それだけの話でした

※不謹慎かもしれない



 慣れてくるものだな、とAは電車内の液晶に映るニュースを眺めて息をついた。今日は百二十七人。今年の頭からやっと話題に上がり始めた新型のウイルス性感染症の感染者数である。
 冬も夏もなくマスク着用を啓発された乗客たちは、今日も例によって顔半分を白い紙で覆っている。Aもその例に漏れず、丁寧にマスクをして、バッグの中にはガラスのアトマイザーに入ったアルコール消毒液と、殺菌シートが入っている。とはいえ彼らはこの数週間から数ヶ月ほど日の目を見ていない。飲食店でお手拭きに触れる前に手にしていた殺菌シートは、今やバッグの内ポケットの底で長い眠りについていた。

 かかる時はかかるし、そうでない時にはそうでない。

 それは結果論だけれども、彼にはここまで神経質になる理由が、最早分からなくなっていた。何処かでもらうだけならもうもらっている。このウイルスは無症状で発症することもあるとかいう話ではないか。だとしたらもうとっくに発症しているのかもしれない。けれど自分は生きている。咳もない。頭痛もない。突然匂いや味が無くなるということもなかった。
 都内では今日で連続一週間、新規感染者数が三桁を超えている。そんな中にあっても、Aは何処か他人事のようにものを見ている自分がいることに気付いていた。
 たぶん、自分はかからないのだ。――もちろん油断は許されない、もしかするとやっぱりかかるかもしれない。
 百二十七人の感染者に同情と心配を寄せることもなく、ただの数字として認識しながら、――遠い世界のことだと思いながら、それでもまだ、何処かで感染を警戒している。我ながら不思議なものだとAはジャケットの襟に顔を埋めた。
 殺菌シートと消毒液は、既にその役目を退いて単なるお守りになっている。明日は我が身だけれども、これがあれば自分は大丈夫なのだ。根拠はないけれど、そうなのだ。
 ディスプレイには、三日連続で感染者数が上昇傾向であるという文字が堂々と踊っていた。





title:ネイビー