オオカミ少女、夕闇に紛れて



「月は、高校どうするんば?」

凛くんのこの言葉が、終わりを迎える始まりだったのかもしれない。

「凛くんは?沖縄で探してるの?」
「まあなー。本土も捨てがたいけどよー、うちなーがやっぱり好きなわけ。」
「そっかぁ…考えてなかったなぁ。私もそうしよっかな…。」

私の言葉に、やー、まだ決めてなかったんば?と少し呆れて笑う彼に、へらっと笑って返す。合同合宿が始まって少しした頃、テニスで強くなるのはもちろんだが、3年生にとってはさらに受験勉強も、と忙しい日々を送っていた。

比嘉も例外ではない。私を含め、普段からまったく勉強をしない甲斐くんですら、空いた時間に泣きながら勉強に励んでいる。勉強の合間にする皆の何気ない会話から、木手くんを除く全員が沖縄に残るつもりだということは分かっていた。

当の私は、ひたすら迷っていた。沖縄から出ずに進学するか、沖縄を出て進学するか…。別に沖縄が嫌いなわけではない。むしろ大好きで、凛くんもいるから残りたいな、とは思っている。でも。心の中の私がずっと問いかけるのだ。本当に、それでいいの?と。

風にあたってぼうっとしている凛くんの横顔を見ながら、私も同じになってぼうっと空を仰ぐ。凛くんと付き合い始めて数ヶ月。一緒にいる時間は長かったけれど、付き合ってみるといつもの時間はほんの少しだけ「特別な時間」になっていた。

「凛くんは、どこの高校受けるか決めた?どうせなら、一緒のところに行こうかな。」
「ん、わんはそれでいいけどよー。月はやりたいこととか無いわけ?」

そりゃ、一緒に居られるのは嬉しいやしが、と一人はにかむ凛くん。彼が自由に生きるから、彼は私を縛り付けない。だからこそ、いつだって私の気持ちを汲んでくれる。とても嬉しいことではあるけれど、ふわふわ揺れる今の私には逆効果だった。悩んでいる素振りの私に、凛くんはそれに、と話を続ける。

「わんはスポーツ推薦で行くつもりやっし。やー、運動苦手だろ?良いのかよ?」

小首をかしげて私に問う。そうか、凛くんは高校でもテニスをやるつもりなんだね。凛くんの言う通り、私は運動が得意なわけじゃない。マネージャーとして合宿に参加しているが、別になりたくてなったわけじゃない。晴美ちゃんに言われるまま、流れに身を任せた結果なのだ。テニスも得意じゃないし…。私はこれから、どうしようか。

「合宿終わったら本格的に受験やっし。んー…受かったら、デートでも行くか。」

へへへ、と照れたときに下向きがちに笑う彼の姿が、私はたまらなく好きだ。デート、しばらく行ってないね。と笑う私の心はチクリと痛んだが、気付かないふりをした。

***

凛くんとのやり取りから、ずっと私は将来のことを考えている。高校もそうだけど、今後、未来の私はどうしたいんだろう。ボーッとしながら洗濯物を干していると、ふいに後ろから「おい」と声をかけられた。

「あれ、亜久津。久しぶり、いたの?」

へらりと冗談を言えば、アァ?と不機嫌な顔をさらに不機嫌にして睨まれた。私が比嘉中に行く前から腐れ縁の彼は、私の様子がおかしいから、と遠回りに心配してくれたようだった。幼い頃から彼はいつだって私を気にかけてくれる。合宿で久しぶりに会ったにも関わらず、彼は変わらず私の近くにいてくれる。亜久津なりの優しさと洗濯物の香りに、懐かしさと恋しさが込み上げてきた。

「あんまりしけた面してんじゃねぇぞ。」
「…エヘ、ありがとう。それでわざわざ声かけてくれたんだ?優しいね。」

亜久津はチッ、と舌打ちをして顔を逸らす。くだらねえ、とどこかに行ってしまわないあたり、本当に心配してくれているんだ、と実感する。私はふと、亜久津にも聞いてみたくなった。

「…ねえ、亜久津は進路決めてるの?」
「あ?まぁ決めちゃいるが。」
「え、ほんと?どうやって決めたの?テニス?」
「まあな。…お前、そんなことで悩んでんのか。ハッ、くだらねえ。」

くだらないとはなんだ、と少しムッとするも、亜久津すら進路を決めていることに胸の奥でがっかりする。なんだ、仲間だと思ってたのにな。

「こっちには戻ってこねえのか。」

いつの間にか下を向いていた私に、亜久津が上から声をかける。

「戻りたい、気持ちはあるよ。でも。」
「比嘉か。」
「うん、比嘉の皆とも…凛くんと、一緒にいたい。」

テニス部のマネージャーとして入るまで、正直私は「早く本土に戻りたい。」と考えていた。でも。いつの間にか沖縄が好きで、皆を好きになっていて。どちらも大切なものになっていた。

受験は、高校という新しい階段はまるで、手放すものを決めろ、と。一番心に蓋をしておきたかったものを突き付けられたようだった。沖縄にいたいんだ、そこに君がいるなら。

「月。沖縄は、…動きづらくなるってこと、頭に入れておけよ。」

それだけ言い残して、戻る、と踵を返していく。わざわざ相談に乗るためにサボってくれたのか。自惚れかもしれないけれど、私と彼の友情がまだ健在であることを認識した。亜久津の言葉が頭の中で木霊する。

―動きづらくなるって?皆に会いづらくなる?遊びづらくなる?遠出しにくい?就職先が限られる?
…別に構わない。凛くんがいてくれるなら。私は。

———なら、凛くんがいなくなったら?

