クドリャフカはもう三日も帰ってきていない。心配で、ギリギリと胸が絞めつけられるような疑似的な痛みに苦しんだ。
今まではこんなことはなかった。ニカは思う。
クドリャフカは度々とっぴな行動をするものの、よく言いつけを守る子で、帰ってこないなんてことは一度としてなかった。基本ニカが仕事から帰るよりも早く、いくら遅くても日付が変わるまでには帰ってくるようなそんな子だ。
事故かもしれないし、事件かもしれない。
オリガに言うと「ちょっとした家出じゃない?ニカは過干渉よ」と諭されてしまったが、セントラルと貧民街では事情が全くと言っていいほど違う。よほどひどい顔をしていたのか、いつもだったらもっともっとと話の続きをねだるオリガも「仕事なんてしてないで早く帰って探してあげて」と言った。
貧民街に向けて速足で歩きながらニカは昔を思い出す。
二十年近く前、ニカの人生のような何かは、貧民街に廃棄されたところから始まる。極々短期間、人のもとで正規のロボットと同じように働き、それなりの扱いを受けていたが、ある日ニカの型の不備が発覚したのだろう、いきなり貧民街に棄てられた。
あまりに憂鬱な鈍色の人生だった。死なないために、スクラップにされないために。消極的な理由で生きるのは空しくてたまらなかった。他のロボットのパーツを奪い、たまに人のなけなしの金を盗んで生きながらえるのは苦しかった。毎夜、設計主に心の中で愚痴をぶつけ、人間の信じる神とやらに贖罪し救いを願った。
数年前クドリャフカと出会ったとき、ニカはクドリャフカを壊そうとした。つい先日左手がもげて不便だったのだ。貧民街に似合わない小綺麗なブロンドを揺らし薄暗い路地をふらふら歩く少女―クドリャフカに背後から脳天に一発スパナを振り下ろそうとしたとき、クドリャフカはくるりと振り返って顔をほころばせた。
「お花をくれるの?ありがとう、お兄さん」
ニカはスパナを取り落とした。膝に力が入らなくて、崩れ落ちるように蹲った。
畏怖だった。
今にも壊されんとしているのに慈愛に満ちた笑みを浮かべる少女は、まるで神さまみたいだ、と靄がかった頭でぼんやり思った。
「素敵なお花ね、これ」
ニカが落としたスパナを拾ったクドリャフカは、それに頬ずりをした。陶器のように滑らかな白い肌に機械油がべったりと付いたが、まるで気にしていなかった。
ニカは何も言えず、ただぼうっとクドリャフカを見るだけだった。
「ここに棄てられてしまって、右も左もわからないで不安だったんだけど、よかった。セントラルよりこっちのほうがずっと素敵なものが多いみたい。全部キラキラしていて、わくわくする!」
涙がニカの頬を滑り落ちた。
ああ、これは神だ。
ぼろぼろと泣きながらニカは思った。自分に泣く機能が搭載されているなんて知らなかった。
すっかり腐っていた人工涙液を垂れ流しながら、ニカはクドリャフカを見上げる。彩度の低い世界で、クドリャフカのブロンドだけが太陽のようだった。ニカは、空よりももっと青い不思議な澄んだ瞳でスパナを見つめるクドリャフカの手に縋りついた。
「どうしたの、寂しいの?」
クドリャフカはスカートが汚れるのもかまわず膝をついた。ニカの涙を指先で掬うと「そんなに泣くと今に干からびちゃう」と笑った。
「そんなに寂しいなら一緒にいてあげようか?」
クドリャフカはぐすぐす鼻を鳴らすニカから四苦八苦して道を聞き出し、二人でニカの寝床まで歩いた。
行くあても帰る場所もない、つい先日廃棄されたばかりだというクドリャフカに、一緒に住まないかと言うと、二つ返事で了承された。
「だって、『お兄ちゃん』一人ぼっちで寂しかったんでしょ?」
そうして、クドリャフカはニカの『妹』になった。
しばらくして、ニカはクドリャフカの目がおかしいことを知った。クドリャフカは神さまではなくなったが、ニカの大切な『妹』のままだった。
ニカの外へ行き世界を知るという夢の足かせとなっているけれど、それでも。
ニカはクドリャフカを失うのが怖い。
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一度寝床に戻ったが、やはりクドリャフカはいなかった。
ニカはとぼとぼと寝床を後にする。
ゼンを探そう。
寝床でクドリャフカがひょっこり帰ってくるのを待つより、やみくもに探し回るより、情報屋のゼンに聞くのが得策だ。
ゼンは一週間程後と言っていたからきっとまだいつもの場所にいるだろう。
