うつらない人
「入ってくるな」
昨夜から、イルーゾォがアジトの空き部屋に篭って出てこない。
打ち合わせの席に現れないイルーゾォを、まずホルマジオとメローネが部屋まで呼びに行って来て、どうやら奴は具合が悪いらしいということをチームに伝えたとき、体調を案じたリゾットがドア越しに様子を伺ったが、リゾットに対しても彼はとにかく大したことではないから放っておいてくれの一点張りだった。
「今後の仕事に支障が出るようなら困る。なぜ出てこないかを言え」閉めきられたドアに額を寄せ、リゾットが問いただした。
「…………少し怪我をした」イルーゾォ声が、ややこもって返ってきた。
「酷いのか」
「いいや、どうって事はない。ただ――見てくれが悪いから今はアンタの前には出られない。じきに良くなるから放っておいてくれ……」
「そこできちんとした処置ができるのか?タチの悪い菌でも入ったら――」
「アンタの言うことはもっともだ。だが今回ばかりは折られねえ」
イルーゾォの声は懇願するようだった。
職業柄、怪我することは多い。今までにも珍しくなかったはずなのに、どうして今日に限って頑なに隠す必要があるのか。メンバーは首をかしげた。
「なんだってんだ。手前で隠すほど大層な面ァしてる思ってんのか?女々しい野郎だぜ」プロシュートが煙草を吹かしながらそう言って挑発した。「…………」
これでイルーゾォが腹を立てて出てきてくれれば良かった。
そうでなくとも、ふざけんな、とか馬鹿にするな、とか何かしらの反発を示してくれるだけでも良かったのに、扉の向こうからは何の音も聞こえてはこない。無音の廊下で、プロシュートも気味悪げにリゾットを見た。
「日付が変わるまでに必ず、一度俺に顔を見せろ」
リゾットはそう言って背後のメンバー達に解散をうながした。
私は通路の脇に立ち止まって、メンバーが引き上げていくのを見送りながら、イルーゾォが一人でいる室内を想像した。イルーゾォに何か問題が起こっている事は理解できたが、それを本人が明かそうとしない分、当然心配だった。
相貌を損なうような怪我を負ったのだろうか、それとも見せられないほど悪化しているのか、腐ったりして……
一瞬、スタンドを使って室内を透視しようとしてやめた。
プライバシーもあるのだし、今はイルーゾォがリゾットの命令通り0時までに自ら出てきてくれることを信じて待とうと思ったからだ。
廊下はまた静まり返った。
深夜。
そう広くないアジトに男の絶叫が響き渡った。時計針は0時を回り、なおも現れないイルーゾォの様子を見に、リゾットが椅子から体を起こそうとした時だった。
「なんだ。今の……」
悲鳴を聞いたメンバーたちが出てくる。
「イルーゾォの声だ」青ざめたペッシが唇を動かさず言った。
あれから私も眠らずに、イルーゾォが顔を見せに現れるのを待っていた。その問題の彼が、何かただならない悲鳴をあげたことで、自分やそのほか、リゾットまでもが顔を引きつらせて廊下の先を見た。
「ドアを破る」
足早に件の部屋の前まで来ると、リゾットは有無を言わさずそのドアを蹴り開けた。
「おい、イルーゾォ!」
室内は暗闇だった。
リゾットの腕越しに中を覗き込む。廊下からの四角い光の中に、荒れた室内の様子が見えた。
「見るなよ……」
部屋の隅から、掠れたイルーゾォの声が聞こえた。
全員がそちらに目を向けると、果たして乱れきったベッドの上にはイルーゾォがいた。
「見ないでくれ」
イルーゾォは顔を覆って、光から逃げるように後ずさった。
リゾットが電灯のスイッチを叩きつけるように押した。途端に明るくなった部屋の全貌に全員が目を剥いた。イルーゾォは相変わらず項垂れている。メンバーの視線を集めたのは彼ではなく、部屋の隅に放り出されたぐしゃぐしゃの黒いシーツで、その中に、ほとんど全裸体の人間が一人うずくまっているのだ。
女? 初めその人物がそう見えた。
しかし厚い胸部に乳房は見えないし、体格も女性にしては骨太で筋肉質に感じる。顔を覆い隠している長い黒髪には見覚えがあった。
「イルーゾォじゃあ、ないかい?そこにいるのは……2人」
ゲェ、という、メローネの悲鳴が聞こえた。
イルーゾォの増殖は、前回彼が請け負った任務の最中に、不覚にも受けたスタンド攻撃によるものと結論された。当初は体に別段の変化も見られないので、なんの気にもせずに帰ってきたイルーゾォだったが、夜になって事情が変わったらしい。
部屋に篭っていたときの自分の様子は到底話すに耐えないと言って口を開こうとはしなかったが、吐き捨てたところによればもう1人のイルーゾォは、体の浮腫みたようなものから膨れ上がり、剥がれるようにして生まれたというのだ。
