鬱蒼と茂る紅葉が、火花を散らしながら青黒い空を燃やす炎に見えた。激しい情景は何度も見た気がするせいか、荒れ狂う炎の渦に不思議と心地よさを感じる。いつ見たのだろうかと記憶を紐解き始めたが、煌々と輝く紅に思考を奪われていく。次第に遠近感が狂い、空から落ちてくる火の海に飲み込まれるような錯覚に陥った。少し怖くなって、無理矢理に視線を外した。
 季節は秋から冬へと変わる。紅葉の景趣は今日でおしまいだからと、今年最後の紅葉狩りをすることにした。闇色に覆われた貫禄ある背中は夜に溶け込むことを拒み、堂々とその輪郭を浮かび上がらせている。紅葉を照らすライトが、静かに空を見上げる彼に反射した。硬質な鋼の体躯にあって唯一の柔らかさを持つ髪が、夜風に吹かれて躍る。縋るような視線に気がついたのか、山鳥毛、と声を掛ける前にこちらを振り返った。
「小鳥、こちらにおいで」
 夜の散歩は何度もしてきたが、山鳥毛が私の隣を歩くことは一度もない。常に数歩先を進むため、自然と彼の足跡を辿ることになる。私に安全な場所を歩ませるための気遣いと知ったのは、恋仲になって暫く経ってのことだった。
 山鳥毛のもとへ辿り着くと、目前には大きな池泉が広がっていた。水面さえも燃やす紅に息を呑んだ瞬間、額に口付けられる。温度の低い唇の感触と焚きしめられた香りが、頭蓋の奧に甘く響いた。
「紅葉に見惚れているようだな。君にとっては目新しくもない色だろうに」
 言葉の真意を汲み取れず瞬きを繰り返すと、山鳥毛は上品に口元を歪めた。その仕草に、とっくに恋に落ちているはずが、また落ちてしまう。もう何度も落とされている、私だけ。恨めしげに見上げる私の手を取る彼の瞳は伏せられており、感情を読み取ることを許してはくれない。だが、手の甲にぬるい温度を与える唇はやはり、憎らしいぐらい美しく歪んでいた。
「この反橋は何を表していると思う?」
 紅葉の景趣は、大きな池泉に朱塗りの反橋が架けられているのが特徴だ。堂塔に見立てた建物と大きな池泉が築造された庭園を浄土庭園と呼ぶらしい。反橋を渡った先には中島が浮かんでいる。そこには平橋が架けられているのだが、山鳥毛は反橋の意味だけを問うてきた。 
「浄土への架け橋だよ。ここを渡るということは、浄土に入ることを意味するんだ」
 口を開く前に答えが示された。公私を問わず、常に私とのやりとりを重んじる山鳥毛にしては珍しい。よほど伝えたいことがあるのだろうか。注意深く観察するも、反橋の向こう側を見つめる彼の背中は何も語らない。
「さあ、乗って」
 突然腰を屈めたので驚き、歩けるから大丈夫だと断りを入れるも返事はない。辛い姿勢のままでいさせるのが申し訳なくて大人しく身を預けた。軽々と背負われ、重力に逆らい浮き上がっていく体。地に足がつかない感じが落ち着かず、首に回す腕に力を込めた。紅い水面を眺めながら、浄土への道を渡り始める。山鳥毛の足音以外、音のない道を。頭上に広がる紅葉が、いっそう燃えて見えた。
――あなたは死んでしまったらどこへ行くの?私は死んでもあなたと一緒にいられるの?一番聞きたい肝心なことが、喉の奧に引っかかったまま出てこない。聞きたいくせに答えを知るのが怖い、中途半端に蛮勇で臆病な私は、死ぬまで聞けないままだろう。聞けたところで、山鳥毛は何も答えてはくれないだろうけど。
 庭の中央で存在感を放つ池泉は、まるで川のようだ。私はふと、三途の川を思い浮かべた。人は死後、三途の川を渡って裁きを受けてから浄土か地獄に行くのだという。女の渡河は、初めて抱かれた男に背負われると信じられていた時代があった。さすがの山鳥毛も知らない俗信だろう。
 あなたに出会って、恋に落ちて、愛し合うと初めから知っていたら、私は――。今更どうにもならないのに、ただの俗信を間に受け止めて、独りよがりのみっともない感情に苛まれた。
「小鳥。歴史とは、後世まで残ったものの積み重ねだ。語り継がれて残されたものが事実となる。たとえそれが真似事だったとしても、だ」
 そう、真似事だ。私は人で、山鳥毛は刀の付喪神。彼に近づきたいとどれだけ手を伸ばそうが、厳然たる隔たりは乗り越えられない。私だけが恋に落ちるのは当然。神様が人の子に合わせてくれるから、こうして恋の真似事ができるのだ。私達の関係は、神の慈愛に甘えることで成り立っている。この真似事もいつか事実になるのだろうか。
 ゆりかごに乗せられたような優しい揺れが止まった。どうやら反橋を渡りきったらしい。顔を上げると、私に話しかけるためなのか、山鳥毛の顔が少しだけ横を向いていた。
「これで三途の川を渡る手間は省けたな。君の前で手荒な真似はしたくないからね」
 誉を取った時に似た誇らしげな声色だった。山鳥毛があの俗信を知っていたとは夢にも思わず、弾かれたように顔を上げる。知っていたの?と尋ねると、私は古臭い刀だから、と彼は冗談めかした。
 私を背負う役目を誰にも渡したくないから、三途の川の渡河も死後の裁きも何もかもすっ飛ばして、自分が背負って浄土へ来たという事実を作ればいい。人には思い付きそうもない神様ならではの理屈。それがどうしようもなく愛おしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。吐息が触れた着物の布地から、彼の香りが強く立ち昇った。
 極楽浄土とは、良い香りを嗅ぐだけで生きてゆける世界という。自分の手を汚さず男士に戦いを強いる罪深い私が行ける場所とは思えない。けれど、死んでもなお、この男の香りを抱いていられるのなら、どんな地獄だろうと私は生きてゆける。

