比翼連理を恋う
「ああ、小鳥に呼ばれたか」
威風堂々。この本丸には名だたる名剣名刀の付喪神が集うが、この言葉がこれ程までにぴたりと合う付喪神を私は知らない。燃える炎を閉じ込めた深紅の瞳、目元や首筋や袖口から覗く刺青、華やかな装い。それが一文字一家の長、山鳥毛。端正な笑みをたたえて私を見下ろす威厳のある佇まいに、一目で心を奪われてしまった。これが一目惚れだと脳が認識した次の瞬間、とてつもない羞恥と罪悪感がのしかかってくる。
──小鳥。彼にとって庇護すべき赤子の様な存在を意味するのだろう。顕現して早々、人の子を慈しんでくれる神様相手に何と罰当たりな感情を抱いてしまったのだろうか。
「……どうも」
「ちょっと待て!……にゃ!」
正負の感情がない交ぜになった頭では腑抜けた挨拶をするのが精一杯だった。ぺこりと頭を下げた後、部屋から退出しようと踏み締めた床がスポンジの様に柔らかい。顕現に立ち会った南泉が呼び止める声なんて耳に入って来なかった。
「お頭に対する態度がなってないぜ」
「……何度も謝ってるけど、ごめんって」
一文字一家の長が顕現したとあって、それまでまったり過ごしていた南泉が急に口うるさくなった。事ある毎に、山鳥毛が顕現した際の不始末を説教してくる。面目を潰されたと受け取られても仕方が無い。だが、一目惚れして正気を失いました、なんて、馬鹿正直に言えるわけもない。
「雰囲気に圧倒されちゃって。流石は一文字一家の長だよ」
「当たり前だ!……にゃ!」
南泉は自分が褒められたかのように胸を張った。毎回そうだが、彼の説教は胸を張ったところで終了となる。気分転換にお茶でも煎れようかと、文机に両手をついて立ち上がったその時。
「小鳥よ、戻った。報告はここに纏めてある」
「お、頭!遠征お疲れ様でした……にゃ!」
完璧なタイミングで現れた噂の張本人に動揺したのか南泉の声が上ずった。遠征帰りに五虎退と万屋に行くと聞いていたが、大して時間が経っていないはず。一家の長としての自覚からなのか、山鳥毛は何事に対しても非常に勤勉な男士だ。ありがとう、とお礼を述べて報告書を受け取った。
「お、お、お頭に茶の用意だ!お頭、座布団を……にゃ!」
「はいはい。南泉はお菓子の用意をしてね」
「小鳥、私が買ってきた物で良ければ」
山鳥毛に差し出された白菫色の箱は、万屋内で人気の和菓子屋のものだ。ご丁寧にお土産まで買ってきてくれたなんて、どこまで真面目で律儀なのだろうか。再び、ありがとう、とお礼を述べて差し出された箱を受け取ろうとした時、僅かに指先が触れ合う。彼に触れたのは初めてだった。
「ごめんなさい。……山鳥毛?」
「……いや、こちらこそ失礼した」
山鳥毛は手元に目を落としたまま、何か考え込む素振りを見せた。そして少し間を置いて顔をあげると、一瞬はにかんだ顔を見せる。本当に一瞬だけ。不意打ちで見せられた顔に胸の鼓動が高鳴った。
「流石はお頭だ……にゃ!主は酒饅頭が好物だもんなぁ」
執務室と襖を隔てた奧にある私の私室から、南泉は山鳥毛用の座布団を持って来た。私が使っている物の5倍ぐらいぶ厚いヒヨコ柄は、山鳥毛の実装が知らされてすぐに南泉と夜鍋して作った力作だ。彼はそれを上座に置いて山鳥毛に座るよう促し、良かったな、と言って私の肩にポンと手を置いた。
「……子猫。私は一介の部下だぞ?上座に座るわけにはいかない」
「ふふっ。そんな事、気にしなくて良いのに」
急須と湯呑みを文机に置いて座るように促すと、山鳥毛は自分と私の座布団の位置を入れ替えてから座った。本当に真面目だなぁと感心するのと同時に、一介の部下という単語が胸にチクリと刺さる。
「子猫が随分と世話になっているようだな」
