月と星
イルーゾォを窺う目が、薄馬鹿でも見るように丸くなった。「輪姦そうぜ」
男は軽薄にそう言った。
「あれ、かわいいよな。かわいくって頭が弱そうだ」
数人が同意するように目配し合う。買う女を選ぶときのような、胸の悪い沈黙が流れた。イルーゾォは、すでに腹の中が裏返りそうになっていた。
そんなイルーゾォの様子を悟らず、男は釣りこもうと誘いかける。
「お前に言わねーで悪かったよ。でも、いいだろ」
「乗らねえ」イルーゾォは無感情に言い捨てた。だが、男達はそれを冗談だと思ったらしかった。
「なんだ、なんでだよ」機嫌をとるような笑い声。「お前のスケでもねえのに」
男の一人が辺りを見回しながら、イルーゾォの横を通り抜けた。
「どこいった?」
イルーゾォは振り向きざま、その男の後ろ首を渾身の力で殴りつけた。
「野郎」
息を呑む一瞬のあと、強い殴打と蹴りが四方からイルーゾォの体に飛んだ。だが彼も止まれなかった。
腹や腰を無茶苦茶に殴りつけてくる手足をイルーゾォはやみくもに捕まえて捻りあげ、相手が倒れたそばからのしかかり殴った。引き剥がそうと髪を掴みあげてくる腕や、鳩尾を深く蹴りあげる足に何度も体が持ち上がりかけたが、イルーゾォはただ一心のためにそれらを受けても引き下がる気はなかった。
全員が持っていたライトが部屋の四方へ飛び、あちこちを無闇に照らす中イルーゾォは叫んだ。
「逃げろ」
血混じりの胃液が口の端からこぼれた。
間を置かずに飛んできた拳にこめかみを殴られ、イルーゾォの耳は遠くなった。だが、半壊した壁を隔てた向こう側の闇から、塵を蹴った音がかすかにしたのをイルーゾォは聞いた。
男達もそれに気づき、2人が音のあとを追おうとイルーゾォを離れた。
その襟首にイルーゾォは飛びつき、後ろ頭に腕をやってのしかかると、思い切り床に引き倒した。ゴツっ、という身震いする音が響き、男は失神したようだった。だがそれによって、他の仲間達の怒りはなおさら煮え立ち、もはや収拾がつかない。
もう一人を捕らえようとした腕を羽交い締めにされ、イルーゾォはいよいよ床に組み伏せられた。
**
明らかな闘争の音が聞こえ、様子を見に戻ろうとしたナマエの耳に、逃げろと叫び声が届いた。
ナマエはその場から踵を返した。イルーゾォらの内で何が起こったのか把握できなかったが、その言葉が自分に対するものであることだけわかった。
ナマエは壁の崩れ目から外に飛び出した。
廃墟にヘッドライトを向けた車の横を脇目も振らず走り抜け、ナマエは暗闇の山道へ駆け入った。下り坂を疾走することで、両足首の骨が砕けそうに傷んだ。インクに浸るような真の闇の中を、いくつともわからない足音が轟くほど大きく響いた。
走る間にナマエは靴をどこかへ飛ばしてしまった。小石が足に深くくい込み、痛みでナマエは呻きかけたが唇を噛みしばってこらえた。道脇に積もった落ち葉の感触だけを頼りに道路を曲がりひたすら走り続ける。心臓は早鐘のように音を立て、呼吸もままならなくなってきたが、倒れるわけにはいかなかった。
と、ダンダンとこめかみの中をやかましく打つ音が、自分の足音だか心臓の拍動だかわからない最中に、突然ナマエの腹に重い衝撃がくい込んだ。
殴られた――
足が浮き、ナマエは暗闇の中に投げ出された。両手が宙を掻き、どこにも触れない。息を呑む間もなく、ナマエは一瞬の浮遊感のあと、くぐもった音を立てて草いきれの中へ落下した。ナマエはガードレールに腹で乗り上げ、その向こうに落ちたのだ。
**
草の中で、落ちたときの体勢のまま息を潜めているナマエの頭上を、2、3つの足音が通り過ぎていった。
やがて廃墟の方から降りてきた自動車がそれを追いかけて走り去っていくと、ナマエの周囲は完全に静まり返った。
