昨日の話のつづきの話

 小さな金属音が鳴った。

 はずみで顔を上げると、壁を隔てた向こうの玄関口から、キィ――、と、蝶番の音がかすかに鳴っていた。

 無意識に息を止め、ルカはゆっくりとリビングを出た。自分を訪ねてこの家に来るような人間がまともな客であるとは思えなかった。

 ルカは壁伝いに顔をせり出すようにして、短い廊下の先にある玄関をうかがった。
 すでに閉じたドアの前に、ルカの足元まで長く影を伸ばして、女がひとり立っていた。

 「お久しぶりです」

 女の細い声が、蝶番の音の続きのように廊下にただよった。
 その女が誰なのかルカはわからなかった。ただ立ち尽くして、隣家の猫を眺める老犬のようにぼんやりと女を見た。

 女はルカの様子を別段気にかけずに、誰も掃かないフローリングに靴を上げ、彼の目の前に歩いてきた。
 女は大きな紙袋を抱えていた。
 水のボトルや野菜の葉が袋の口から覗き、その上に女の小ぶりな顔があった。顔の細かな造りは、西日を逆光に受けているせいでルカにはよく見えない。ルカは目を細めた。
 見つめるうちに、ルカは白熱灯が女の顔の真上で激しい明滅をしたような錯覚を覚えた。けれどもやはり女の正体は思い出せなかった。
 
 「何しに、来た」自分の声かと己で疑うほどルカの声は弱かった。

 女は何も答えなかった。

 女はルカをすれ違ってリビングへと廊下を進んでいった。ルカはしばらく首をねじって女を見送ったが、やがてのろのろと後を追ってリビングに向かった。


**


 ダクトの稼働音が響いている。

 「ダクトを動かすには、どのスイッチを押すんだったか」と、ルカは一瞬思い返してやめた。ダクトを動かしたことなど元よりなかったからだ。

 部屋に上がった女はそのあと、とくに断りなく家事を始めた。
 メイドと同じように女が掃除機を掛け、雑巾を拭き、洗濯をしに家中を立ち働いている間、ルカは部屋の方々の隅っこに追いやられなければならなかった。今もルカは、キッチンで料理をする女の太ももの裏をぼんやりと見つめながら、奥の壁にもたれて立ち尽くしていた。

 立つのが、辛くなってきた気がする。
 このまま座ろうか、とルカは思った。ずりずりと壁紙を背中でこすりながら、ルカはゆっくりと膝を折ろうとした。
 
 
 「ルカさん」女がルカを振り返った。

 女は水滴のついたポロねぎをカッティングボードに置いた。濡れた自分の手をエプロンで拭うと、リビングの中央に置かれたテーブルにある椅子のひとつを引いた。

 「座りませんか」

 ルカはのろのろと歩いていって、女の引いた椅子に大人しく座った。女はしばらくの間、ルカの座った背もたれに両手を置いていた。

 「昔に」女がいった。「あなたも私に椅子を勧めてくれたことがあるんですよ」

 ルカは黙っていた。そんな覚えはまったく記憶に無かったからだ。

 「そうだったか――」ひとり言と変わらない呟きが漏れた。ルカは女が頭上でどんな表情をしているのかを想像した。笑っているのか、眉をひそめているのか、どちらでもありうると思った。

 ルカは漠然と、自分は女に何か聞くことがあったはずだと感じていた。
 それが何だったか思い出そうと、思考を深めようとした。その途端に、こめかみの奥で脳を抉るような痛みが生じた。ルカは前屈みに頭を抱えてうめいた。この瞬間だけは、頭に立ちこめた霧が晴れた気になる。だがものを考えられないのは同じことだ。

 ルカは氾濫する脳内で、思い出そうとした事柄の羽先を必死になって捕らえようとした。そして、やっとのことで「女に聞きたいこと」を捕まえ引っ張り出し、また霧の中に戻ったとき、ルカは冷や汗を流してくたびれていた。ルカは何とか体を起こして、女を見た。

 「お前は誰だ」ルカは訊ねた。

 見上げたその女の表情がどういうものか、ルカはよく解らなかったが、女は答えてくれるだろうと感じた。ルカから見て、女は笑っても怒ってもいなかった。

 「私はあなたに恩がある者です」

 言うと女はルカを離れ、またキッチンに戻っていった。女の一言をルカが飲み込み、繰り返し、さらに理解するのにたっぷり120秒かかった。見ると、ポロねぎはすでに刻まれていた。


**

 ルカにとってあれよあれよという間に、彼はフォークを握っていた。横を見ると、女が隣に立ってグラスに水を注いでいる。今日磨いたらしいグラスは、ルカが見た感じとても冷えていた。

 「どうぞ」

 いつまでもグラスの水を眺めているルカに、女がすすめた。ルカが手元に目を戻すと、鳥肉とキノコの入ったクリーム・ソースのパスタが深皿に盛られて置かれている。ルカはそれにフォークを入れ、ぎこちなくパスタを巻き付けた。皿に頭を持っていって、ひと口食べた。

 ルカはそのパスタが、少なくとも冷えた缶のサーディンや、生の果物よりは美味いことだけわかった。





 「お風呂をあがったらどうです」女が尋ねた。

 女はたびたび疑問形で言葉をかけたが、ルカはそれが命令となんら同じに思えた。実際ルカはそれらの問いかけ全てに、うなずく他にすることはなかった。

 「あぁ――」吐息に近い相槌を返して、ルカは風呂場があると思われる方へ足を向けた。

 カチャリと開けたドアの先は、しかし物置だった。

 「こっちですよ」後からついてきていた女が、ルカがノブを握っている隣で別のドアを開いた。「着替えです。どうぞ」
 
 女は服を差し出した。ルカはそれを受け取って、のろのろと脱衣所へ入っていった。開けっ放しにされている物置のドアを閉めると、女もルカのあとに入った。

 ついてきたな。とぼんやりとルカの見る前で女は自分の身につけていたものを落とし、そのあとルカの服に手を掛けた。
 ルカは手持ち無沙汰に壁掛けの鏡を見た。女のせいか、自分の体がいやに黒く見えた。


**


 プラスチックの戸を開けると湯気が体を包んだ。

 「ここにどうぞ」

 女が出した小椅子にルカは大人しく腰を下ろした。すぐさま、ぬるい湯がルカの赤毛の髪に降りかかった。

 「また――痛みますよ。目を閉じないと」

 ルカのすぐ耳元で女が言い、ルカはようやく目を閉じた。さっきから、シャンプーのぬめる液が目を流れ、不快で仕方がなかった。

 目を閉じてしまえば、徐々に睡魔が兆した。全身を包むような湯と熱の中で、うなだれた頭を動く指や、時たま背中に触れる女の肌の感触を、ルカは心地いいと感じた。