檻の中の宿り木

 熟柿色の夕闇が部屋をひたしていた。

 「プッチさん」

 日の入りが、本当に早くなりましたね。と問いかけながら、女は持っていたアルマイトの盆を、ベッドに腰をおろしている男の脇のテーブルへ置いた。

 「プッチさん」また笑いかける。けれども返答はない。「神父様」

 そう女が呼びかけると、プッチはゆっくりと、伏せていた顔をあおむかせた。
 顔面の左側全体に、光沢のある歪んだひっつり――切り分けた粘土を、ふたたび合わせて均(なら)さなかったような縦横の溝――のある、一種人外的な顔がまともに女の目に入る。女は、別段の反応をしなかった。

 「この頃、よくお休みになれないのですか」

 盆から四角い紙の包みを取り上げながら、女はプッチの目をうかがった。青ずんだ下瞼の色が、プッチの浅黒い皮膚の中でもとりわけ浮いて見えた。
 そうして彼の眼球と、その奥の意識との間には、どうやら今霧が満ちていた。

 「これを飲むと、深く眠ることができます。いかがです、神父様」

 盆の上で水差しの水をグラスに注ぎながら女は訊ねた。目の端をかすめた羽虫を追うように、プッチの目がごく僅かに女を見た。

 「お口を…………失礼いたします」

 薄く開けられたプッチの唇の合間に、女は薬包紙をあてがい傾げた。
 ついで水のグラスを差し出すと、プッチは老いた犬よりも大人しく、目を閉じてその水を飲んだ。

 「ああ、ありがとう」

 質素な麻の病院着の襟から覗くのど仏を、ごくと動かして、一拍のあとプッチは礼を述べた。水のためか、彼の内面にある霧がつかの間薄れたようだった。

 女はその声を聞いた途端に、いつもながら、全身の神経や筋肉が力を失うような思いがした。それが、プッチの唱えるような声色のせいか、神父だったという彼の前身を思い起こしてのことか、理由はどちらとも女にはわからない。

 「これから日に増し、夜が長くなりますね」

 女が言うと、プッチは部屋にひとつある窓を見あげ、うなずくように緩慢なまばたきをした。刺繍入りのカーテンが、この病室だけは下がっている。カトリックに献身している院長が、プッチを受けいれるとき女に言付けて着けさせたものだ。
 その向こうが格子入り窓であることは、他と変わりない。

 「お寒くはありませんか」女は毛足の長い毛布をすすめようとしたが、プッチは手を軽くさしあげてそれを断った。「いいえ……結構。十分ですよ」

 女はうなずいて、部屋を去ろうとした。が、ふと留まりプッチに向き直った。

 「庭が暖かなのは、もう今週限りと院長が申しておりました。よければ、明日は少し散歩へ参りませんか」

 プッチは何も答えなかった。また霧の中に帰ってしまったらしく、体全体は、すでに繭のように無機質なものに見えた。

 「おやすみなさい」

 女は一礼をして、踵を返した。


***


 翌日の昼餐会のあと、女が患者の屋舎へ続いている長い廊下を歩いていると、向かう先に、何かを言い交わしている人影が見えた。それはプッチと、彼を日頃懇意にしている老齢の男であり、老人の方は、心神耗弱でここへ入所したのであったと、女は思い返していた。

 女はプッチの唇が遠目にも澱みなく動いているのを見た。プッチの声と老人の声のどちらも女の耳には届かなかったが、彼が今説教をし、そのセロのような深い響きの声に老人が聴き入っていることがよくわかった。たとえ、神父という肩書きが有り体に言えば今やあだ名でしかなく、また着ているものが薄いネルのシャツに、共用のスリッパだとしても、彼の宗教者然とした敬虔な表情と、そのうえに、その類の患者特有の白痴美的な質感を加えた今の風貌は、隔絶された医院の、霧に包まれた人々の中で、彼を神父という立場に留まらせるには十分なのだった。

 2人はもう長い間話しているようだったが、やがて老人が十字を切って彼の前を離れると、1本の廊下に女とプッチだけが残された。

 ほどなく、プッチは女をみとめると、右手の窓を横目にうかがい、彼女の前まで歩み寄っていった。

 「ごきげんよう」と、プッチは言った。「私も、散歩によろしいですかな」

 プッチが昨夕の話題を口にしたことに女は少なからず驚いたが、それを外面には出さないで、うなずきを返した。

 「もちろんです。参りましょう」

 うらうらと陽光がさしている庭へ、女とプッチは連れ立って出た。