まみれになることはないんじゃねえの」
「私はこれ以外知らないんでな。だからお前が稼いでくるのかと言ってるんだ」

 馬鹿じゃあるまいし、と言われて、カッと顔が熱くなるのを感じた。だが、ここで怒っても栓のないことだった。喉元まで出かかった反論の言葉を飲み込み、「稼げばいいんだろ」と低く唸る。
 煌の仕事は、まだ歩合制だった。もう少し仕事を増やしてもらえるよう関係者に掛け合って、より多くの仕事をこなして、それなりの売れっ子になれば歩合制ではなく月給制になるはずだ、そうすれば生活費を多少は負担できると言うと、暁は「ふぅん」と相槌を打って、小さく笑った。それは煌が密かに気に入っている、柔らかく、何かを諦めたような儚い笑みだった。ことりと震えた心臓を、気付かれぬよう押さえつけて「何だよ」と言葉を飛ばすと、暁がにやりと口角を吊り上げて一瞥くれる。

「いや、まさかお前がそう必死になって私の仕事に口を出すとは思わなかっただけだよ」
「必死になってねえ」
「随分と必死に見えたがな」
「なってねえよ」
「そうか? まあ、私はどちらでも構わないんだが、そうだな、稼いでくるというのなら稼いできてもらおう」

 そうと決まれば契約書だな、と言って暁は戸棚の方へ向かった。抽斗を開け、中から紙と万年筆を取り出してさらさらと流れるような文字で「契約書」とやらを書いていく。その筆致は随分な達筆であった。
「契約書なんかいらねえだろ」
 と、煌がそう言いながらそれを受け取ると、暁は念には念を入れておかねばならない、お前は気を抜くと稼ぎを靴に使い果たしてしまう、それでは困ると言って万年筆を煌に差し出した。契約書の中には、煌が家に入れる給金の割合や、その金の受け渡し日などが事細かに書かれていた。最後の項目には「甲は乙の仕事に口出ししないものとする」と書かれている。相当不愉快だったようだ、と察しながら、それでも多少彼女の無茶が減るならば、と煌は契約者名の欄にサインをした。「ふむ、確かに」と受け取った暁の顔は、何故だかひどく満足げだった。



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