幸福というものが存在するらしい。幸せな状態を指すものではなく、幸福という名前を持ち存在しているのだという。その生命体はすべてを幸福で満たしてやるという使命感を持って各地に赴き、相手が望む幸福を振り撒き、満たされた者はそれ以上を求めることが無くなった結果進化をやめゆるやかに退廃していくのだという。実際この幸福に魅入られだめになってしまった世界があるらしい。
近所の子供達が神妙な面持ちで話してくれたお伽話は斬新だったので、露伴に話してやろう、なんて気分になった。私の恋人、売れっ子漫画家の岸辺露伴は、常に漫画のネタに飢えている。その所為で自らのスタンドーヘブンズ・ドアを使い他人の人生を盗み見るなどという凶行に走るのだ。私はそれを止めるため、こうしたネタになりそうな話を仕入れると逐一話に行くのだ。わざわざ赴かなくてもメールで済むことではあるが、私が彼に会いたいから。彼は(恋人同士であるにも関わらず)鬱陶しそうにするけれど、黙って私の話に耳を傾けてくれるからとっても好きだ。例え傍若無人で自己中心的で私のことを大切にしてくれなくっても、私は露伴が好きなのだ。勿論、もっと恋人らしくしたい、なんて欲望はあるけれど。

「露伴、きたよお!」

私が露伴の家に入る時には、チャイムは鳴らさない。以前、あまりにも出てこないからふざけ半分でしつこく連打してしまったのを彼は心底根に持っている。君は今後一切チャイムを鳴らすんじゃあないッ!と、その時から、私は黙って玄関に入りそこから声を掛けることを義務付けられた。
数分待って、ようやく露伴が現れた。露伴は相変わらず愛想が無い顔で私に中へ入るよう促した。リビングにはもう飲み物とお菓子が用意してあった。私の大好きなアイスココアと、それから、豆大福。まただ。私は思い切り顔をしかめる。私が好きなのはいちご大福だって何度言っても露伴は覚えない。覚える気なんて更々なくて、寧ろわざとやっているんじゃあないかと思うくらい。

「露伴、いちご大福じゃない」
「何?…準備してやってるだけありがたく思うんだね」

露伴は決して謝らない。ごめんなさい、って言葉は露伴の辞書には無いのだ。私が露伴のことについて間違えたらネチネチと責め立てるくせに。僕のことを好きじゃないからだろうなんて言う癖に。好きじゃないのは露伴じゃないの、なんて、言ったら終わりなような気がしてとても言えないけれど。
仕方がないから豆大福を頬張りながら、幸福のお伽話を語って聞かせた。露伴は自分の紅茶を啜りながら静かに聞いていた。そう、この時の露伴。目を伏せて私の声だけに集中してる露伴はとっても格好良い。

「聞いたことないな、その子供の創作かい?」
「わかんないけど…」

カップを置いた露伴はふうん、とひとつ返事をして、そして私を帰るように唆した。もう追い出されるなんて!と私は喚いたけれど、何やら担当さんと打ち合わせがあるらしい。担当さんって、あの若いおんなのひと?私がちょっと拗ねた様子を見せても、露伴は動じない。仕方がないから大人しく家路に着いた。溜め息が漏れるのも当たり前だ。露伴のことを好きだけど、たまに悲しくなる。露伴が捻くれ者で好意を表に出さないのは十二分に知っているけれど、もっと分かりやすく、私を好いてくれたらなあ。



珍しく露伴から誘いがあった。原稿に余裕ができたから出掛けようと。私は嬉しくて舞い上がって、いつも着ないような可愛らしいワンピースを着て、桜色のグロスを塗って家を出た。待ち合わせ場所にいた露伴は私を見て、今日はすごくいいじゃないか、と言った。私は驚きで固まった。露伴が、私を褒めるなんて。パーマをかけても普段より濃い化粧をしても何も言わなかった露伴が。その上露伴は、お土産だと小さな箱を差し出した。箱の側面には、私が大好きないちご大福のお店の名前が刻印してある。

「露伴…?なんか今日変だよ」
「たまにはいいだろう」

露伴は口の端を上げ、揶揄うような笑みを見せた。そして箱を持ったまま、反対の手で私の手を取り、歩き出す。華奢ながら大きなその手のひらの感触は久しいものだった。露伴は人前で手を繋いだり、くっ付いたりするのを嫌がるから、こうして歩いたことなんてほぼ無いに等しかった。それなのに、まさか露伴の方から。戸惑いもあったが、それよりも嬉しくて嬉しくて、少々強めに握り返した。
それからずっと私が行きたいとぼやいていた開店したばかりのレストランに連れて行ってくれた。全く聞いちゃいないと思っていたのに覚えていてくれたことに感激した。その後は街を彷徨いて、ショッピングをして、久し振りのデートを満喫した。露伴は始終機嫌が良さそうで、私を優しくエスコートしてくれた。まるで露伴じゃあないみたい、でも私の理想の露伴ってこんな感じかも。明日からは元に戻ってしまうかも知れないから、今日はこのレアな露伴を満喫しておこう。そんな私の心中を知ってか知らずか、露伴はディナーはどこにしようか、と尋ねてきた。露伴と一緒ならどこでもいいや。幸せだなあ。



岸辺露伴はまだ書き上げていない原稿を机の上に放置したまま、市内で一番大きな病院へ足を向けた。途中で和菓子屋に寄り、いちご大福が2つ入った小さな箱を受け取って、それを持って事前に聞いていた病室へ向かった。
そこが個室であることに、普段の彼であれば、贅沢だなと嫌味のひとつでも言ったかも知れない。しかし彼は何も言わず、彼女が横たわるベッドの横に静かに腰を下ろした。
彼女の胸は上下している。正常な呼吸と、普段通りの血色の良い頬。口元が少し緩んで、だらしない表情をしている。彼女はもう一週間、目覚めない。
彼女の母親から涙声で連絡が来た時は半信半疑だった。只寝ている風なのに、起こしても起こしても目覚めないのよ、と。露伴は遂に泣き出してしまった電話越しの相手を宥めながら、彼女のだらしなさを思い起こし、またスタンド攻撃の可能性も頭の隅に入れ、軽い気持ちで彼女の自宅へ向かった。そして間抜け面で眠りこける彼女を怒鳴りつけ、揺さぶり続け、そこでようやく事態の異常性を察したのだった。
露伴は彼女の横顔を見つめた。至極穏やかな表情をしていた。寧ろ幸せに満ちているようにも見える。そこでふと、あの話を思い出す。顔も知らない子供の創作童話。

「幸せなのかい、きみは」

露伴は眠る彼女の手を握る。ひたすらに握る。看護師に退室を促されるまで離さなかったが、その手が握り返されることは終ぞなかった。



冒頭のネタは某児童書より

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