(耳へのキスは)
ばたりと勢いよくドアが開け放たれる。乱雑にそのドアを開けたのは、その部屋の主のエシューだった。
普段の彼女からして、珍しい行動に部屋の中にいたチコは少しばかりゆっくりと瞬いた。
「…どうかしたのか、エシュー」
鬱陶しそうに髪を解いて後ろへばさりと流しているエシューにチコが声をかけると、今チコの存在に気づいたかのようにエシューが視線をよこす。
その表情は、いつもの笑みではなく不愉快そうにわずかに眉間に皺が刻まれていた。
「あらぁ…チコ、いたの」
「…君が約束したんだろう」
「そうね、そう〜…あまりにも不愉快なことが起こってて忘れてたわぁ…いらっしゃい」
梨食べるかしらぁ?といいながらエシューは籠の中に入っていた梨を手に取る。
「不愉快な…?」
まるで続きを促すかのように呟けば、エシューはフー…とこれまた珍しく深いため息をついた。
「ちょっとねぇ…クズに絡まれてて」
フ…と一瞬死んだ彼女の目を見て、この国で彼女がそんな評価を与えるとすれば、彼女を、"雨の公国の民"を軽視する貴族の話だろうと、チコは何と無く察しがついた。
「久々に絡まれたのよぉ…ほら、知ってる?今メイドたちの間でも話題の態度の悪い伯爵息子」
知らない、とチコが答えるとそうよねぇ…といつの間にか剥き終えた梨を皿に盛りエシューは差し出してくる。
「なんて言われたと思う?"君が望むなら僕の愛人にしてやってもいい!"ですって。嫌になるわぁ……」
嫌そうな顔をして、その人物の再現だろうか。顔を歪めながら言われたであろう台詞を言った後、エシューは再びため息をついた。
「それによりにもよってよ!何したと思う!?彼ねぇ、首を噛んできたのよぉ!?信じられないと思わない!?!?」
声を少し荒げながら、エシューはおろした髪で隠していたところをチコに見せた。
そこには赤い跡と、軽く歯型が残っている。
「…何故噛まれた」
理解不能といった様子でチコが聞くと、知らないわよぉとエシューは不満そうに返す。
「キスの日だかなんだか知らないけど、あれは、自分は言えば全ての者が自分のものになるとでも思ってるのかしらぁ??」
先ほどとは一変して、ニコニコと笑うエシューの背後にはなにやらドス黒いものが見える気がする。
「まだあるのよぉ」
「まだあるのか…」
「トドメよトドメ。"願うなら、足の甲に口づけを"ですって。なに?何様のつもりなのかしら。私はもう奴隷でもなんでもないのよッ意味くらいメイドから聞いたのよ…!!従うとしてもアルバ様のみよ……ッッ口づけはしないけどぉ!」
相当不快だったのだろう。ワナワナと震えるエシューの手、見開かれた目に、笑っているようで笑っていない口元。こんなエシューは初めてだな、とチコは思った。
「アルバ様が途中割り込んでくれたから、それ以上は特になにもなかったし、私も手が滑る必要がなかったんだけど〜…」
「……なんにせよ、気をつけろ。エシュー」
「私が気をつけてもねぇ〜?回避は難しくないかしら???」
王宮出禁になればいいのに…とボソリとエシューが呟いたのは、チコの耳にも届いた。
「そういうわけでぇ」
「…どういうわけだ」
「は〜い」
少し疲れた笑顔でエシューは両手をチコに向かって広げた。
そうしてお互い、しばらくそのままで見つめ合う。
「………」
「………」
「…もぉ!もぉ〜〜!女心のわからないチコね〜〜!」
「君は今日は情緒不安定だな」
「私だってそういう日があるのぉ…チコの前でくらい、笑顔で隠さなくったっていいでしょぉ…」
怒ったかと思えば、少ししょんもりしながらエシューは両手を開いたまま、座るチコの前に近づきチコの肩にすり寄った。
「チコ…」
「なんだ」
「死ぬほど気持ち悪かったわぁ……」
「……」
チコの肩口に顔を埋めるエシューに、なんと言葉をかけたものか。と逡巡した後、結局少し間を開けエシューの頭をポンポンとし撫でた。するとさらに強めに肩口に顔が押し付けられ、チコの服を握る手はぎゅっと強まった。
少しするとんふふ〜…と小さく聴こえたので、どうやらご満悦のようであった。
「チコ、」
名前を呼ばれ、撫でる手を止めれば耳元あたりで軽いリップ音が聞こえる。
「私、この身に何かの痕を残されるなら、貴方だけでいいわぁ……」
貴方がいいの。
呟き、エシューは抱きしめる形でチコの首に腕を回すと、再び彼の肩口に顔を落とした。
耳へのキスは
(誘惑)
(貴方がこの意味を知るはずがないけれど)
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