原因が分かったとしても問題の解決には繋がらない。
オリジナルのイルーゾォはヒステリー気味に、あの標的は確実に殺したはずだと訴えた。
「死んでスタンド能力が消えるのと、喰らった効果が消えるのとでは話が違う場合もある」リゾットは目の前にいる、動揺からそこらを忙しなく歩き回っているイルーゾォと、ソファに座ってまんじりともしないイルーゾォの2人を見て吐息をついた。
「妙だな、どういう理屈なんだ?」ホルマジオが横のメローネに小さく訊いた。
「多分、細胞分裂と同じだと思うぞ。人間一人丸ごと、複製させたんだ」
2人のイルーゾォは身体的には全く同じ人間のようで、同じ体と声に、同一の記憶を持ち、驚くことにはそのスタンドまでもが複製されていた。2体目のマン・イン・ザ・ミラーを見て、オリジナルのイルーゾォはいよいよ気が変になりそうだと悲鳴を上げた。
「こいつは殺すッ!本物は俺だ、ふざけるな」
イルーゾォは猛然と自分へ掴みかかった。手にはナイフが握られていた。
「止まれッ!」
叱声が飛びリビングが騒然となる。突き刺すように振り下ろされた腕と、その手首を掴んで受けた腕とが強く組み合い一瞬激しい闘争になったが、周囲の仲間たちが被さるようにそれを押さえ込み、引き剥がした。
プロシュートに羽交い締めにされ、床に膝立ちする格好に掴まれているのは複製のイルーゾォだ。見ると、右手の内側から血が流れて指の先へ垂れている。組み合ったとき、刃に切りつけられたのだ。
リゾットとホルマジオが組み付いている本物のイルーゾォは、髪を振り乱して唸り、なおも複製にナイフを突き立てようとした。
「頭を冷やせイルーゾォ。やめろ」リゾットの声が怒気を含めて響いた。
複製のイルーゾォは眉をひそめてその様子を見上げている。
ナイフを袖に複製を睨むイルーゾォと、生煮えた殺気とで室内の空気は重い。
この日からアジトにはイルーゾォが一人増えることになった。
あれから4日経ったが、相変わらずイルーゾォは2人いる。
しかしチームの生活にはさほどの変わりもなく、これといった問題も起こっていない。ただ、本物のイルーゾォは複製の彼をとても嫌っており、顔を合わせるどころか存在さえ認めたくないようだった。
「そんでよぉ、どうすんだよあの野郎共は」ギアッチョの呟きにも、そばに居たメンバーたちはただ肩をすくめて見せるだけだった。
また次の仕事がチームに伝えられ、私たちは計画を練らねばならない。
「君、“複製”の奴を呼んできてくれ……仲間だからな」メローネが右手をひらひらと振った。
リビングを出て、廊下を中ほどまで行ったところにある階段下スペースの物置前に立った。大人が屈んでやっと通れる小さな扉を3度ノックする。「リビングに行きましょう」
部屋の主であるイルーゾォ、の複製はすぐに出てきた。
「ああ――そうか。ありがとう、すぐに行く」
窮屈そうに体を屈めて出てきた複製は髪を結んでいない。本物のイルーゾォが、髪型まで同じなどというのは到底我慢できないと言ったのでそうなった。黒髪は重力のまま肩口へ流れている。その長い束の奥で、彫りの深い顔立ちが微笑んだ。私はその弱々しい笑みと、背後にある彼の狭い自室を一緒に見て思わずうつむいた。
彼の自室として割り当てられた物置だ。他に空いた部屋を作ってあげられるのにと思ってもオリジナルがそれを許していない。無理に追いやられたこの狭いスペースが、複製である彼の部屋だと決められていた。
この頃、彼の扱いが気になって仕方がなかった。
とはいえチーム内での立場が高いとは言えない私には、複製を取り巻く不仲と、他メンバーの無関心をどうにかできるほどの力が無いのだ。
「どうかしたか?」
黙り込んだ私の顔を複製が覗いた。
「いえ――行きましょう」
下がりかけた眉を無理やり取り繕って踵を返した。
メンバー達は、分裂したイルーゾォがこの先さらに4人、8人と対数的に増えていくのではないかと心配していたが、幸いそんな兆候はなかった。
変わりない日々が過ぎ、チームではイルーゾォが2人いる事が日常になりつつある。私と、1人を除いては……
「イルーゾォよお〜。いつまでも拗ねてんなよ、そんなに気に食わねえもんかあ?」
「……気に食わねえ」
赤い西日がブラインドからボーダーに射し込むリビングで、両腕を広げてソファの背に凭れるイルーゾォと並んで座っていた。彼の向かいでは、ホルマジオが酒瓶を手に愛想笑いしている。
