始まりの1冊

 三門市立大学。三門市に本部を置く境界防衛組織「ボーダー」と高等教育機関として唯一提携するその大学は、三門市民が在籍者の七割――三門市に隣接する町から三門市の中学・高校を出た者を含めると九割――を占めていた。元々外部の人間の入学は少なかったが、近界民「ネイバー」の出現によりそれに拍車がかかったのは言うまでもない。
 今現在、ボーダーに所属する正隊員の中で大学生ならびに院生は皆ここに通っている。それは防衛任務で活動する上で授業の出席数の融通が利くためだったり、卒業後は本部の技術職への斡旋が唯一利くためであったり理由は様々であった。
 そして特にその恩恵にあずかる形――すなわち「ボーダー推薦」で三門市立大学に入学を果たしたのが太刀川慶であった。
 授業を受ける事よりもボーダーとしての仕事を優先するその姿は、ボーダー隊員としては鏡であるのかもしれない――太刀川の師である忍田はきっぱりと否定するだろう――が、その成績はだれが見ても庇うことのできないほど悪く。今日とて太刀川はボーダー隊員としてのお情けを全力で享受するために、落としかけていた科目を担当する教授の元へやってきていた。

「失礼しました〜」
 気の抜ける声で教授の部屋を出た太刀川の手には、プリントが束ねられた冊子が一つ。特別課題として出されたそれをヒラヒラと揺らし、隠そうともせず太刀川はため息をこぼす。
「うーん、終わるか?これ」
 風間さんは休みだったか。早々に一人で解くことを諦めた太刀川は、今日の防衛任務のシフトを確認するためにスマートフォンを取り出した。ホームボタンを押し込んでシフトを確認するも、日付の下に書かれた風間隊の文字に頭をかく。諏訪さんは微妙だしな〜。
 さてどうするか。そう思いながら、スマートフォンを操作していたのが悪かったのだろう。
「あっ」
 曲がり角。狭くなった視界の端に、書籍を積み上げて歩く人影が見えた。戦闘体ならなんなくかわせるが、あいにく今の太刀川は生身である。何とか身体を反らし、肩をかすめるだけに留めるが、その衝撃で相手の持っていた書籍が廊下に散らばった。
「わりい!」
 自らの日を認め、素直にそう謝る太刀川の目の前でさらりと黒髪が揺れた。

「こちらこそ、ごめんなさい。すこし考え事をしていて」

 黒縁メガネの下の淡い紫の瞳が、太刀川を捕らえてそういった。申し訳なさそうに眉を下げて笑った女性は、太刀川に怪我がないかを続けて尋ねると――太刀川はああ、とそれだけ返した――頷いて、落としてしまった本を拾い集めた。
 その様子を太刀川はじっと見つめていた。彼女の一言一行に目が奪われる。この状態が防衛任務中に起こるとまずいのはわかるが、不快な感じも焦りを覚えることもない。不思議な感覚だった。
 拾い集めていた彼女の視線がこちらを向いて、そのまま太刀川の足元に流れる。その視線に従うように太刀川が視線を足元に向ければ、一冊の本が放り出されいた。手を伸ばす。
 普段一切触らないハードカバーの表紙をパッパッと軽く払えば、目に入ってきたタイトル。その書籍が先ほど教授に渡された冊子にも関りがあるものだと、太刀川でも分かった。
「ありがとう」
 先ほどの儚い笑みとは違う、柔らかな微笑みに、思わず、書籍を受け取ろうと手を伸ばす彼女の腕をとった。
「なあ あんた、この内容に詳しいのか?」
 正直、きっかけなんてどうでもよかった。不思議そうな顔で目を瞬く彼女に、ドクンと心臓が鳴ったのを太刀川は自覚していた。
 茶髪の明るく元気な子がタイプだと思っていたし、現に今まで好きになってきた子もそうだった。幼馴染である月見のようなタイプを好きになったことはない。でも――太刀川は思う。それは、確かに一目惚れであった。



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