ニカのボロ家は貧民街の中でも随分日の当たらない場所にあるが、ゼンの拠点はそれ以上だった。
ニカの家からいくつも扉をくぐり、廃屋を横切り、じめじめした階段を上ったり下りたりして一体右を向いているのか左を向いているのかわからなくなったあたりで辿り着く賭博場。ゼンはその一番端にある倉庫のような小部屋を借りている。賭博場には煙草のだけではないであろう紫煙が漂い、十五番街の共通語ではない民族固有の言語での怒号が始終飛び交っている。ニカの人工知能をもってしても怒号の内容はちっともわからなかったが、ゼンはほとんど理解しているようだった。ゼンは東洋系ということを考慮しても十六かそこらにしか見えないが、聡明さと確かな情報網で、賭博場では一定の地位を築いている。
ニカが陰気な顔を伏せて賭博場に入ると、刺青の男にいたずらに葉巻の煙を吹きかけられた。なんでもない顔をしていると「なんだロボットか」と舌打ちされた。
奥の小部屋をノックすると「いるよ」と返事があった。
「いったい誰で用向きは何だい?聞かなきゃ開けられない」
「ニカだよ。聞きたいことがあるんだ」
「ニカ!?今開けるから待っててくれよ!」
ドタバタガッシャンとけたたましい音に続いて少しくたびれて髪に埃が付いているゼンが顔を出した。ゼンはニカを見た瞬間顔を輝かせた。
「もしかして気が変わった?いいぜなんでも聞けよ。ちなみにバッテリーは死にやすいから替えは絶対に必要だ」
「そうじゃないんだ」
「……ああ、そう。まあ、とりあえず入れよ」
いつもはうず高く得体の知れない物が積みあがっているゼンの小部屋は、少し物が減っていた。部屋の端にはゼンだと抱えるのに難儀しそうなほど大きなボストンバッグが置いてあった。
「蝶の標本、捨てたんだ」
「あれ、僕も好きだったんだけど、どうしたって持っていけない。仕方ないんだ。でも片づけるの面倒になったから、いっそこの賭博場ごと燃やしちゃいたいな」
「そんなの大火事じゃすまないよ」
ゼンは床をかきわけ一人座れるスペースを作りどっかり腰をおろして、ニカには部屋に一つしかない椅子を指さした。
「で、何?何の用でこんな僻地まで来たんだ。まさかこれ以上僕にみじめな思いをさせるためじゃないよな」
「そうじゃなくて……クドリャフカがもう三日帰ってこないんだ。どこにいるのか、何してるのか、全くわからない。ゼン、何か、少しでもいい、知らないか?」
ゼンはあんぐりと口を開けた。
「何か知らないか、だって!?いやいや、僕のほうこそ聞きたいよ。お前は何も知らないの?」
ニカはゆっくりと首を振った。
なんだって、とゼンは呟いた。
「まさかお前が知らないなんて、僕はこれっぽちも思っていなかったんだ。だから何も言わなかったし、わざわざお前の家まで行くなんてこともしなかったんだ。なんてこった」
嫌な予感がした。もう何も聞かないで帰ってしまおうかとさえ思った。どうにか口を開いてカラカラの声を絞り出した。
「いったい……クドリャフカはどうしたっていうんだ」
「死んだ。……壊れてしまったよ」
ゾッと体温が下がった。座っている椅子がぐらぐら揺れているように錯覚した。
脳みそが冷えるようで、後頭部にガンガンと痛みが走る。
ニカが何も言えず唇を戦慄かせていると目を伏せたゼンが続けた。
「僕らが話していたときの少し前なんだ。貧民街の外で誰かの乗った車に轢かれてバラバラにぶっ壊れた。きっと川沿いに下りすぎてしまったんだ。あの子の体は貧民街に棄てられた。多分どのパーツももう盗まれてしまっている……。もしもっと早くニカに伝えられてたら、片腕くらいは見つかったかもしれないのに……」
ニカは指の先が痺れるような気がした。涙も出なかった。
「……俺、帰る。核なら……クドリャフカの脳なら、再利用しようもないし、残っているかも」
「無駄だよ」
ゼンの声は冷たかった。
「頭をひどく打ったみたいで脳の損傷が激しかった。頭パーツは使い物にならないってすぐに焼かれてしまったから、今頃灰だ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「ゼン、お前、一人が嫌だからってクドリャフカを殺したんじゃないよな」
ニカがゼンをぎろりとねめつけると、ゼンは苦しそうに顔を歪めた。
「まさか。一緒に旅したいって思うほど大切な人の大切な人を奪ってまで、なんてほど僕は非情で自己中心的な鬼じゃない」
ニカはもう何も言えなかった。