事故が起こってから日に増して陰険になっていくイルーゾォに、ホルマジオは苦笑いするしかないようだ。イルーゾォは、彼が注いでくれた酒に手もつけずにあらぬ方向を睨んでいた。その視線の先に複製の部屋があることを知っていて、それがいたたまれなく私は目を逸らした。
「あいつが少しでも下手を打てばすぐにでも殺してやるのに」憎々しげにイルーゾォが呟いた。
ホルマジオはやれやれと肩をすくめた。「しょうがねえだろうが、な。お前のスタンドは使いモンになるんだからよぉ」瓶を棚に片付けながら呟く。
複製のイルーゾォは、本物と変わりなくスタンドを持っている。マン・イン・ザ・ミラーは"鏡の中"を現すスタンドで、仕事においては有用な能力なので、イルーゾォはこれまで単身で行う仕事のほかに、他のメンバーに同行して補助をすることも度々あった。
しかしその分を今は複製が任されているのだ。
本物のイルーゾォからすれば仕事を横取りにされたことになり、納得がいかないと不満を訴え続けていた。仲間たちは「負担が減るだろう」と相手にしない。
そんな現状があって、ホルマジオのおだても、今に限ってはイルーゾォの自尊心を微塵もくすぐらないようだった。彼は苛立ちをまったく隠さないため息を吐き、生ぬるくなった酒をひと息であおった。
「外出るぞ。陰気でかなわねえ」グラスを落とすようにテーブルに置いて彼は立ち上がった。
もとより陰気で当たり前のアジトなのだが、イルーゾォはこの頃とくに嫌気が差すのか夜はきまって街に出ていく。そして私はきまってついて行く。というよりはついて行かなければならない。ホルマジオを見ると、彼は苦笑いしたままわざとらしく目を逸らせて私たちから離れていった。くくくく、という喉で笑う声が聞こえた気がした。
「おい」
多少苛立った声が呼ぶ。
それきりリビングは振り返らず、イルーゾォを追ってアジトを出た。通路の途中、階段の方に目を向けることもなかった。
外に出ると昼の温かさはもう跡形もなく寒かった。湿った石畳の路地も、アジトの通路と見分けがつかないほど暗い。
イルーゾォが振り返って私を睨んだ。
「お前は俺の女だ。忘れるな」
すぐまた歩き出したイルーゾォの暗い背中に、私は頷いた。
「ナマエ」
誰も居ないと思っていたアジトで、名前を呼ばれて振り返ると、たった今自分が入ってきたドアの前にイルーゾォが立っていた。「最近、ここに顔出さなかったな」
忙しかったのか?と笑いながら、イルーゾォは私の前までやって来た。波打つ豊かな髪を、いかにも間に合わせという風に白いゴム輪で後ろにまとめ、そこから覚えのある男性用香水がかすかににおう。イルーゾォがつけているものと同じだ。
「気にいらねえのか」
私が黙っていると、複製の顔から表情が抜け落ちた。
「いえ――」私は言葉に詰まった。複製のイルーゾォが本物に似せた行動をするのを見ると、彼が初めて現れた日の、憤怒に歪んだイルーゾォの顔を思い出すからだ。
「なあ、お前と話がしたい」イルーゾォは構わず言った。「俺はお前の男だろう。忘れたのか」
「それは違います……」胴のあたりを引き寄せようとする複製の腕を押し戻す。
「どうしてだ?」複製の顔が歪んだ。「何もかもアイツと同じだ。スタンドも。お前のことだって知っている」
お互いの腹部が触れそうなほど近づき、私はたじろいだ。見上げた複製の顔は、イルーゾォそのものだ。
「おい」
後ろに続いた通路の奥から、低い挑みかかるような声がした。
いつから、どこから見ていたのか、本物のイルーゾォが怒りの表情あらわに通路の暗がりから現れた。こわばった私に流し目を送りながら、彼はすぐ隣りにやって来て、複製と向き合った。
2人のイルーゾォは文字通りの鏡写しだった。
本気に相手を殺しそうな剣幕に挟まれ、身動きも逃げもできず、あの時の2人の激しい闘争が頭によぎった。
「……」
息が止まるような沈黙のあと、くっと本物のイルーゾォが笑ってみせた。
彼は複製の顔を覗き込むように身を乗り出し、片腕で私の肩を抱いた。
「近頃、物欲しそうに見てるな。これがか?ええ?」
肩口に置かれていたイルーゾォの広い手のひらが、浅く爪を立てながらゆっくりと私の鎖骨をくだり、襟の中へ潜り込んだ。無遠慮な力で左の乳房を握られ、痛みに嗚咽が漏れる。
「帰ってマスでも掻くんだな」本物はにやりと笑った。
複製の目にあきらかな殺意が現れた。
本物はそれをまともに見てなおせせら笑うと、襟から抜いた手を私の肩に掛け、玄関扉の方へ引いた。抗う気も起きずに、私は彼に伴ってアジトを出た。
