私が死ぬまで待って@
それは夕暮れ時のこと。玄関で飛び交う怒号がなまえの耳に届いた。彼女がいる執務室と玄関は,防犯上の理由から一番離れた位置にある。それにも関わらず聞こえるということは。原因は分かっている。大きく息を吐いて障子を開け放てば,刀にこびり付いた血錆色に燃える不気味な斜陽に見下ろされた。照らされた肌に感じる嫌な熱。左手を固く握り締め,玄関へと続く廊下を走った。
「お頭のこと・・・頼んで・・・大丈夫か?」
なまえの本丸では,出陣から帰城した男士の手入れをすぐ行えるよう手入部屋を玄関の近くに配置している。玄関に向かうと,そこは案の定,帰城した男士と出迎えた男士とでごった返していた。この日の出陣先は江戸城下。練度の高い男士でも大怪我を負ってしまうことが多い合戦場だ。入手困難な仲間の習合を少しでも進めたいとの熱意に押され,なまえは渋々出陣を許可した。出迎えた男士達が手分けして手入部屋の手配を進めていたようだ。駆けつけた彼女に南泉が声を掛けるが,山鳥毛の手入れを任せることを躊躇するような口ぶりだった。
「大丈夫だよ。ありがと,・・・っ,」
なまえから外された南泉の目線を追うと,そこにいたのは全身が傷だらけの山鳥毛だった。ジャケットを脱いで顕わになった彼のワイシャツは,血を含んでいるせいでいつもより色が重たい。ジャケットやネックレスには,彼女を見下ろした斜陽の血錆色が付着している。その一つ一つが目に入る度に,冷たい泥沼に足元を掬われ,立つことさえ覚束なくなるような恐怖に襲われた。喉がカラカラに乾いて呼吸をするのが難しい。平静を装おうにも握り締めた手の震えが止まらない。
帰城前の連絡で山鳥毛が重傷を負ったと聞いていた。傷の状態は本当に酷い。だが,彼に痛がる様子は一切なく,いつもと変わらず背筋を伸ばして立っていた。なまえと目が合うと忽ち端整な顔を覆う険しさが増していく。そして,開口一番こう言い放った。
「何をしている?そんな顔を皆に見せてはいけない」
手入部屋に入った山鳥毛はまず,刀掛台に自身の刀を掛けた。そして,その横へ壁に背を預けるように座る。手入部屋の中は,今は障子を開け放っているため僅かな光が入ってきているが,本来は真っ暗だ。傷を負うと人工光が眩しく感じるようで,電気は付けずに蝋燭の灯りを点すことになっている。なまえはマッチを擦って火を付けようとするが,手が震えているせいでなかなか付かない。軸が折れたマッチ棒が床に何本も転がった。
「私が重傷を負ったことは事前に連絡しただろう?君には冷静になる時間を十分に与えたはずだ」
手入部屋に入って初めて山鳥毛が口を開いた。口調こそいつもと変わらないが,内容は辛辣な正論だ。なまえの手が一瞬だけ止まったが,再びマッチを擦り始める。格闘の末,漸くマッチの先端に火が付き,蝋燭に灯りが点された。手入部屋を包むオレンジがかった光の中心に,蝋燭を見つめる彼女が現れる。その瞳に映る炎を見つけた瞬間,斑に赤味を帯びた刺青がその色を濃くして疼き出した。
「上に立つ者が不安を顔を出したら皆の士気を下げると分かるはずだ。恋仲の男の手入をすれば治る怪我ごときで狼狽えていたら?尚更士気を下げると何故理解出来ない?皆が君のために命を賭けて戦っている時に,私情を表に出すなど将として失格だぞ」
なまえはじっと蝋燭の炎を見つめたまま言葉を発しない。黒い瞳の中で躍る炎の揺らめきが,山鳥毛の中の苛立ちを増幅させた。気持ちを整えようと一度目を閉じる。今こそ伝えるべきか。蝋燭の炎より激しく燃える瞳が彼女を再び捕らえた。
「この際だ,はっきり言っておく。私が折れたら私の事はきっぱり忘れろ。二度と振り返るな。折れた刀は邪魔になるだけだ。君は何の役にも立たない鋼は捨てて,前だけを見て戦場を進め。私への感情も全て捨てろ。わかったな?」