「帰る……まだ、なにか残ってるかもしれない」
覚束ない足で立ち上がりふらふらと壁伝いに歩く。ゼンはそれを悲しそうにじっと見ていた。
ニカがドアノブに手をかけるとゼンはぼそりと言った。
「貧民街の東側、北から三番目のゴミ捨て場。の、向かって左から二番目の山」
「……ありがとう。あと、ごめん」
「謝ることないさ。悪いのは僕だ。謝っても謝りきれないけど、ごめんな」
ニカは俯きながら賭博場を後にした。
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東の、北から三番目のゴミ捨て場は異臭がした。貧民街の中ですらゴミとみなされた物や、セントラルや居住地区から無造作に棄てられたものが無秩序に積み上げられている。掘り出し物を探す人やロボットが点々といた。
クドリャフカが棄てられたのは三日前だから、そこまで埋まっていないはずだ。
左から二番目のゴミ山に足をかけよじ登る。途中人の腕がとび出していたが死体だろうと容赦なく踏みつけた。
てっぺんはポリバケツだった。下に投げ捨てる。次は一斗缶だった。投げ捨てる。
拾っては投げ捨てを繰り返して心なしか山が低くなった頃、ゴミの中できらりと何かが光った。
手を突っ込んで拾い上げてみると、歪んだ青いガラス玉だった。ビー玉より大きい。
ニカにはすぐわかった。
クドリャフカの片目だ。
慌ててもう一度手を突っ込みまさぐる。指先に触れた冷たいそれを引っ掴む。ヒビが入っているが、クドリャフカの目だ。
ニカは二つのガラス玉を握りしめてわあわあ泣いた。
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オリガはニカの話を聞いてぽろりと涙をこぼした。
「ニカ、あなたもう独りぼっちになっちゃったんだ」
ニカは頷いた。
「そうなんだ。……だから、この街を出ようと思う」
「……え?」
オリガは目を見開いた。
「ニカ、いなくなっちゃうの?」
「うん」
「どこへも行けない私を置いて?」
「うん」
「友達なのに{emj_ip_0792}」
ヒステリックに叫んだオリガをニカはじっと見た。オリガの落ち窪んだ目は不気味にぎらぎらしていて、やっぱり俺と似ている、と思った。
「友達だけど、俺は行かなくちゃ。俺とオリガは違うんだ。オリガよりもっと、俺は知ることを望んでる。知らなきゃいけないことが沢山あるんだ。俺の体のこと、この世界のこと、それから本物の太陽とか、満天の星空とか、海とか」
「それは私より大切なことなの」
「そうだよ」
オリガは眉を顰めて泣きそうな顔をした。
「なら、いいわよ。どこにでも行っちゃえ!野垂れ死んじゃえ!」
「うん。……オリガは長生きしてね」
「知ってるくせに!私がもうすぐ死んじゃうって知ってるくせにそんなこと言わないでよ!友達を看取らずに出てっちゃうニカはそんなこと言わないでよ!」
「……ごめん」
ニカは俯いてポケットの中のクドリャフカの目を握りしめた。ヒヤリと冷たかった。そして顔をあげ叫んだ。
「オリガ!俺のこと嫌いじゃなかったらこれ受け取って!」
「えっ?」
力いっぱい、窓まで届くように放り投げる。オリガは身を乗り出して枯れ枝のような手でかろうじてそれを受け取った。
「それ、クドリャフカの目なんだ!綺麗な青だろ。海の色なんだ、それ。海に焦がれた人間が作った、海色の瞳なんだ。本物よりずっと綺麗なんだ。俺はオリガを連れていけないけれど、オリガのことは大好きだから、だから俺の海を片方持っていて!」
オリガは黙って青のガラス玉を覗き込んだ。
「……私、海なんて初めて見た!魚も、初めてよ!」
ガラス玉越しにニカを見ながらオリガは笑った。
「小さな水族館ね、これ。とても素敵!」
ニカも笑う。
「いつかオリガと水族館に行きたいな」
「そうね。きっといつか」
検査の時間を告げるベルが鳴った。
「私、行かなきゃ」
オリガの菫色の目がすうと柔らかく細められた。
「死んじゃえなんて嘘よ、ニカ。世界の果てまで行って全部知っちゃえ!
……それから、ニカは笑ったらナメクジみたいな陰気な顔じゃなくなるのね、最後に知ったわ。私そっちの方が好きよ」
じゃあね、とオリガは手を振って窓を閉めた。
ニカはポケットの中のクドリャフカの目を握りしめる。
まずは西に行こう。そうすると海だ。きっと凍っているけれど。それから南に進むのだ。魚の泳ぐ海を見つけよう。
いつかオリガに話すために。