本物のイルーゾォは今度は一度も私を振り返らなかったが、後ろからわずかに見える横顔から笑いが全く消え失せているのを、私は血も凍るような思いで見た。イルーゾォが発散する鬱々とした嫉妬や苛立ちが、粘りつく糸のように私を引きずっていった。このまま、彼の家まで歩くだろう。
イルーゾォの住家はアジトからひと街またいだ裏通りの、古いアパルトマンである。住人たちはイルーゾォと同じようにあまり帰らない者ばかりなのか、パイプを曲げただけの門の前に立ったとき他に人影はなかった。くすんだセメントの階段をのぼり、通廊を行ったいくつめかのドアの把手の鍵穴にイルーゾォが鍵を差し込むと、ガチャンという音が轟くほど大きく聞こえた。
イルーゾォは私の背中に腕をやって中へ進めた。
室内はいつもながらどこも冷えきっていた。絨毯も敷かないリビングに私が立ちすくんでいると、イルーゾォが電灯とボイラーのスイッチを上げてうっそりとやってきた。私は彼に襟首をつかまえられて隣室の方へ押された。よろめきながら入ると、狭い部屋にはブラインドを閉じた窓の前に細長いテーブル、隅に何も植えていない鉢と、病室のように味気ない鉄枠の寝台があるだけでひどく寒々しい。
「イルーゾォ」
身震いをして振り返ろうとしたうなじをイルーゾォの手が強く押さえつけ、そのまま寝台へ突きたおされた。うつ伏せの体勢で胸が潰れ、体がよじれる。そのうちに彼はシーツの隣に腰をかけて、上げた片脚の膝で私の背を押さえた。
「イ――」
肩口から、乱れた髪をかきわけるようにしてイルーゾォの掌が滑りこみ、顎を抱え頬を包むように掴んだ。
「冷えたな」頬を触っていた手を抜き、服の裾から素肌を撫であげる。太い冷たい指が両の膨らみの間で止まり爪を立てた。頭上から満足げな笑いが響いた。
「他がどれだけ冷えてもここは温けえんだ。どの女もな」
イルーゾォが押さえていた膝を外した。ベッドに引きあげられ、彼の膝に上体をもたれた形で仰向けにひっくり返される。脱力した私をイルーゾォはこともなげに抱きかかえ、自分も寄り添う体勢に横たわった。
「胸だけじゃあない、な」衣擦れの音が一層大きくなった。
骨盤の上の皮膚に冷えた指が置かれた。その冷たさに思わず体をよじってシーツへ顔を伏せようとした。
途端、彼の拳が左の頬に飛んだ。私は動けなくなった。殴打の痛みや、精神的なショックよりもまず、その瞬間に顔中に振りかかった自分の髪にむず痒さを覚えた。じっくりと、頬の内側から塩気のある血液の味が歯に滲んでくる。私は髪の合間から、添い寝する男を見た。
彼の顔は驚愕にまみれていた。見開かれた目の中で、赤い瞳が針の穴ほどに縮んで細かく震えている。その驚きは私が行為に萎縮したことよりも、自分のした暴力に対することのようだった。イルーゾォは私を殴りつけた形のまま硬直していたらしい拳を、凍ってでもいるようにぎくぎくと開いた。そして発作的な造作で上体を起こし覆いかぶさってきた。彼の手がふたたび裾に掛かると私はまた体を反射的によじったが、今度は彼は止まらなかった。
ブヴヴーン…… という、低いモーター音の中で目を覚ました。
服が見あたらず、肌に掛けるものも無いため寒かった。長い間同じ姿勢でシーツに崩れていたせいか、体がうまく動かない。乱れた髪の合間から何度か瞬きをしたが、夜明けにはまだ時間があるようで、室内はものの輪郭がぼんやりと判るだけだった。
ブヴヴ……ヴン…………
壁の向こう側に開いた洗面所から音は聞こえてくる。イルーゾォが、シェーバーで髭を剃っているのだろう。
冷えたフローリングに足を下ろして、体を無理やり動かしそっと部屋を横断する。私は玄関へ通じるドアの前に立って、ドアノブに手を掛けた。
ノブは少しも回すことができなかった。
静止している。ノブだけでなく、世界の全てが。
よろめきながら、ブラインドの閉じられた窓に近づき、外界をなんとか覗き見た。住宅の連なったずっと下のストリートで、車が閃光を残しながら何台も通り過ぎていき、そのどれもが無人だった。私は窓から顔を離した。
片方の視野が少し狭い気がした。
右の頬に指先で触れると痛みがあり、熱をもっていた。腫れているのだろうか。
ふと下を見ると、文庫本の一冊とてないテーブルの上に、何か薄い紙切れが何枚も乗っている。私は顔を近づけて見た。その紙は、すべて新聞の切り抜きだった。どの見出しにも、「変死」、「失踪」などの文字が見える。それらはイルーゾォの仕事の遺物であり、彼の力を彼自身に約束し、知らしめる侘しい勲章であった。
私は壁伝いに洗面所の入り口まで行って、ドアは無いその奥を覗いた。中は蛍光灯が1本だけ寒々しくついていた。壁掛けの陶器シンクの前で、イルーゾォがまだベルトを通していないズボンだけを身につけてシェーバーを使っている。