「わ,忘れろ・・・?捨てるってそんなっ,」
なまえの顔が勢い良く山鳥毛へと向いた。顔には恐れと戸惑いが満ち,声は震えている。そして,これまで沈黙を貫いてきた唇が反論を紡ぎ出した瞬間,彼の刺青が瞳の色に染まりきった。同じ上に立つ者としても,一介の部下としても,恋仲の男としても,なまえの甘さを看過することはもう出来ない。
「弁えろ,小鳥ッ!」
ブワっと一気に膨張して塊となった気が,なまえに向かって放たれた。肌の表面を火で炙られる様な熱さと痛み。それなのに,背筋には氷を乗せられたような寒気が走って体がカタカタ震える。少しでも気を抜いたら卒倒してしまいそうだ。当てられた気の正体は山鳥毛の怒気だ。酸素を押し潰して息苦しさを与える威圧感を伴ったそれ。猛火に包まれた瞳がなまえを激しく責め立てた。目元や首元など服から覗く刺青も赤々と燃えている。
山鳥毛から怒りを向けられるのは勿論初めてだ。普通の女なら,いや男でも恐怖で泣き出すだろう。しかし,そこは他ならぬこの山鳥毛が欲しいと望んだなまえ。顔から完全に血の気が引いてはいるものの,手を固く握り締めて彼から目を逸らさなかった。
「君は審神者だ,覚悟を決めろッ!腑抜けた持ち主の為に命を賭けなければならない恥辱を持ち刀に与えるつもりか!?」
「・・・っ!」
「お頭,いい加減にしろよ!さっさと手入してくれ・・・にゃ!主はこっちに来い!」
見てられないとばかりに南泉が二人の間に割って入った。山鳥毛の傷を確認して手伝い札を押しつける。なまえの腕を引っ張って手入部屋から引き摺り出そうとするが,彼女は足を踏ん張って動こうとしない。おい!痺れを切らした南泉が腰に腕を回して強引に抱きかかえた。無数の冷や汗が浮かぶ青白い顔。何か言いたそうに動く唇。自分ではない男の腕が抱く細い体。刺青を這う熱と疼きを感じながら,山鳥毛はそれらを黙って見つめた。
「・・・・・小鳥。声を荒げて,・・・すまなかった・・・・・・」
手入部屋の障子が閉められる寸前。申し訳なさそうに震えた声に驚いて振り返ると,がっくり項垂れた山鳥毛の姿が一瞬だけ目に入った。ピシャンと,障子の桟が乾いた音を立てて閉まり,なまえと山鳥毛の間に決定的な溝を作る。彼女は左手をきつく握り直した。こんな時にまで,一介の部下として主に非礼を詫びる山鳥毛。彼の正しさに初めて嫌気が差した。貴方の期待に応えられない愚かな女に許しを請う必要なんてないのに。だがそれ以上に,血塗れで傷だらけの彼に気遣われてしまう自分が,無様でみっともなくて許せなかった。
「・・・これでよし,と」
パチン。金属が嵌まる音が書庫に響いた。ファイル式の本に綴ったばかりの書類に目を通すなり,なまえは大きな溜息をついた。本日の出陣記録だ。重傷を負った山鳥毛の姿。流れ出る血を見た瞬間に感じた恐怖。その彼に受けた叱責。とても長い一日だった。瞼を閉じると,耳の奧で音が鳴って,黒で塗り潰された視界がぐるぐる回転し始める。精神を摩耗したせいか,体にのし掛かる疲労は激しかった。
重たい瞼を持ち上げて,なまえは暗闇に包まれた書庫をぐるりと見渡す。審神者に就任した時に比べて随分と書棚は充実した。本丸に顕現した男士も増えた。今が余裕があるわけでは決してないが,就任したての頃,数少ない男士とあれこれ試行錯誤して出陣を重ねてきた思い出が次々に脳裏を過ぎっていく。
「丸っきり成長してないな・・・」
