一、彼ノ刀らしく生く

 目覚めても景色は何も変わらない。離れの自室、畳に敷かれた布団から身体を起こす。手早く布団を畳み、洗面所へ足を向ける。変わりない体感にほぼ諦めはついているけれど、今日も今日とて蜘蛛の糸にすがるような微かな期待を胸に鏡を覗き込む。
 水垢一つ無く、あるがままを写してくれるであろう鏡の中では濡羽色の艶やかな短い髪と、淡いながらも力強い藤色の瞳を持つ少年がこちらを見つめている。主観的だろうと客観的だろうと好みがあったとしても、誰が見ても美しいと感じるその外見、相も変わらぬ「薬研藤四郎」と呼ばれた付喪神の器。その姿がどれほど“現実”離れしていようが、もはや見慣れてしまったその容姿に薬研は息をついた。

 確かに“私”として生きていたはずの時代、その遥か未来で歴史を守るために尽力する付喪神の器をなぜか―理由など凡人には検討のつけようもないが―気付けば賜ってしまっていた。どうやって抜け出すのか、果たして抜け出せるのかもわからぬまま、受け取ったものはしょうがないと「薬研藤四郎」らしい思考回路で刀剣男士としての記憶と身体をもって、その使命を果たすために刃を振るった。
 数年か数か月か、食事も睡眠もなくただ戦場を駆け回る昼夜もわからぬ生活の終わりは、薬研が練度上限を達成した直後の訪れた。道具による謀反など、言葉にするのもちゃんちゃらおかしな話だと薬研はそう思った。
 要するに、主には将としての器がなかった。それでも一応あの愚かしい人間は将であったのだから、最後くらい“らしく”終わらせてやろうと―今思えば道具が情けをかけるなど、それもおかしな話だが―主の腹を召し、懐刀としての最後の仕事を終えて、還ったはずだった。罅割れた刀身とて確かに見た―にも拘らず、何の皮肉か気付けば再びこの器を得ていたのだから、溜息くらい零れてしまってもしょうがないだろう。
 最初に目覚めたときには、西暦も言葉も見覚えのあるものであったが為に帰ってきたのかと心も沸いたが、実際蓋を開けてみればここだって”現実”には似ても似つかない。時間遡行による弊害か、超能力が「個性」と呼ばれ常態化した世の中――それが今のこの世界。そして八十万藤四郎、これが現在の薬研の名前であった。
 「薬研藤四郎」のままに生まれてしまったため、両親に似ても似つかない容姿にも関わらず―だからこそなのかもしれんが―猫可愛がりされていた幼少期。しかしそれも個性が発現してみれば一転、まるっと弟に綺麗に流れていった。理由は単純明快、薬研の個性が期待外れであったからだ。
 三歳を過ぎた頃、自分の記憶を取り戻すと共に個性が発現した。桜が舞ったその個性に両親は期待したようだが、総合病院の個性科に掛かってみれば宿っていた個性は「顕現」と名付けられた。簡単に言えば、物体を顕現するだけの能力―更に「薬研藤四郎」の“魂”も相まって顕現できるのは縁深い刀剣だけだろうと大体の見当はつく。両親の期待していた本来の八十万家に遺伝される個性「創造」とは似ても似つかぬ劣化版。同時期に弟が「創造」の個性を発現すれば、それはもうあっさりと八十万家嫡男の座は弟のものへとすり替わった。
 いつの間にか母屋からも追い出され、今は離れでの一人暮らし。とはいえもちろん、屋根もあれば布団もある。水回りも食料も一切の問題はなく、むしろ記憶を取り戻してしまった事もあって悠々自適に暮らしているのが現状であった。

 顔を洗い、いくら寝ても寝ぐせのついたことのない黒髪をそのままに、ふあとあくびを零して自室へ戻る。浴衣姿でぼりぼりと首の後ろを掻いて歩く姿は、客観的にみると儚い分類に入る容姿と相まって酷くちぐはぐであるが「薬研藤四郎」としては何のこともない。
 制服に着替えてから、離れで暮らす薬研の分を作るので手一杯な簡易的な台所へ向かう。味噌汁と、タイマーをセットしておいた炊飯器の炊き立ての白飯で握った大きな握り飯、鮭を一つ焼き、漬けてあった胡瓜と大根を皿に取れば朝食は完成だ。
「頂きます」
 手を合わせ、一人きりでも挨拶だけはしっかりすると決めていた。刀としての認識がどうも強く、食事をとるのにも違和感を覚えてしまうところはあるものの、肉体はあくまで人間の物である。いくら魂に寄ったせいで刀剣男士寄りだとはいえ、倒れてしまっては元も子もない。
 米粒の一つも残すことなく食し、合掌をしてから洗いに食器を置く。冷蔵庫の中を確認するが、必要なものは特にない。冷蔵庫に備え付けられたホワイトボードには何も書かずともよさそうだ。八十万家というのは愛知の方に本家が存在する名家であって、母屋には数人の家政婦が在中している。離れに暮らす薬研の生活の世話は薬研自身が断ったが、不足物をホワイトボードに書いておけば買い足しておいてくれるというのでそれだけはお願いしている。
 自室に戻り、スクールバックを手にざっと戸締りをして離れを出る。正門とは正反対の離れに近い裏門から外へ出る。家政婦には渋い顔をされるが、距離のある正門より裏門から出た方が圧倒的に学校が近い。
「おはようございます、藤四郎さん」
「おはよう、朝からご苦労さん。今日は買い足すものねえから部屋入んなくていいぜ。いってきます」
「承知致しました。いってらっしゃいませ」
 庭の掃除をしていた家政婦に挨拶をして、薬研は学校へ向かう。高級住宅街にある自宅から坂を下ってスポーツバイクで二十分。この住宅街に住む子供たち(薬研の弟を含む)が電車に乗って都心に向かう名門私立、とは反対に位置するのが市立名部中学校―“私”としての記憶の中でも特に変哲のない一般的な公立中学校―が薬研の通う学校だった。
「はよ」
「おう、おはようさん」
 駐輪場の柱に自転車を立てかけ、施錠をするその後ろに、欠伸を零しながらやってきた男子生徒に挨拶を返す。薬研の瞳の色をずっと濃くした髪と目の下の隈が印象的な彼は心操人使。入学直後から広く浅く付き合っている同級生の中で、唯一友人と呼べる人間である。
「そういや藤四郎って、夏期講習行く?」
「いや、行かねえな」
 中学三年の夏前、志望校に向けてヒーロー科を目指すものは実技も見据えての受験対策を詰めてゆく時期である。有名塾ではプロヒーローを雇って実技対策を行っているところもあり、塾生以外が通うことのできる長期休暇の講習は申し込みからすぐに受付が終わってしまうこともある。
「ふうん」
「休暇は爺さんとこに世話になるんでな」
「あー京都だっけ?」
「ん。なんなら遊びに来るか?」
「藤四郎のお爺さんって八十万家のだろ。会えるわけねえよ、ふざけんな」
 げっと顔を顰める心操に、けらけらと薬研は笑う。
「違えよ。俺の個人的な知り合いの爺さん」
「はあ?意味わかんな」
「ま、来る気が合ったら電話してくれや。組手くらいなら付き合うぜ」
「…お前マジでヒーロー科狙わないわけ?」
 人の身でありながら魂に由来した「薬研藤四郎」として遜色無い身体能力は、特に個性では身体能力を強化し得ない心操にとって、酷く惜しいと思わせるに十分のものである。しかし心操の問いに薬研は、ああと頷くだけである。
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