イルーゾォはすぐ私に気づいた。
彼は鏡越しにいくらかぎょっとした表情をし、ジジッ、と、ほんの一瞬だけシェーバーの音が掠れた。ただ、またすぐイルーゾォは視線を口元にもどした。そして今度は少しだけ早く作業を再開したようだった。
無言で眺めているうちに、イルーゾォはシンクに上背を屈めて頬のシェービング・ローションを洗い流すと、後ろ手で取ったタオルを顔に押し当てながら隣に開いた浴室へと入っていった。2歩もない先にあるバスタブにイルーゾォがまた屈みこむ。死に絶えたような世界の中で、彼だけがこともなげに蛇口を捻った。
途端、部屋はプラスチックのバスタブを打つ湯の轟音で騒がしくなった。
イルーゾォはタオルをバスケットに落としたあと、今度は真っ直ぐに私を見て歩み寄ってきた。
「湯が溜まるまでな――」
イルーゾォは私の素肌の肩に手をやって、ベッドの方にうながした。
それに従って、また寝台のふちにイルーゾォと隣り合って座る。横目で見ると、イルーゾォは額に手をあて髪を何度もかき上げていた。かと思えば、思いついたように寝台の奥に腕を伸ばして、そこでこだわっていたらしい私の服を掴んで腕の中に手渡した。
「寒いだろう」
「うん」
掠れたひどい声になっていることに、この時はじめて気がついた。隣の闇の中でイルーゾォがたじろぐのがわかった。彼がうなだれたのかそれとも顔を覆ったのか、篭った声音で呟いた。
「俺が嫌になったか」
イルーゾォには見えないが、私はかぶりを振った。彼が続けた。「お前がアイツを名前で呼んだら、俺はお前を殺しちまう」
イルーゾォが私に向きなおった。もう自分と変わらず乱れた髪の中から、凝血のような眼がわずかな光で私を映していた。私が服を膝の上から床に落とすと、彼の怯えさえ蓄えた瞳は従順にそれを追った。
「キスしてくれる――」
たずねるとすぐ彼の手のひらが私の後ろ髪を抱いた。私は、とっくに溢れ出した湯船を気遣う素振りもないイルーゾォに満足を覚えながら、目をつむった。
ott.14 04:41
「もう極力、アジトには行くな」イルーゾォがベルトを通しながら言った。「お前のスタンドは、外に出ないでも十分動ける。リゾットには、俺から話をつけりゃあいいんだ」
頷いて見せる。ただ、ふた言目は彼自身に言っているようだった。
「休め……じゃあ、帰りは遅いぞ」
玄関へ歩き出したイルーゾォの後ろをついていくと、廊下の行きしなに彼は振り返って私のこめかみと唇にキスを落とした。嬉しくはにかむと、イルーゾォも満足げに笑う。ずっと、こんな顔ばかりを互いにしていたいのだ。
ott.17 18:59
なあ、本当に複製の体は本物と同じなのかな
君、複製とは寝てないのか もし寝ることがあったら詳しく聞きたい 3人でしたらもっとわかりやすいな
なぜだ 複製もそのままイルーゾォなんだぜ 現に複製も、君のことを恋人だと思っているからな
大丈夫か?さすがに、あの激情型の男2人も相手にするのは辛いかい?
まあその髪も、最近複製はよく結んでいるが――
君はこういう願望があったりするかい? 女に生まれたからには、誰かの妻になって、子供をもうけたいって言う願望がさ
なあ例えば、俺が今から君をレイプしたとして、君が妊娠したとして、君は身ごもったその子を愛せると思うかい
じゃあ何が要るのかな
固定電話のベルが鳴り我に返った。
見ると、リビングの中はもうだいぶ暗くなっている。イルーゾォはまだ帰らない。あれから、アジトに顔を出さない分彼の家に行くことが増えた。そこに掛かってきた電話ということは、仲間の誰かだろう。私はすぐに受話器をとった。
「……」無言でいると、気だるげな声が呼んだ。「チャオ。健康状態は、不良ではないかい」
「別段、悪くありません」
ふむ、と吐息をつく音が受話器の底から届いた。電話の主はメローネだった。
「イルーゾォは居ないんだろうね」
「はい」
「何かと君らのことは聞いてるよ。今日は君に用があった。まあ、なんてことはないのだが……」
メローネは続けて、先日私から受け取った資料について良い出来だったと評価し、礼の言葉を短く添えた。そして、もう受話器を置きかけたようだったが、すぐにまた耳に当てなおして言った。
「そうだ。ほんのオマケなんだが……イルーゾォがくらったスタンド能力のことだ」
「……はい」私は無意識に聞き耳立てた。
「他の連中と片手間に調べてみたら、イルーゾォと同じにそのスタンド攻撃を受けたってらしい人間が過去に2人いた。だが、どちらも今は行方がわからなくなっている」
