「あの話は実話なのか?」

 書道の手本のような文字とその横にぴたりと押された印。正しさを体現したそれらを円らな黒目が捕らえる。不備がないのを確認してから顔を上げた。

「あの話?……あぁ。よくある噂話でしょう。今の貴方様にとっては生々しく聞こえるかもしれませんけど」

 肉球を凝り固まらせる真面目くさった表情を崩したくて、こんのすけは冗談めかした。だが、管狐の思惑は外れ、男は表情を一層硬くする。

「明日は本丸にお戻り下さい。やっと入手した一口を習合して審神者様とは連結!一発やればお悩み解決!」
「君は口を開けばすぐこれだ。連隊戦の最中だというのに」
「山鳥毛様!悶々としていては、いくら周回しようが落ちるものも落ちませんよ!あ。閨ではしゃいでも機密は漏らさないように」

 下ネタで韻を踏んだこんのすけの首に巻物を包んだ風呂敷を巻いてやる。乱舞レベルに関する機密保持契約書と書かれたそれ。乱舞レベル上昇に伴い男士が主に掛ける言葉は機密事項。習合が進むまで決して明かしてはならないという契約を政府との間で結ぶことになっている。今回の連隊戦で山鳥毛の乱舞レベルが新たに開放されるため、契約を更新したのだ。
 今夜は早く休むよう伝えてくれ。小さな頭を撫でながら伝言を頼む。ちゃっかり者の管狐は、お駄賃代わりに油揚げを貰う約束を取り付けてから煙の中に消えていった。

 

 ここは政府専用宿舎の一室。窓から望む海は、天頂の月が反射して白銀色の光が揺らめいていた。連隊戦は特別合戦場に出陣する前であれば帰城する必要がない。それを利用して束の間のバカンスを楽しむのがこの本丸の夏の過ごし方。今日漸く、特別合戦場で山鳥毛がドロップした。本丸に戻るつもりでいたが、祝賀会をしようと言われてしまえば断るわけにはいかず、皆と泊まることになったのだ。

「よくある噂話、か」

 山鳥毛にとって初めての夏の連隊戦。人の身を得て初めて見た海の美しさに心は躍った。水晶を散りばめたように輝く水平線、爽やかな潮風の香り、心地良い波の音。皆が連隊戦を待ち侘びるのも当然だと思ったものだ。だが、酒宴の席である男士が口にした話が頭から離れない今は、闇色の海が奏でる潮騒は彼の心をさざめかせるものでしかない。
 きっと疲労のせいだ。海の日差しは浴びるだけで消耗するから気を付けてと言って送り出してくれた彼女を想う。今頃、本丸で待機する男士と血眼になって小判をかき集めているだろう。直接お休みを言えないもどかしさと先に休む申し訳なさを感じながら山鳥毛は床についた。



――山鳥毛はある部屋にいた。鋭い眼光でぐるりと周囲を見渡す。そこは本丸にある刀を顕現させる部屋だった。目の前に女が現れる。この本丸を統べる審神者であり彼の恋人だ。彼女を見つめる紅い瞳が緩まった。
 小鳥。一歩踏み出して手を伸ばせば届く距離にいるのに、声も届かなければ歩みを進めることすら出来ない。足の裏が床板に貼り付き、彼女との間を透明の壁で阻まれているような感じがした。山鳥毛の存在に気が付かない彼女はじっと刀を見つめている。黒を基調とした拵の大振りの刀。紛れもなく己の本体だ。彼は腰元に目を落としたが、そこには刀が収まっていた。ではあれは。
 顔を上げた瞬間、刀から桜の花びらが弾け飛んで、己と寸分違わぬ姿形をした男が顕現した。口上を終えると、男は我が物顔で彼女を腕の中に収める。男に身を任せる彼女の手にはいつの間にか別の刀が握られており、そこから桜が溢れ出した。またしても山鳥毛と同じ姿形の男が顕現する。その男もまた当然のように彼女に身を寄せた。そして、男の手が細腰を囲う帯を軽やかに解き、白い胸を目がけて衿の中に差し入れられる。彼女は嫌がる素振りを一切見せずに男の手を受け入れた。最初に顕現した男は、その貌に不愉快さを滲ませるどころか、同じ見目とはいえ他の男が肌を暴いていく様を笑みをたたえて見つめている。