心底呆れきった乾いた笑いが出てしまう。軽傷で帰城した男士を見て慌てたり,彼らの血を見て大騒ぎしたり。その度に,戦に怪我は付きものなのだから,一々動揺するなと叱られた。今でこそ見慣れたが,それでも酷い怪我を見れば内心やはり動揺してしまう。なまえは非力な人の子だ。戦うことを命じるだけで自分は血を流さない。無責任な人の子の采配一つで,男士の命は簡単に散り果てる。手に握らされた彼らの命の重みを突きつけられる瞬間は,いくら戦いを重ねようが慣れるものではない。男士が増えれば増えるほど,命の重みは増していく。
「・・・覚悟を決めろ,か」
重傷を負って全身血塗れの山鳥毛を見て沸き立った恐怖。愛しい男を失うという単純な恐れではない。正しい判断のみを積み重ねた上でしか存在し得ない,刀剣男士の命の儚さ。この根源的な恐れを彼からも感じてしまった。判断を誤れば彼も死ぬ。命のやり取りの前で,愛は何の免罪符にもなりはしない。背もたれに身を預けて椅子に深く沈み込む。瞼が次第に重たくなっていき,その重量に逆らわずに閉じれば,意識もどっぷりと暗闇の中に沈んだ。
真っ黒な世界の中,突如として,豪奢な炎の刃紋が燃える白刃を携えた紅い瞳が現れる。白銀色の眩しい光を放つ切先が,なまえの柔らかい喉元に宛がわれた。僅かにでも動けば肉を割かれるだろう。一介の部下として常に正しい彼が主人に刃を向けるなどあり得ないが,こうされることが当然な気がして,なまえは静かに受け入れた。此方を真っ直ぐ見下ろす冷厳な佇まいは,一さじの甘さも含まない。この姿こそ彼の本質なのかもしれない。苛烈に燃えながらも温度を持たない燎原の火に魅入る人の子に,紅い瞳の付喪神が宣託を下した。
ーーーー覚悟を決めろ。そして,忘れろ。
闇底に沈んでいたなまえの意識が一気に引き戻された。壁に掛かった時計を見ると,長針は僅かに進んだだけ。だが,夢見は非常に悪かったらしく,左手は固く拳を握っていたせいで関節が強張っている。執務室へ戻ろう。本を書棚に戻し,彼女は書庫を後にした。
「・・・小鳥」
「っ!さ,山鳥毛!・・た・・・体調は?」
夜が更けて久しい。大広間で宴会が行われていることもあって,もともと人通りの少ない書庫周辺は閑散としていた。なまえが書庫を出て執務室へ戻ろうと一歩踏み出した瞬間,後方から声を掛けられる。声の主は,ついさっきまで夢の中で逢っていた刀だ。振り返って紅い瞳と目が合った瞬間,冷たく燃える炎を思い出し,声が喉に引っかかって上ずってしまう。恥ずかしいぐらいぎこちない。何も問題ないよ。そう返す着流し姿の山鳥毛は,当たり前だが,傷の一つも残っておらず血色も良い。いつもの悠然と構えた立ち姿は夢で逢った彼と同じ。襟や帯に一切の乱れがない様子から,宴会に参加していないのだとわかる。なまえが書庫から出てくるのを待っていたのだろう。作業を邪魔しないようにと書庫に立ち入らないあたりが,流石は正しい部下だ。だが,笑顔はどこかぎこちない。
「・・・さっきは,」
「・・・先程は,」
なけなしの勇気を振り絞り,夕方の出来事について切り出したが,間の悪いことに山鳥毛の声と被ってしまう。先程は。どうやら,彼も同じ話題を切り出していたようだ。しかし,なまえには,再度切り出す勇気も話を促す勇気も,もう残っていない。視線を避けるように床板に目を落とせば,トゥリングが光っていた。山鳥毛に抱き締められながら外してあげたあの夜。もう二度と夜を共にすることはないのでは。悲観の限りを尽くして黙り込む彼女に引き摺られてか,山鳥毛も一言も発しない。向かい合ったまま,二人はただただ気まずい空気に身を任せた。
あるじさま。沈黙で塗り固められた重苦しい空気に,可憐な声が遠慮がちに割って入ったきた。なまえが勢い良く顔を上げると,本当に申し訳なさそうな顔をした五虎退がいた。当然,彼も夕方の出来事を知っている。立ちこめる空気を察知したのか,顔には心配の色が浮かんでいた。