「どうしてです」
「それは何とも言えない。ただ、周囲の人間は奴らのことを、消える直前まで普段となんら変わりなかったと話していたな」
私は急き込んでメローネにたずねた。
「攻撃を受けてから失踪まで、どのくらいの時間で……」固く握った受話器から、メローネがまた吐息をつく音と、受話器の背をコツコツと叩く音とが聞こえてくる。
「1人はわからないがもう1人は……復活祭の前の日だったと言っていた……それから5月の……だから――ああ、ちょうどひと月くらいか」
最後以外は独り言らしかった。私はすぐに今日の日にちと、イルーゾォが2人になった日にちを思い返した。
「もう、3週間以上経っています――」
受話器に絞り出すようにそう伝える。メローネは、幼児に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で私をなだめた。
「消えた2人はただの一般人だった。そして、この攻撃の本体はすでに死んでいる。ギャングの殺し屋で、スタンドも持っているイルーゾォが、今さらどうにかなるとは思えない。他の奴らも、リゾット含め同じ意見だ。イルーゾォ本人だってな」
本人という言葉に言われのない不安を覚えた。
そのうちにチャオと残し、電話は切られた。
ott.28 11:05
アジトからそう離れていない街角でイルーゾォを見つけた。
彼は向かいの歩道に接して建つ理髪店のショーウィンドウによりかかって立ちながら、目の前を通っていく人の顔を手持ち無沙汰に眺めていたが、人いきれの奥から私を見つけると、軽く手を振ってこちらにやってきた。
「ここらでお前に会わねえかと思っていたんだ」といって、イルーゾォは私の肩に腕をやった。「飯、付きあうか?」私は見上げながらうなずいた。
私はイルーゾォとふたりで行き馴染みのバルへ出かけていった。隣を歩いているイルーゾォは度々私を見下ろして、二言三言「何が食いたい」とか、「酒はどうする」とかを短く聞いた。彼はすべて私の希望通りにするらしかった。
悩みながらイルーゾォに言葉を返していると、気分が少し和らいだ。――ここ数週間ほどの間、頭の隅で鬱屈していたイルーゾォに関する悩みを忘れて、私は久しぶりに晴れやかな気がしていた。アジトの階段下に何者が居るのかさえ、その一瞬には忘れた。話しているうちに路地を曲がりまた曲がった。新しい筋に出るたびに道行く人は減り、やがて私たちの他には見えなくなった。
イルーゾォが不意に立ち止まり、振り返ると彼は暗い目をして私の顔を見た。
「俺の殴った顔が痛むんじゃないのか」
以前にイルーゾォに殴りつけられたことを思い出しながら私はかぶりを振った。実際に痛みや傷はもう消えていた。しかし、イルーゾォは納得できないようだった。
「お前は許すのか?」
震えた声でイルーゾォは私の頬をなで、暖めるように掌をあてた。見上げて私は驚いた。彼は眉根に皺を浮かべて、今にも涙を落としそうだったのだ。
「イルーゾォ」頬の掌を両手で取り体を寄せた。うまく言い表せないが、彼から気持ちが離れないことは自覚していた。
「なにも変わらないの、それだけ……」
言いながらイルーゾォの広い手を両手で包んだ。
――ふと、違和感を覚えて手の中を覗いた。彼の指は太く、頑健だったが、そこからくだって袖口の方を見ると、親指の付け根の膨らみから手首にかけて、右の掌の肉が切れ込みを入れたように深くえぐれていた。まだ皮が薄く張っているだけの傷口は筋肉が白く透けており、見る者もすくむ痛々しさだ。
私は背筋から冷水をそそがれたように愕然として、その手を取り落とした。この疵はナイフがえぐったものだ。そしてその光景は、まだ私の眼に焼きついていた。顔を上げると、イルーゾォからは表情が抜け落ちていた。
「どうして」声がうわずった。「知っているんです。殴ったこと……」
「俺のしたことだからな」もう半歩こちらに歩み寄りながら彼はいった。紫の髪紐で丁寧に結ばれた長い髪の奥で、複製の顔がまた苦しげに歪んだ。
私は動揺した。本物と複製の間で記憶の混同が起こっているようだ。が、どうしてそんなことが起こるのか見当もつかなかった。
周囲に目を泳がせたが、気づかないうちに鏡の中へ引きこまれていたようで、すでに逃げ道もなかった。立ちすくんだ私の肩にイルーゾォが手をかけ、目を合わせるように仕向けた。
「どうしてそう嫌がる」縋るような目が射た。「俺には……もうお前だけだ。他に比べられないほどお前がかわいい。なのに、なぜお前は俺の名前さえ呼んでくれないんだ」
