自分の目を疑った。

今すぐ逃げ出したかった。

だけど、逃げ込むべき我が家の前に、いるのだ。

彼―池田三郎次―は。



「よぉ、久しぶり」



彼は、いつもの調子、とは言えないが、それなりに、"何食わぬ顔"をしている。

対する私はと言えば、きっと、恐ろしいものを見るような顔をしているに違いない。
もしかしたら、青ざめているかもしれない。



「…そんな顔すんなよ。ちょっと、話せるか?」



話せるか、
その問いへの答えは、NOだ。

なのに、私の体は、YESを示す。

自分自身の体と心さえ、御しきれないだなんて。

大学入学と同時に暮らし始めた部屋は、彼にとっても、馴染みのある場所になってしまったのだろう。

そう簡単には、忘れてくれなかったらしい。





上げない訳にはいかない、けど、そんなに綺麗な部屋でもないし、掃除機も先週頭にかけたっきりで、次の休みにしようと思ってたから、洗濯物だってたまってるし、冷蔵庫の中にあるのは、卵と豆腐と常備菜くらいで、気のきいた物なんて出せないし、紅茶ならあるから、ひとまず出しておいて、でもお茶請けが何もない、どうしよう、何も準備してないのに、だって急すぎて、だって、



「…あのさ、」



ビクッと、私の肩が揺れたのを見て、ため息を吐く。
これも、何度目だろう。
また、不快にしてしまった。
どうしよう、これ以上嫌われたら…、

そこまで考えて、やめた。

だって、もう、とっくに、



「俺が急に来たんだし、もてなさなくて良いから。お前と話せればそれで良い」



…いつも、こんな風に、先回り。

またひとつ、ごめんなさいが、たまる。



「ここ、座って良いよな?お前も座れよ」



促されるままに、ローテーブルの前に腰を下ろす。

あの頃の、定位置。

まだ、覚えてくれてるんだ…



「…俺さ、気づいたことがあるんだ」



ぽつりと話し出す、その声に、また、焦がれてしまう。

…何を、期待してるんだろう。

それはもうやめようって、決めたのに。

随分前に…、決めたのに。



「お前、さ、前は、もっと、普通だったよな」



…"普通"、

それが、どんな状態なのかも、分からなくなってしまった。

それこそ、随分と前から。



「…変わったのは、俺が原因なんだろ」



…違う、

はっきりとは、言えなかった。

きっかけ、と言えばそう、だけど、

…やっぱり違う。

原因では、ない。



「…それは、私の問題、だから、…違う」



蚊の鳴くような声で、ぼそぼそと、しか、言葉が紡げない。

こんな、ほんの少しのことで、また、体が強ばる。

情けなくて、申し訳なくて、でも、ここで泣く訳にはいかなくて。



「…なぁ、」



…呼び掛けに、体が反応する。

やわらかくて、あたたかい、少し懐かしい、声。

お願い、やめて、その声で、…呼ばないで。



「俺のこと、好き?」



はっと、息が止まって、心臓まで止まって、そのまま、死んでしまうんじゃないか、

そんなことを、ぼんやりと思った。



「なぁ、なまえ、」



…そんなの、聞かなくたって、知ってるくせに。
私のことは、何でも分かってるんでしょう?

いつも、そう。

…ここで、首を縦に振ってしまったら。
YESを、口にしてしまったら。

また、あの時と同じになる気がして。
また、後悔する気がして。

手遅れだって知ってても、もう、これ以上、

…嫌われたく、ない。

だから、口を閉ざす。
俯いたまま、動かない。

次は、次こそは、間違えない。



「…、お前はホント、そればっかだよな」



零れた、と言うよりは、投げ捨てたようなため息は、憤怒の色を帯びていた気がした。

あぁ、また、やってしまったんだろう。

離れても尚、私は、この人に、害を与えてばっかりだ。



「でも、今日はそれじゃ許さねぇから」



静かに言い放った彼が、目の前に座り直す。

それを、ぼーっと、呆然と、眺めている私は、なんて間抜けなんだろうか。

脳が、仕事を放棄しているような。



「なぁ、もっかい訊く。俺のこと、好きだよな?」



もっかい、と言う割りに、随分と内容が変わっていることに、少し驚く。

たった三文字で、がらりと意味が変わるのだから、日本語は奥が深い。

…などと誤魔化そうとしても、目の前の瞳は、それを許してはくれないようで。



「…お前さぁ、答えなんか聞かなくても知ってるけど、わざわざ訊いてる意味、分かってるか?分かってないだろ。俺は、お前の口から、ちゃんと聞きてぇの。付き合ってた時だって、お前、一度も言わなかったろ。アレ、結構傷ついたんだからな」



目の前ですらすらと、流れるように吐き出される言葉を、ただひたすら、目で追っているような。

音と言葉を繋ぐ回路の、感度があまりに悪くて。



「俺は、お前が好きだ。それは、変わってない。でも、途中で、分かんなくなった。お前が何考えてるか、分かんなくなった。俺のこと、好きじゃないかもしれない、思い上がりかもしんねぇ、って思ったら、なんか、空しくなって…。離れてみて、ゆっくり思い返して、やっと分かった」



夢の中。

きっと、そうなんだと、思うことにした。

…じゃなきゃ、有り得ない。

有り得てはいけない。

だって、あまりに…、私に都合が良すぎるから。



「お前じゃなきゃ駄目な訳じゃない。でも、俺は、お前じゃないと嫌だ」



はっきりと、真っ直ぐに、私の瞳をめがけて言うものだから。

効果が、ぐんと跳ね上がる。



「お前の好きな俺のことなんだから、信じろよ」



"信じろ"

彼の性格なら、言いそうな台詞なのに。
私には、言わなかったから。

何だか、新鮮に感じてしまう。

信じて、ない訳じゃない。

あなたのことは。

私が信じられないのは、私自身、だから。



「何がそんなに怖いの?俺に嫌われる以上に怖いことが他にあんのか?いい加減、認めろよ。お前だって、俺じゃなきゃ嫌なんだろ?…なぁ、頼むから、…逃げんなよ」



胸を抉られるような痛みが生じたのは、きっと、その台詞たちだけじゃなくて。

それより、何よりも、

あなたが、今にも泣き出しそうな顔を、しているから。



「ごめ…、なさい…、泣かないで…」



私が泣いたって仕方ない。
なのに、私の涙腺は、言うことを聞かない。

思わず掻き抱いた頭を、そっと離す。

何を、してるんだろう。

こんなことして、また、嫌われたら…、



「…離すなよ。お前、ホント、そんなんばっか。俺、怒ってんだからな」



どきりと、また、胸の内を突かれる。

時折鼻をすすりながら、私を見る目は、吸い込まれそうなくらい、深くて、強い。



「お前の我慢は、苦しみや悲しみしか生み出さない。そんなものの為に我慢するなんて、馬鹿げてる。我慢は、喜びとか楽しさを得る為にするんだ。俺は、お前と、そういう未来を描きたかったから、我慢してきた。…全部、受け止めてやるから。全部見せろ。じゃなきゃ許さない」



突きつけられたものが、口調の割りに、あまりに優しくて。

この人が、私に、何をしようとしているのかが、少し、分かったような気がして。

"まさか"、と、"そういえばいつもそうだった"、とが、交錯する。



「もう、今更、何見せられたって、どうとも思わねぇよ。とっくに見てきた。何年追いかけたと思ってんだ」



そんなことを言って、そんな、とんでもないことを言っておきながら、やわらかく笑うものだから。

さっきから流れっぱなしの涙が、止むはずもなく。


またひとつ、彼を好きだと思った。






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H26.7.12
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