「いやいや、お世話になっているのは私の方だよ。南泉はマメだから書類整理が上手なの。夜中に仕事するのを手伝って貰うことが多々あって」
「夜中に仕事、この部屋で?」
「ごめんなさい。すっかり甘えちゃって。あ、でも手当はしっかりお支払いしています……」
一文字一家の南泉をこき使っていたのだから長としては不快に思うだろう。南泉が座布団を持って来た時から基本的に険しい顔つきの山鳥毛だったが、私室に繋がる襖を一瞥すると眉間の皺を深めて更に険しさが増した。南泉はというと、文机に両肘をつけ頭を抱えながら大きな溜息をついている。私の不甲斐なさが原因で、折角のお茶会が非常に重たい空気になってしまった。
「部下なのだから手伝って当然だ。しかし、夜更けに男と同じ部屋にいてはいけない。不埒な者がいたらどうする?」
「……どうするって、いるわけないよ。あり得ない、絶対、」
「小鳥」
夜に尋ねてくる者こそいないが、一緒に仕事をしている時には私室に置いている本を読むための立ち入りを自由にさせている。図々しい男士だと、布団を勝手に敷いて昼寝をしだす者までいるぐらいだ。反論に被せて強めの口調で呼ばれた。言外に、聞き分けろと言われているのだと嫌でもわかる。
「子猫、女人である小鳥の私室に勝手に入るな。ましてや、気安く触れるなど言語道断。我々の一挙一動が一文字一家として見られているのだ。ゆめゆめ忘れるなよ」
「う、うす!……にゃ」
彼の意見は正しい。だが、私は男士達に恋愛感情を持ったことはない──正確に言えば、今までは。家族でも友人でもない特殊な信頼関係に基づいて、お互いフランクに付き合ってきた。その気軽さが、真面目な山鳥毛には誰彼構わず寝る女とでも映ったのだろうか。彼の正しさは、お前に恋情を持つことなどあり得ないという、私への明確な拒絶に他ならない。初めからわかっていたが、私の恋は始まることなく終わりを迎えた。
「……どういう事なの?」
失恋にすらならない終わりを迎え、今まで以上に仕事に没頭した結果、傷を癒すどころか悩みが増えてしまった。南泉から手渡された桐箱を開けると上品な香りが鼻孔を擽る。中にあったのは鳥の形をした匂袋だった。
「いつも物を貰うわけにいかないよ。大体、何でいつも南泉が持ってくるわけ?」
「一家の長だぞ!?上に立つ者は、手ずから持って来る真似はしないっての」
あの一件以来、何故か山鳥毛から贈り物が届くようになった。香や花、菓子に茶。レパートリーは多岐に渡り、どれも品も趣味も良い物ばかり。私の本丸では男士に経費の負担は一切させず、給料は全て自分の使いたいようにさせている。しかし、人の子を慈しむ神の性分なのか、皆、あれこれと物をくれる。山鳥毛も例外ではなかったようだ。これでお金に困る事にはならないだろうが、彼から理由のない贈り物を貰って平気ではいられない。むしろ一身上の都合により放っておいて頂きたい。だが、気を使わなくて良いと言っても止む気配はなかった。
「良い仲の男はいない……よな?」
「引き籠もって仕事しかしてないのに、逢い引きする暇がどこにあるの?」
「操は立てろよ。お頭が悲しむ」
南泉の口から操という単語が出たことに驚いたが、いつになく真剣な表情と声色から警告だとわかった。色恋に惑わされずに審神者の職務を全うすることを山鳥毛は望んでいると言いたいのだろう。そう、いつだって彼は正しいのだから。
「生半可な気持ちでやってないの。逃げたいと口走ったら斬り殺すよう山鳥毛に伝えて」
書き終えたお礼状を香に潜らせてから折り畳む。この香は山鳥毛から初めて貰った物だ。直接お礼を言いに行こうとしたら文にしろと南泉に叱られたため、物を貰う度にお礼状を書いている。古くさいと自分で言う通り、山鳥毛は鎌倉時代に打たれたとされる刀。私の知らない鎌倉マナーがあるのだろうからと、一つ屋根の下にいるにもかかわらず、南泉を仲介とした奇妙なやり取りを繰り返していた。