イルーゾォが顔を寄せ、高い鼻先がこめかみに触れるほど近づいた。
「“俺”を愛していると言え」イルーゾォは呻きとともに吐き出した。
私はまごついた。「私は……」
「私が、愛しているのはイルーゾォです」うわずった声で訴えた。
「じゃあ俺は」イルーゾォの顔に陰がさす。私は彼を見つめながら、あわててかぶりを振った。「あなたもイルーゾォじゃないですか」
イルーゾォが息を止めた。彼は狼狽した顔になり一瞬黙りこんだが、すぐに私の顔を窺って見た。彼は、今度はいくらか落ちついた声で訊ねた。
「お前は、俺とアイツと、同じに好きなのか」
「そうです」疑いなく私はうなずいた。
「俺やアイツがどうであれ、平等に」
「はい」
「……そうなのか」イルーゾォは吐息とともに、そう呟いた。顔からは、先ほどまでのこわばりが消えていた。
肩に込められていた手の力が弱まる。
見上げると、イルーゾォは拍子抜けした声色で弱々しく笑い、どこか投げやりに吐息をついた。
「お前の愛は平等なんだな」
「そうです」
「そうか、そうか」
私はもう一度彼の手を取ろうとした。けれどもイルーゾォの顔を見上げて見て手を止めた。まつ毛の影濃いイルーゾォの眼に、狂人だけに見る光があらわれていた。
離れようとした私の体をイルーゾォが強く抱きしめた。
「お前を、アイツと等分しなくちゃあならないなら……」
抱擁で呼吸が苦しい。
彼の喉元に押さえつけられた頭をなんとか動かして、私は頬をイルーゾォの服に擦りながら横を向き大きく息をついた。しかし引く息が続かなかった。
「俺は心臓のある方をもらう」
彼の手に、いつの間にか刃の薄いナイフが握られていた。
急速に襲ってきた寒気に足がすくみ、私はその刃に目を釘付けたまま少しも動けなくなってしまった。見る先で、ナイフが刃を光らせながらゆっくりと下に動いていく。と、あるところでフッと見えなくなった。
イルーゾォのナイフが持った腕ごと溶けたように消え、その一瞬目がおかしくなったかと思った。しかしすぐにマン・イン・ザ・ミラーのスタンド攻撃だということに気づき、私は腰を砕いた。石畳に尻もちついて見上げる前で、複製のイルーゾォはもがきながら世界からはじき出されていった。そして彼が完全に消えた直後、真横に建つ民家の窓ガラスが恐ろしい勢いでひとりでに割れ、血の付着したガラス片が私の足元に降った。
窓枠に残ったガラスに、揉み合う人の影が目まぐるしくちらついている。
本物になり変わろうという強い目的意思だ。複製はだんだん“本物じみてくる”。それが本物の同族嫌悪をさらに掻き立てることになって……
イルーゾォが世話をしたのか、[FN:名前]はさっぱりと感じていたが、肉体的な不快感は募るばかりだった。(背筋が痛い)
目に涙が湧くのを感じた。
それからの間、[FN:名前]は目を開けることはなかった。
[FN:名前]は体を起こしたが、背筋に不快な(気味の悪い)痛みを感じて(走って)
そのことに沈んでいる気分にもなれなかった。
[FN:名前]の足は這うより遅かった。こころなしか、右の視野が狭い気がする。腫れているのだろうか。
壁に手をついて、そろりそろりと辿っていった。
無人の車が。
「湯が溜まるまでな――」
ブヴヴーンという音の中で目を覚ました。洗面所から聞こえる。彼が、シェーバーで髭を手入れしているのだろう。
重い挑みかかるような声が呼んだ。
肩を押さえた。
腕を襟の中へ潜り込ませ、[FN:名前]の膨らみを無遠慮に握る。
「[FN:名前]」
イルーゾォの鏡のスタンドはチームでも重宝されてきた。
同じ能力があるのだから。と、メンバーたちは彼が増えたのをいいことに、スペアの方をも任務に同行させるようになっていた。
そのことが、オリジナルのイルーゾォの機嫌をさらに悪くしているようだった。
彼の目は
殺してしまうことでオリジナルの方に何か悪影響が起こるかもしれない。敵スタンド能力の全貌を知る術はもはや無かった。
イルーゾォの、スペアに対する嫌悪感は日が経つにつれて増していくようだった。
打たれた犬のようになって長い間シーツに崩れていた。
彼は鏡越しにいくらかぎょっとした表情をした。
彼は蛇口を捻ったあと踵を返して私の眼前に立った
プラスチックのバスタブを打つ湯の轟音がうるさい。
気味の悪い顔だな。これ以上酷い面で死ぬのはごめんだ。
鏡に映った自分の姿を眺めたあと、ドアを出た
もう星が見える時刻になっている。
肉を打つ身震いするような暴力的な音が鳴る
口内に血の味が充満する
お前はアレの肩を持つのか?私はイルーゾォさんを愛しています。アレは俺だって?