そう自分に問いかけたとき、心臓がドクン、と脈打った。私の考えの中には、私の世界にはいつだって凛くんが中心で、中身がない。私の自由がまるでない。それにこれじゃあ。

私はただの錘じゃないか。

今まで考えることを放棄していた。でも。私は、どうしたいんだろう。私の心はどうしてあのとき痛んだんだろう。私は、本当は

「もっと、広い世界が見たいんだ。」

本当は、ずっと前から。本土にいたときは、簡単に旅行へ行けて、色んな土地を見て回れた。電車にバスさえあれば、およそ日本を旅できた。行きたい場所がある。見たいものがある。私はもっと、広い世界を知りたい。これはきっと私のなかで、天秤にかけられない程最優先事項だったのだ。…そう。彼よりも。

ずっと心に蓋をしていた。だからあのとき心が痛んだ。沖縄に来て、もう上手に動けないことを受け入れたふりをしていた。嗚呼、本当に、気付きたくなんてなかった。

—遠距離恋愛になるの?
—それは嫌だな。
———凛くんの邪魔は、したくないし。

彼は何を望む?

***

その日、練習が終わった後の黄昏時。凛くんといつも決まって行く見晴らしの良い屋上に一人で足を運ぶ。きっと凛くんは来るんだろう。夕暮れの風はとても心地よくて。幸せだと思っていた日々を、今から失うなんて考えられない程に。

あたりも静まり返って、木々のざわめきに耳を傾けていた頃。凛くんがそっと顔を出す。

「あ、月。探したあんに。ぬーしたば?」
「…凛くん、お疲れ様。」

笑顔で話しかけてくれる凛くんに、足元が崩れる感覚がした。この心地よい場所で、ずっと笑い続けていたっていいんだ。別に伝えなくたって、私が我慢してしまえば。幸せだと気付く、ゾッとするような感覚。天秤にかけた罪悪感。覚悟してしまった罪悪感。

「凛くん、あのね、」
「ん?」
「凛くんは、私がどうあれば、幸せだなぁって感じるの?」
「あい?急やっし。どうって、ぬーがよ。」
「うん。…まだ、進路を決められなくて。」

ほんの少しの私のウソに、ああ、そういうことか、と凛くんは一人頷いてみせる。

「わんは、別にやーと高校が離れても自由にするわけよ。だから、月も好きにしたらいいさー。ちょっとくらい離れても、すぐに会えるだろ?」

私が沖縄を離れるなんて微塵も思っていないんだろうな。彼は本当に、いつだって自由で。それは私の憧れで、大好きなところなんだ。ねえ、今からいう言葉は、凛くんはきっと想像してないよ。きっと怒るだろうな。

「ね、凛くん。私が。」

足元がふわふわする。立っているのかすら分からない感覚。終わりが来る感覚。大好きなんだよ、凛くん。

「もし私が、本土に帰るって言ったら?」
「…ぬーやが、それ。」

ガラリと。凛くんが纏う空気が変わる。夕暮れの赤、哀愁と怒りの色。

「うちなーじゃあらに?ないちゃーに行くんば?わんは、…わんは、てっきり…!…ッ、」

言葉を続けようとする凛くんの声が止まる。私も分かってるんだよ。私もなんだよ。…だから、私から言うね。

「ね、凛くん。」
「ッ聞きたくないさー。」
「私たち、」
「ふらー!やめろって、言ってるあんに!!」

声を荒げる私の知らない彼を見る。最後の最後で、私の知らない彼を見る。怒っているのに泣きそうで。そんな顔見たくないんだよ、そんな顔しないで。

「私ね、凛くんが、自由で、やりたいことやって。笑っててくれるなら、私は満足なの。充分幸せなの。私も好きなことするってなったら、…きっと、歩く速度も、…道も違うんだ。」
「…ぬーやっし、それ。わんは別れたくねーらんど。やっと、やっと付き合えたんばーよ。終わるのは…、早すぎやっし。」

私も、って言いたかった。言えなかった。このままだらだら付き合っていたら、きっと凛くんも私も時間を浪費してしまうだけだろうから。

「友達に戻ろう、私たち。友達なら…お話できるでしょ?」
「嫌だ。」
「…あは。…せめて、合宿中だけ。ね。」
「…。」

今、私は笑顔でいられているだろうか。思ってもいない言葉で塗り固められた私を、凛くんはどう見てるだろう。嘘だらけの私を、私は一生愛せない。


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