「小鳥」
 何もかも、どこもかしこも酷く熱い。私の体を這う山鳥毛の唇は驚くほど熱を孕んでおり、肌の至るところに火を灯していく。外で触れた唇からは感じ取れなかった熱量。どこに隠し持っていたのかと不思議でしかたない。体の芯まで溶かされてしまい、意識が白ばんで目を開けるのが億劫だ。だが、上下の瞼の境目を口付けの熱で溶かされ、早く開けるよう促される。夜の彼は、私が素直に言うことを聞くまで容赦がないが、今夜は特にそうだった。閉じたままの瞼を震わせていると、しまいには唇に歯を立てられてしまった。
「私だけ、と思っていただろう?」
 痛みで開かれた目が映したものに、鼻にかかった溜息が漏れる。汗で束になった髪を鬱陶しげに掻き上げる仕草は、正しい部下である昼の彼は決してしない。夜の帳が下りてからでないと見られない特別なもの。その仕草に、またいとも簡単に恋に落ちてしまった。
――今、この瞬間だって思っている。私だけ、私ばかり恋に落ちている。何の前触れもなく、心の準備をする間もなく、馬鹿みたいに何度も恋に落ちている。私の真似事に付き合ってくれているのは、あなたに余裕があるから。
 痛みで疼く唇を噛み、子供じみた抵抗をみせた。だが、山鳥毛の表情は一切変わらない。私の思考を全てを見透かした瞳は、強い光を宿したまま。無駄な抵抗を諦めて素直に頷いても、光が和らぐことはなかった。
「この思いが真似事とでも?」
 山鳥毛は口元を今日一番美しく歪めて笑った。柔らかい口調と嚙み合っていない表情。血も凍るような畏れを抱く、ぞっとするほどの美しさがそこにはあった。有り余る熱を与えることも、容赦なく体中の熱を全て奪い去っていくことも、この男にとっては造作ない。その気さえあれば、私なんてどうにでも出来てしまうのだ。
「私の思いを語り続けよう。君の中で事実になるまで、幾夜でも」
 臍の下に指が当てられる。臍から下に向かってゆっくりなぞられ、ある一点に辿り着くと、爪先が柔らかい肉に沈んだ。肉の下に隠された女だけが持つ臓器に狙いを定め、ここに意識を集中させろと言わんばかりの触れ方。胎を割かれ、臓器を直接撫でられるような生々しい感覚に全身が震えた。 
 愉悦をたっぷり含んだ瞳の炎が、私の顔を煌々と照らす。鋭利さを増した虹彩は人ならざるものの証で、私と山鳥毛との間に横たわる隔たりを浮き彫りにした。荒れ狂う炎の渦が徐々に近づいてくる。視界いっぱいに広がる紅、紅、紅。――あぁ、これだ。紅葉を眺めていた時に覚えた既視感の正体は。
「ようやく気付いたようだな」
 笑みを含む声が漏れたが、瞳の中にある火の海は凪ぎそうもない。私は今夜の始まりで早速、山鳥毛のご機嫌を損ねてしまっていたらしい。臍の下を撫でていた手を取り、炎の色が乗る入れ墨に唇を寄せた。彼以外の紅に目を奪われたことの許しを乞う。こんなもので許してくれるような甘い男ではないのだけれど。
 山鳥毛は、じっと私を見下ろしながら口付けを受け入れた。飼い主の手に乗り、指を啄む鳥にでもなった気分だ。入れ墨から伝わる熱は触れる度に温度を上げ、唇の噛み跡に湿った痛みを植え付ける。冷たい美貌に反し、目元と首筋に彫られた入れ墨も火を燻ぶらせていた。
「さて、お手並み拝見といこうか」
 勝負なんて、初めからついているのに。今夜は、無事に夜の終わりを迎えられそうもない。寝室の窓に目をやると、真っ白な障子に山鳥毛のものではない紅が滲んでいた。夜はまだ、深まり始めたばかり。
 火の海が迫り来る。首筋に指を滑らせてから、首に腕を回し引き寄せ、海の中へ自ら飛び込んだ。山鳥毛の腕が私の体を囲って受け止める。刃文のように壮麗に燃える炎の中、深く深く、共に沈んでいく。
 身の程を弁えずに神様を愛してしまった罪深い私は、どこへ行くのだろうか。愛する男を彩る炎の中で終われるのなら、どんな地獄だろうと私は生きてゆける。

ふたり抱き合って、そしてどこへ行こう



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