「何よ、改まっちゃって。持って行かないの?」
「その言葉、待ってたぜ。……一文字一家へようこそ」
「はぁ?今日の南泉、いつもの8億倍変だよ!?ねぇ!ちょっと!」
大きな金色でじっと私を見つめながら畳に寝転がるという、山鳥毛が見たら叱られるスタイルの南泉が突如、跪坐に姿勢を改めて不可解な事を口走る。意味を問い詰める間もなく、ピュッと猫がオモチャを追いかけるように部屋から出て行ってしまった。まさか、腹が据わっていると認識され、カチコミ要員に加えられてしまったのか。
「……嘘なんかじゃない」
私の恋心はあっけなく殺された。今はまだ生傷が付いた心がじくじく痛むが、恋に振り回される子供じゃない。審神者という職に生涯を賭す覚悟は、とっくの昔に出来ている。それでも、万が一私が道を踏み外したら、みっともなく燻る想いごと貴方に斬り殺して欲しい。でも、そんな愚かな人間を正しい貴方は刀の錆びにすらしてくれないだろう。
「始末しておけ。小鳥の瞳に触れさせるな」
「う、うす!……しかし、だせぇ文だなぁ」
本丸には特殊な郵便受けが存在し、政府からの書類や資材などが投函されることになっている。これらの書類を彼女に届けるのは近侍の仕事だ。だが、最も重要なのは、余所の男から送られてくる文や品を彼女に気付かれることなく処分すること。私が顕現した際、これが近侍の重要な任務だと皆から説明された。初めは彼女の私事に干渉することに躊躇を覚えたが、その考えはすぐに霧散する。
「ほう、頑張っているな」
「おかげさまで捗ったよ。書類はこれで全部?」
「あぁ。全てだ」
何一つ疑うことなく向けられた笑みに私も笑顔で返すと、彼女は安心しきった様子で文机の上を整理し始めた。この本丸を統べる彼女は、刀に全幅の信頼を置き、刀の為にと懸命に自分の巣を整える。刀が囲う鳥籠の中、鋼の上で囀る姿を愛でられ、刀が競って飾り立てる美しい羽は、すでに自由を奪われているとも知らずに。私はそんな彼女が酷く憐れで、何よりも愛おしかった。
「これは?」
「ネイルファイル……まさか、爪切り使ってるの!?」
「ん?何か問題でも?」
「二枚爪になって割れ易くなってしまうから、この爪専用のやすりで削るの。南泉にちゃんと教えるよう頼んだのに!」
彼女は私の両手を取って指先をまじまじと見つめたが、懸念していた事がないと確認するや手を離そうとした。私から逃げていく細い指を軽く握って捕まえる。
「小鳥が教えてはくれないのかな?」
「え!あ、うん……綺麗に整ってるから必要なさそうだけど……」
チラリと握られた指に目を遣った彼女は、戸惑いを滲ませたが手を振りほどこうとはしない。刀に頼られたら決して断れない性分は、彼女の美徳でもあり刀が付け入る弱点でもあった。
「こうやって滑らせるだけで良いの。深爪になると痛いから強くやっては駄目」
白く細い指が私の指を挟み込んで、削りやすいよう固定する。指の細さも爪の形も何もかもが男とは違う指が、蔦のように絡みつく様は淫靡で、私はそれを眺めながら初めて彼女に触れた日を思い返した。
「五虎退と万屋に行った際、まだ私を入手していないと言う女人の審神者に会ったのだが、握手を求められてしまったよ」
「気持ちはわかるなぁ。山鳥毛を入手するのは大変だったもん」
「申し出を断った。嫌だと思ってしまってね。小鳥に触れた時とは正反対の感情だった」
私の爪を整える手が止まった。僅かに指が震えている。彼女は目を瞑って細く息を吐くと、握り合う手をじっと見つめたまま、赤い唇を動かして言葉を紡ぎ始めた。
「……それはね、山鳥毛が私の刀だから。持ち主に忠義を尽くすのは、刀として正しさの現れだと思う」