何分が経ったのかナマエは感覚がなかったが、真夜中と思われる頃、ようやく体を起こして傾斜を這い上がり、山道へ戻った。
さっきの車にイルーゾォは乗っていたのだろうか
ナマエは再び廃墟を目指して山道を走った。
**
何も見えないのは、夜だからか、もしくは目が潰れたからか。
イルーゾォは廃墟の天井があると思われる宙を、見るともなく眺め続けた。
廃墟に帰りつき、争いがあった部屋に入ったナマエは、入口の向かい側で、崩れた壁の残骸が積もった上に倒れているイルーゾォを見て息を止めた。ひと目見て酷い怪我とわかる打撲の痕に加えて、腫れた顔の半分は、髪の合間から流れ出す血にまみれていた。
「イルーゾォ」
駆け寄って、ナマエはイルーゾォの垂れた首に両腕を回して支えた。
激しい動悸で、ナマエはイルーゾォの体温さえ一瞬判断できなかったが、どうやら胸は上下しているようだった。
「イルーゾォ――」
ナマエが呼ぶと、イルーゾォが薄目を開けた。
眉間から流れた血が黒く凝固して、イルーゾォの瞼を半ば癒着していた。
「イ――」
と、不意にイルーゾォが目を見開いて上体を起こし、伸ばした手のひらでナマエの両肩を鷲掴んだ。骨まで食い入るような力にナマエの体が揺れた。
ナマエは息を呑んでイルーゾォの剣幕を見つめ返した。イルーゾォは目の中にも血が入り、それが赤い瞳と相まってなおのこと凄まじく映った。
1分は経ったように思えた。
ふっと表情が緩んだと思うと、イルーゾォは脱力し、再び瓦解の山へ倒れ込みかけた。ナマエは慌ててそれを支えた。
「早く、帰ろう……イルーゾォ」
ナマエはその一言しか言えなかった。
イルーゾォは、聞こえているのかいないのか、目を閉じていたが、やがて眉間に皺を寄せ、体の脇に腕をついた。
大儀そうに立ち上がるイルーゾォの体から、骨の軋む音が響く気がした。
どうして?
イルーゾォに尋ねても、答えの返ってこないことはわかりきっていた。
ナマエは自分の肩にイルーゾォの片腕をかけさせた。
部屋の隅に放り出されたライトのひとつを拾い上げる。と、そのとき初めて、ナマエは部屋の中にもう一人倒れている者がいたことに気づいた。男は最初部屋の壁に背中を預けていたようだったが、今は横ざまに倒れていた。その顔面は、1個の赤いゴム風船にしか見えなかった。
2人はよろめきながら廃墟を後にした。
**
真夜中の山道を、どこをどれほど歩いたのかまるでわからないうちに、なんとか街路灯の立つハイウェイに出た2人は、森を歩くのにも増して惨めな努力をしなければならなかった。
森の出口で、あの車が待ち構えているのを想像し、ナマエは身震いした。
イルーゾォもそれは同じらしかった。ただ彼は外面に出さず、腫れた瞼の間からつぶさに夜陰を睨みながら、支える側のナマエを頻繁に引っ張り、時おり狭い脇道へそれた。
イルーゾォの住む家がある地区の入口にたどり着き、そこから裏路地をいくつも縫って苦心しながら帰りついたとき、すでに空は白んできていた。
ドアを締め切って、ナマエから体を離すと、イルーゾォはそのまま上がり口に腰を下ろしてしまった。ふー、という長い吐息は、安堵とも落胆ともとれない。
大丈夫?
その言葉は無益としか思えなかった。ナマエは黙って廊下を上がり、脱衣所に入ると、湯を出してタオルを濡らした。
玄関に戻って、それをイルーゾォの首元に近づける。
「血を落として――」
奥で横になって、と呟きながら、ナマエは項垂れたイルーゾォの長い黒髪の中に手を差し込んだ。タオルで頬から目の下まで撫で上げる。ふと指がこめかみに触ったとき、ナマエはイルーゾォの肌が烈しい熱を帯びていることに気がついた。
その熱さに反してナマエは青ざめた。