ためしに手をつけてみたら、思いのほか味が良かったから。俺なりにかわいがってきたし、金ができた時は物をやったりもした。
彼はずっと甘い優越感を舐めてきた
そんなに彼が憎いですか
あいつは俺を憎んでいる。たこの分際で……だからお前に寄ってくるんだ。お前をものにして見せて、俺に舌出していやがるんだ。
彼の体は叩き割られた鏡のようにもう使い物にならない。
その不満を落とし込む先に自分があると感じるようになった。
俺はお前の男じゃないのか
俺をコケにするのもいい加減にしろ
奴のスタンド攻撃を受けたってらしい人間が2人いたが、どっちもちょうどひと月くらいで死んでいる。殺されて。そして、犯人はまだ見つかっていないそうだ。
傷を押さえた手の下から血液が流れる。
指の先で触れると痛みがあり、熱を持っている。
憎さが募って抑えようがない。
怒りの震えが、押さえつけられた肩から骨にまで響いた。
彼の胸の内が濁ってゆくのがありありとわかった
「どうしたい」答え次第で、彼の心はすぐに濁ってしまうだろう。「もう少し、眠りたい」
私を横たえて、自分も同じ枕に頭をつけた
部屋はまだ暗く、床とカーテンの境がわからない
身震いするほどの沈黙があった
ケットを掴みあげて[FN:名前]に掛けた。
男の前で裸体を出すことに慣れているわけでは決してないが、それでもイルーゾォのことは特別と見ていた。
シーツは灰色になっていた。
「飲みなおしてくる。お前はもう寝ていろ」「はい」ドアを出ていく背中に返事をしたあと、疲れで目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
恐慌に駆られた両手が首にかかる。もう殺されてしまう、と感じた
ベッドの奥へ押しやっていた[FN:名前]の服を手繰り寄せて素肌の肩に引っ掛けてやったあと
虚しい切抜きの山。そのどの見出しにも、「変死」、「失踪」などの文字が見えた。それらは彼の仕事の遺物であり、彼の力を彼自身に約束し、知らしめる侘しい勲章であった。
「“従え”!」
の膝頭が男のみぞおちをモロに捉え
顔一面に毒々しい笑いが広がった
苛立ちにまみれた顔を隠そうともせず
惚れぼれとした眼つきで眺めた。裸の体を愛しているのはお互いのことだ。
酒店までの道すがら
「お前は俺の女だ。忘れるな」「お前の男は俺だろう、忘れたのか」
自分がはげしく空気を吸う音と両肩を押さえつけている万力のような手の感触だけ
人間の体にはテロメアって構造がある。細胞分裂の回数券みたいなものだ……これが尽きると、細胞はそれ以上増えることができない。簡単に診てみたが、複製にはもともと、そのテロメアが丁度1ヶ月分しか無かったようだ。
ぞんざいな黒いシャツを
彼に傷つけられても、彼が癒してくれる。
名前を言ってくれよ
後半「複製」から「イルーゾォ」に書き換え
彼のグリーンの髪よりさらに奥からは、見えはしないが同じようにこちらを静観しているらしいリゾットの気配も感じられた。
イルーゾォの住家はアジトからひと街またいだ裏通りの、古いアパルトマンである。住人たちはイルーゾォと同じようにあまり帰らない者ばかりなのか、私たちが門の前に立ったとき生活音らしい音はまったく聞こえてこなかった。2人でくすんだセメントの階段をのぼり、通路を行ったいくつめかのドアに
イルーゾォは無言で、髪を結んでいる紐に指をかけ外していった。
もう慣れたはずの衣擦れの音がどうにも息苦しい。
重い挑みかかるような声が呼んだ。
[FN:名前]の肩を押さえて引き寄せた。
[FN:名前]はこの場から逃れたいと感じたが、
肩に置いた腕を襟の中へ潜り込ませ、[FN:名前]の膨らみを無遠慮に握る。
そうしながらイルーゾォが何かを言いたげであることを[FN:名前]は察していて、じっと待っていた。
「俺が嫌になったか」
イルーゾォの声は[FN:名前]の思っていたよりも深刻だった。
彼の目つきは明らかに[FN:名前]の返事を急かしていた。苛立ちさえ足の揺れからわかった。彼は元々忍耐強い方ではない。自分を悩ます問題は、一刻も早く排除したいのだ。
[FN:名前]は、殴りつけられ強要されたことを許すのは気が進まないと感じていた。
けれどもそれ以上に[FN:名前]は傍らのイルーゾォが哀れに思えて仕方がなかった。
お前がアイツを名前で呼んだら、俺はお前を殺しちまう
言っただろう。殺しちまう、って――そんなに奴と心中したいなら、そうさせてやる……見ていろ
私は元のとおり切り抜きをテーブルへ戻した。
イルーゾォが出ていってしまったあと、リビングのソファに腰をかけて目を閉じた。瞼を閉じても、同じリビングの光景が眼前に見えた。そのまま、視界だけを持った私の意思はリビングを出て扉を抜け、徐々に街の方へ移っていった。今日も次の暗殺の対象の元へ行き、尾行をして探り……
「はい。ですけどイルーゾォは今――」不在を伝えようとすると、メローネが制した。「いいや、君に用がある。まあ、なんてことはないのだが」
「イルーゾォじゃなく、君かい?」電話の主はメローネだった。
彼は往来の向こうから私を見つけると、軽く手を振ってこちらにやってきた。
「明け方仕事が終わってな」
どこか店に入らないかと彼は言った。頷くと、彼は私の肩に腕をかけて、こっちだと促した。並んで路地を歩き出す。仕事終わりのようだが、イルーゾォに疲れた素振りはなかった。
周りを見ると、大通りから離れたせいか人はいなくなっていた。
尊大に両腕を広げてソファの背にもたれ
「俺は殴っていない」彼が半歩前に出た。「殴るものか。ほかでもないお前を」
加えて複製の彼は、記憶の持ち主が自分なのか、あるいは本物の彼なのか曖昧な様子だった。
「お前を、アイツと等分しなくちゃあならないんなら……」「俺は心臓のある方をもらう」
ニケ像のように砕けた(マン・イン・ザ・ミラーのスタンド攻撃)
(見た者の)網膜に(刻み)彫り込まれるほど、激しい怒りの表情
イルーゾォの頭が肩口に落ち、その重みで後ずさりかけた体を両腕で抱きとめられた。