「正しい?私が?」
「そうよ。人は愚かだから道を誤るの。私だって同じ。だから、私が道を誤らない為には山鳥毛の……正しさが必要だわ」
小瓶から垂らされた香油が彼女の指を伝って私の指に塗り込められていく。ぬるぬると互いの皮膚が擦れ合う。余りの心地よさから離れ難く思ったが、今度こそ彼女の指は私から逃げていった。今日の仕事はおしまい、と退出を促すので、私は礼を述べてから廊下に繋がる障子に手を掛ける。燃える夕日は私の瞳に似ていた。
「小鳥。美しい君を閉じ込めてしまいたいというこの想いも、一介の部下としての正しさ故だろうか?」
「────っ……」
白い肌を朱に染める様は雪に咲く寒椿を思わせた。心情を悟られまいと唇を噛みしめ、私の視線から逃れようと俯く瞬間に垣間見せた表情。その表情が意味するものが何か解らないほど私は若くはない。足先から迫り上がる高揚感で、全身に入った刺青が熱を帯びてじりじりと疼くのを感じた。
「あの天然ぶりは卑怯でしょ……」
夜半を迎えた頃、私は執務室で一人ぼやいていた。仕事をしようがお風呂に入ろうが、山鳥毛のことが頭から離れない。綺麗な手だった。私に爪を研がれている彼は、前に一瞬だけ見たあのはにかんだ表情をしていた。極めつけは、「美しい君を閉じ込めてしまいたい」と言った時の瞳。執務室に陰りゆく夕日が差し込み、逆光で山鳥毛の表情は見え辛かったが、彼の瞳は燃える夕日よりも紅かった。今でこそご無沙汰だが、それなりに恋愛経験は積んできた。だからこそ、あの台詞は恋慕の情から生まれたものではなく、持ち主を取られたくないという物の独占欲に由来するとわかっている。初心だった頃の私なら、間違いなく舞い上がっていただろう。
「喝!喝!喝ッ!!仕事しろ、仕事!そうだ、郵便物の確認しなきゃ……あれ?」
山鳥毛から手渡された郵便物の束を掻き分けていると、中から彼が身に付けている翼型のタイピンが出てきた。記憶を辿ってみたが、いつ紛れ込んだのか検討がつかない。山鳥毛は身だしなみに気を使う男士。この時間の訪問には気が引けたが、さっと渡して仕事をしようと、私は執務室を後にした。
「障子の隙間に手を突っ込んで渡せばいいや」
前に注意された事が尾を引いている私としては、二度も注意されるのはご免だった。山鳥毛の私室は、離れにある執務室から渡り廊下を歩いてすぐの場所にある。障子からは薄ぼんやりとした灯りが漏れていた。まだ起きているらしい。聞こえるか聞こえないかギリギリの大きさで障子に向かって声を掛けた。
「夜分遅くにごめんなさい。あの、忘れ物を届けに来たのだけど……」
「入って」
取りに来てよ。胃が重たくなる心地がしたが、意を決して部屋の中に入る。顔を上げた私の目に飛び込んできた光景に後ずさりすると、背中と肩に障子の枠が当たった。
「私が言ったことを覚えているだろうか?」
「……っ、勿論!わたし、タイピンを……届けに来ただけで、すぐ、帰るから」
山鳥毛は脇息に肘を置いて優雅に寛いでいた。主人である私が来たというのに、胡座をかいて盃に口をつけている。普段の彼であれば絶対にしない振る舞いだ。銀色の生地に金色の鳥の模様が入ったド派手な着流しは、どこに売っているのだろうか。髪をおろしているのだが、内番の時は少し幼く見えるね、と南泉と煎餅をかじりながら宣っていた自分を殴りたくなった。これのどこが幼いのか。他者を圧倒する色気と威圧感で窒息しそう。執務室へ引き返そうと障子の枠に触れた手がカタカタと震えた。
「小鳥は少々見誤っているようだ。私は欲しいものの為ならば手段を選ばない質でね」
「……っ!?」