「小鳥ッ!」

 誰のものだと思っている。それは男達に向けた怒りか、はたまた彼女に向けたものか。全身を流れる血という血が沸き立ち、刺青が煮えたぎる鋼の色に染まる。激情に任せて怒号を放った。だが、常に礼節を弁える山鳥毛らしからぬ声も彼女には届かない。丁寧に皮を剥かれた白桃のようにつるんとした背中に、二番目の男が口付けた。ぴくりと背をしならせる彼女に目を細めた最初の男は、その手を取って腰に収まった刀の柄を握らせる。山鳥毛の存在に気付いていないはずなのに、彼に見せつけるかのように動く重ねられた手は、目を背けたくなるほど淫靡だった。
 小鳥。自分と瓜二つの男は彼女の呼び名までも同じ。甘やかに囁く男の唇がゆっくりと近づき始めた。口付けを待つ彼女を射貫く瞳の奧がどうしようもなく熱い。食いしばる奥歯がギリッと悲鳴をあげた。
 誰のものだと思っている。胸の中で暴れ狂う激情の荒波に飲まれ、もう冷静ではいられなくなった。怒りの堰が切れたと同時に、山鳥毛は鯉口を切った――



「――こと、っ……!?」

 山鳥毛の視界は一転、暗闇に包まれた。これは夢か現か。浅く短い呼吸を繰り返しながら、状況を整理しようと思考を働かせた。寝汗で浴衣が肌に張り付く不快感から、あれは夢で、これは現実なのだと理解する。枕元の灯りをつけて手元を見ると、甲に入った刺青がまだらに赤味を帯びていた。米神から流れ落ちた汗が首元の刺青を伝う。生温い汗の気持ち悪さと鮮烈に甦る悪夢への苛立ちから、舌打ちしかけたが何とか耐えた。悪癖になって、彼女の前でやってしまうなんてみっともない真似だけは絶対に出来ないからだ。
 すっかり目が冴えてしまった。穏やかな波音を奏でる夜の海に目を向ける。耳を澄ましていると、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。湯浴みをする前に夜風にあたりたい。山鳥毛は布団を捲って立ち上がった。


 
 宿舎から海へ続くタイルで舗装された道を歩く。目の前の海はいわゆるプライベートビーチだ。昼は宿舎を利用する男士らで賑わっていたが今は誰もいない。砂浜にいくつも並ぶデッキチェアの一つに腰掛けた。部屋から持ち出したよく冷えたペットボトルの水で喉を潤すと、冷静さを欠いて熱くなった頭も冷えていく。
 酒宴の席での話とはこうだ。とある本丸の女性審神者と男士は恋仲だった。日が経つにつれ、その男士と同じ刀が一口二口と増えていく。いつからか、誰が言いだしたのか。彼女らは共に夜を過ごすという淫楽の日々を愉しむようになった。しかし、爛れた日々は突然終わりを迎える。女が殺されたからだ。恋仲だった男士に。
 女が他の男に入れ込んで悋気に駆られたというなら、よくある話だと笑って済ませただろう。ところが話は違った。やはり貴方だけがいい。女が再び恋仲の男士の手を取ったことが原因だった。同じ刀なのに、どうしてたった一つを選び取ることが出来るのか。同じ刀を同じだけ愛さない女を男士は斬り殺した。
 可能な限り、審神者に同じ刀を複数所持させないようにする。この事件が習合制度が設けられたきっかけの一つだという噂話。

「理解出来ないな。私には」 

 貴方を愛してると選び取られたことに無上の喜びを感じ、これが唯一の愛だと彼女に己の心を預けた山鳥毛にとって理解出来るものは一つとしてなかった。だが皮肉なことに、理解の及ばぬ突拍子もない話だからこそ物語は信憑性を持つ。自分の置かれた状況と相まって他人事と思えず、よくある噂話だと受け流せないでいた。
 絶え間なく重なり合う波は山鳥毛の心を表しているかのようだ。不安、焦燥、怒り、後ろめたさ。気持ちが落ち着くにつれ、後ろめたさがその比重を増していく。互いに打ち消し合う波のようにはいかない。海が運んでくる涼しい風に吹かれ、柔らかな前髪が躍る。隙間から覗いた眉間に刻まれた皺は深かった。

