珊瑚の海で生きるベタ

 目が覚めた。
 いや別に寝ていたわけじゃないけど、今の状態を表す言葉はそれしかない。目の前にある偉大で慈悲深い「海の魔女」様の大きな像が視界に入った瞬間、俺は思い出した。

「えっこれ、アースラでは?」

 そうだ。長編アニメーションが有名な某夢の国。えっここディズニー?

「名前―?」

 エクスクラメーションマークで頭の中が一杯になっていた俺の”今”の名前が呼ばれるが、返事をする余裕はなかった。稚魚たちはしばらく不思議そうにこちらを見ていたようだが、俺がアースラ像の前でじっとしている様子を見て、友達と一緒に先に駆けて――いや、泳いで行く。稚魚なんてそんなものだ。
 それよりも、そう稚魚、稚魚なのだ。今ここにいる”人間”はすべて人魚。成魚も稚魚も全部半身が魚介類。意味が分からな過ぎて涙が出ちゃう…でも俺、男の子なのに!
 ちなみにはベタの人魚。そしてここは珊瑚の海にあるアトランティカ記念博物館。意味が分からんと思っただろ。俺もわからん。ベタは淡水魚です。

「はえ〜イミフ」

 ひらひらと蝶のように像の周りを二周する俺の、違和感なく動かせる尾びれ違和感。水かきの目立つ小っちゃな手は確かに俺のものなんだけど!なんだけど!マジ何?俺二本足で立って歩く人間だったよね、なんで人魚になってんだろう…。

 更に像の周りを三周しても答えは出ない。うん、知ってた。そもそも人間の頃の記憶も途切れ途切れな事実に気付いてしまって俺は悲しい。自分の名前を辛うじて覚えていることが救いなのかもしれない。泣きそう。
 更に像の周りをちっちゃなベタの体で更に五周して、ようやくそこで周りを見る余裕ができた俺は、同じようにずっと像の前から動かない一人の人魚に気付く。男の子。アースラをそのままちっこくしたようなタコの人魚だ。

「な〜この像の名前ってアースラだよな?」

 考えるよりも先に口と身体が動いていた。これ多分ベタの人魚になったせい。頭がちっちゃくなって、きっと考える力が衰えてるんだ。

「えっ……ぼ、ぼく…?な、なに」
「この像の名前、君知ってる?」
「う、海の魔女様。ちゃんとした文献がないから、お名前はだれも、知らないよ」
「えっ?アースラでは…?」

 いや、この像どう見てもアースラだが?ふとましく化粧の濃い厳ついお顔。首元に輝く巻貝は確かアリエルの声をお代として奪い取った時に使ってたやつ。
 俺はベタになる前も男の子で、ぶっちゃければディズニーによりも仮面ライダーが好きだったし、仮面ライダーよりもポケモンが好きだった。そんな俺でもアリエルに出てくるアースラくらい知ってるし、そもそも様付けで呼ばれて、グレートなんとかとかって崇め立てられるような崇高な存在でもなかったように思う。罷り間違っても、人魚姫の櫛という名のフォークと並べて、主役のように像を作られるような存在ではなかったとこの小っぽけな脳みそは記憶しているのだけど!

「…きみ、海の魔女様のお名前を知ってるの?どの伝承?人魚姫の恋と海の魔女の献身?それとも、海の魔女の慈悲深い心のあり方?僕二つとも読んだけど、どっちにも載ってなかったはずだよ。何か別の新しい文献?お名前を見つけられたら、そんなの間違いなくトリトン賞ものだ…」

 なんかタコくんがグイグイ来る!さっきまでのコミュ障ぶりが嘘のように目を爛々と輝かせるタコくん。えっウォルト・ディズニー先生に聞いて!元ネタは小さくキュートなアンデルセン先生――なんて言えるはずもないのは小さな頭でもよくわかった。

「えっごめん勘違いかもしれない。そんな難しい本、俺読めないし…」

 そもそも彼が上げた本ってどこぞのお偉方の出した論文って話じゃなかったですか?ベタのちっぽけな頭でも聞いたことあるぅ!さてはこのタコくん天才児かあ?

「…そう」

 う、うわ〜〜!俺よりおっきな身体でションボリしてるタコくんに罪悪感が鰻上りしてしまう!鰻の人魚に会ったことはないから鰻上りがどれくらいヤベーのかは知らないんだけど!
 人魚の稚魚は身体特徴が種族間差が激しくて、そもそも年齢の推測が難しいんだけど、ペロッ!コレは幼女!

「ごめん、ごめんよ!紛らわしい話しちゃって、ごめん!勘違いさせちゃった!俺、俺が悪いから泣かないで〜〜!」

 タコくんから一回りも二回りも小さな身体の小さな手と尾びれをバタバタしていれば、にゅっと一際大きな影がひとつ…ふたつ…

「アズールぅ、泣いてんのぉ?」
「どうしました?アズール」

 同じ声質の持ち主が、俺の左右からニョキッと顔を出す。ヒェッ…えっ俺死にましたか?




そもそも、フロイドが金魚ちゃんってカニでもエビでもない淡水魚が出てくる理由は淡水魚の人魚が同じ海で過ごしてたからなのかなと思いまして



katharsis