振り返って山鳥毛が手に持つものを見た瞬間、全身に衝撃が走った。彼が顕現した時に、爪の手入れの仕方を教えてあげてと南泉に渡したピンク色のネイルファイル。何故それを彼が持っているのか。彼は爪切りを使っているのではなかったのか。どうして私に教えて欲しいと請うたのか。導き出された答えは、あまりにも私にとって都合が良すぎた。そんなはずはない。風呂上がりの背中に伝う冷や汗が気持ち悪かった。
「え、あ、あの……」
「不埒な者とは私のことだよ、小鳥。正しい部下でなくて失望させてしまったかな?」
山鳥毛はうっすら笑みを浮かべながら、一歩二歩と私との距離を詰めてくる。ドッドッドッと胸が大きく脈を打って苦しい。べったりと障子に背中をつけて縮こまる私を見下ろす彼の瞳は、今日見たばかりのあの、夕日を閉じ込めたように燃える紅だった。
「『逃げたいと口走ったら斬り殺すよう山鳥毛に伝えて』……嬉しかった。年甲斐もなく、はしゃいでしまいそうなほど」
「……、え……?」
「今夜、小鳥が必ずここへ来ると信じていた」
私がみっともなく恋心を燻らせた相手が、この上なく愛おしいものを見る目でこちらを見つめている。今日まで引き摺り続けた恋の痛みは一体何だったのか。何故か、跪坐をした南泉のことが脳裏に浮かぶ。
「君はどうするつもりだったのかな?」
「なに、何を……」
「私は忠告したはずだ。夜更けに男と同じ部屋にいてはいけない、と」
都合が良すぎる意味を孕んだ山鳥毛の問いかけが、恋心に中途半端な火をつける。鍋肌に触れるかどうかの、息を吹きかけたら消えてしまいそうなとろ火。だが、どんなに小さな火種だろうと、燻っているものにつけてしまったら熱を上げて一気に燃えてしまう。
──山鳥毛も同じ想いを抱いてくれたら。なんて、都合が良すぎて夢でもありえない。これが夢なら、とんでもない悪夢だ。今すぐ醒めて欲しい。何も期待しないままでいられる、今なら。
「そして、尋ねた。不埒な者がいたらどうする、と」
「……そんなはず、ない」
「ああ、聞き方を変えようか。小鳥。君は、夜更けに私と、……どうしたいのかな?」
「──っ、」
あえて核心を突かない口ぶりに、山鳥毛には何もかも全てお見通しだったのだと悟る。恥ずかしくて、絶望的な気分だった。身の程をわきまえず、神様に恋する愚かな人の女だと、彼にだけは知られたくなかったからだ。
タイピンの縁が左手の掌の肉を抉っていく。目線の先にある足も、爪が見えなくなるほど丸まって、畳の目を噛んでいる。私の全身が、この悪夢に溺れまいとしていた。このまま溺れてしまったら、溢れてしまう。
「……私は、君に触れたい」
甘く、それでいて切なげな声音の余韻が、ほんの僅かに震えていた。本当に僅かにだけ。それがかえって彼の言葉に信憑性を与え、私の胸をついてくる。
鈍い痛みを抱えた左手が温もりで包まれた。──山鳥毛の手だ。彼の想いに包まれるような、心を注ぎ込まれるような、泣きたくなるくらい優しい手。この手を望むことすら罪だと思っていたのに。目元が熱くなり、喉の奧が震えて仕方ない。あぁ、溢れてしまう。とっさに顔を上げると、夕日より燃える紅が揺れて見えた。
「一介の部下の身でありながら恋情を持って触れること、お許し頂こう」
──恋情。音を奏でた唇が左手の薬指の爪に触れた瞬間、彼に渡せていないままのタイピンが、握力を失った手から落ちた。
私は山鳥毛が好きだった。彼から貰った香を身に纏い、花を眺め、文をしたためながらも、正しい彼の期待に応えようと溢れそうになる想いを必死に押し殺してきた。みっともない未練がましい女だと思いながら。その彼が私に恋をしていると言う。書類の山にタイピンを忍ばせて私の来訪を待つほどに。
堰き止めるものを失った想いが涙となって溢れ出し、頬を幾度となく濡らしていく。一生彼に隠していくはずだった恋心は酷く熱かった。