「夢とはいえ……刀を抜いてしまった」

 己の刃は誰に向かっていたのか。同じ姿形をしたあの男達か、それとも。人の心とは思うままに扱えない複雑なもの。刀を振るうのとはわけが違う。特に恋情はどうにもならない。彼女にひた隠す仄暗い欲望や刀の付喪神の本能である苛烈さを一つ残らず引き摺り出してしまう。
 あの悪夢は山鳥毛に心の深淵を覗かせた。深くて暗い心の奥底を。いつかこの刃で傷つけてしまったら。それでは、理解出来ないと捨て置いたあの噂話に出てきた男士と同じではないか。悪夢が見せた感情を悪夢ごと心の奧底に沈めてしまおう。最後にもう一度、夢の中の彼女を思い出す。刀の付喪神の心に恋情を植え付けた罪深い人の子は、他の男の腕の中にあっても美しかった。
 星一つない夜空を見上げると、海に光を与える月は天頂からほんの少し傾いた位置にあった。山鳥毛の体感よりもずっと、時間は経っていなかったと知る。この夜が明けるまで、あとどれだけ待てばいいのだろう。

「君がいない夜は長いな。――小鳥」

 拵に限りなく近い色をした、誰もいない海に向かって呼び掛けた。夢の中と同じく彼女に届くことのない声は、漆黒の波間に飲まれて泡へと変わる。胸を巣食うさざめきだけを残して。



「これで習合は終わり。体調は悪くない?」
「あぁ。……すまない。もう一口あれば」
「どうして?ドロップしただけでもう十分なのに」
「そういうわけにはいかないよ。君の労に報いなくては」

 一睡も出来なかった山鳥毛は夜明けと同時に帰城した。迷惑だろうと思いつつ連絡を入れると、ワンコール待たずに彼女の声が聞けた。本丸に戻って戦果の報告もそこそこに始めた習合はあっけなく終わる。山鳥毛が顕現した冬の連隊戦で一口習合したのだが、その時と全く同じだった。
 粛々と習合の準備を進める彼女に、顕現させなくて良いのか、とは聞かなかった。刀を顕現させるかは審神者の専権事項。一介の部下が口を挟む領域ではない。顕現させると彼女が決めたら受け入れるだけ。分を弁えない発言は彼の矜持が許さなかった。恋仲という特別な関係にあれば尚のこと。

「それは私の台詞だよ。ずっと暑い所にいて大丈夫だった?きちんと眠れたの?」
「……任務に支障はないよ」

 はぐらかしたことに良心が痛んだが、正直に答える気にはなれなかった。人の心配ばかりしているが、眠れなかったのは彼女も同じ。彼女の瞳は文字通り血眼だった。労りの気持ちを込めて目尻に唇を寄せる。

「私が入る鳥籠は他にはいらない」

 芯の通った声に揺り動かされて、山鳥毛の心に引いたはずのさざめきが起きた。腹の底からうなりをあげる勢いを持ちながらも不思議と嫌な感じはない。むしろ、じめじめして重苦しい霧が晴れて高揚感で満ちていく。
 見下ろした腰元に答えはあった。それは柄を握る白い手。彼女は習合を行う際、ドロップした刀を嬉しそうに見つめてはいたが決して触れようとはしなかった。そう、ただの一度も。つまり、彼女の手が触れた「山鳥毛」という刀は彼の本体をおいて他にはない。触れることで人と刀は縁を結ぶ。あの悪夢を見た山鳥毛にとってだけでなく彼女にとっても重要な意味を持つ行為なのだ。

「ひとつでいいの」

 首元の二重に連なる飾りに細い指が絡まった。くいっと手前に引かれて体が前へ傾いていく。逆らわず身を委ねると山鳥毛の唇を柔らかいそれが受け止めた。心を優しく包まれるような感触。夜の海のように静かな口付けを二人は分け合った。
 貴方の刀がひとつあればいい。そう言わなかったのは、彼女のために自分と同じ刀を持ち帰ろうと出陣を重ねる山鳥毛の矜持を傷付けないためだろう。それにしても、たったひとつの鳥籠に閉じ籠もりたいなんて随分と可愛いらしいことを言う。主として部下を思い遣る気持ちに忍ばせた女心に口角が釣り上がって仕方がない。  

「どうした?君はもっと、上手に握るだろう?」
「……ん、んんっ!?」

 柄を包む手に自分の手を重ね、意味ありげにぐっと握らせる。夢の中の同じ姿形をした男のように。言葉の真意を汲み取った彼女は、体を仰け反らせて唇と手を離そうとした。逃がすものか。空いた手で後頭部を固定し、深く深く口付けた。

「こんのすけから、悶々としていては落ちるものも落ちないと言われてしまったよ。習合を進めて君と話したいことがあるのに参ったな。小鳥、……どうしたらいい?」

 彼女から与えられるしっかりと重みのある力が柄を伝って、さざ波のように全身に広がっていく。今夜は良い夢が見られそうだ。

ひとつでいいの



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