「お,お話中にすみません。宴会で酔っ払って足を怪我された方がいて・・・。手入れをお願い出来ますか?」
「怪我!?今すぐ連れてきて!」
なまえの本丸の男士は酒好きばかり。毎日飲んだくれているが,何故だか今夜は,鼓や笛を奏で,盆と正月が一緒に来たようなドンチャン騒ぎ。ついさっきまで和太鼓の音もした。今日一日のどこに盛り上がる要素があったのか。彼女にとっては,今日を境に一生喪に服すぐらい暗澹たる人生を送るかもしれないのに。少し恨めしい気持ちもするが,彼らの空気の読めなささに感謝した。山鳥毛と作り出したこのどうにもならない空間から逃れることが出来るのだから。
「・・・ごめん。行かないと」
「・・・いや,引き留めてすまない」
山鳥毛はなまえに伸ばしかけた手を引っ込めた。幸い彼女は気付いていない。廊下の反対側から,五虎退が足を怪我を負った男士を連れて向かってきた。なまえが怒鳴り散らしながら駆け寄ると,楽器片手に千鳥足の男士が嬉しそうに彼女に手を伸ばす。肩を抱いて引き寄せ,もたれ掛かるように体を密着させた。それをみとめた瞬間,触れられずに引っ込めた手がぴくりと反応する。甲に入った刺青が熱を孕んで痛い。手入部屋の障子が閉まるまで,山鳥毛は自分ではない他の男が抱く肩を黙って見送った。
「気にすんな,お頭が言ったこと。戦の時に主が私情を挟んでるだなんて誰も思ってねえから」
なまえが山鳥毛から叱責を受けたあの日から一週間が経過した。あの日以降,彼女は更に前のめりで執務に没頭する日々を送っている。今夜も徹夜で仕事する彼女にもとに,こんのすけを連れた南泉がやって来た。山鳥毛に苦言を呈されて以降,夜更けに来たのはこれが初めて。また二人きりでいるとバレたら何を言われるかわからないため,保険でこんのすけを連れて来たのだ。表面上いつもと変わらぬ様に取り繕っているが,そこは二度目の逢瀬にあれだけ難儀した二人。端から見ればギクシャクしているのは明らかだった。
「いや,山鳥毛は正しいよ。あんなに怪我したの初めてだったから動揺しちゃって。皆にも心配掛けちゃった。これ見て,恋文だって。山鳥毛とこんなことになってるから,私を慰めようとして書いてくれたんだよ。こんな気遣いまでさせちゃって。情けない・・・」
「んぁ?あっ!?宴会の次は恋文かぁ!?ちょっと見せろっ!」
なまえの発言に苦い顔をした南泉は,取り上げた文を目を皿にして読み始める。読み終えるなり,お頭には黙ってろ,血の雨が降るぞ。と物騒な事を言いながら懐にしまった。そして,お頭のところに行け。と山鳥毛の部屋の方向を指差す。馬鹿馬鹿しい。顔を顰めるなまえに,南泉とこんのすけが噛みついた。
「おいおい。まぐわいを甘く見てんじゃねえよ。昔はな,実家と子供の為,非力な女が体一つで男と対等に勝負する戦だったんだぞ?男にとっても寝首を掻かれるかもしれねえから命懸けなんだ」
「そうでございますよ!審神者様も男を瞬時に昇天させる秘策の一つは当然お持ちでしょ?」
「戦!?この前,女のもとに通う意味うんぬん言ってたのって,そういう意味だったの!?」
「んぁ?タイマンだって言ったろ。ところで戦況はどうなんだよ?一家の長相手に,ちまちました戦いしてんじゃねえだろうな?」
南泉が枕カバーを拵えるぐらい真剣だった理由。至って真面目な顔で語る南泉とこんのすけの顔を見て納得した。南泉は山鳥毛と同じ鎌倉時代に打たれたとされる刀。つまり,山鳥毛にとってセックスとは,甘ったるい睦み合いではなく一対一の戦だったということ。なまえは膝の上に乗せた左手をぎゅっと握る。力む度に血の気を失って黄色く変色した。
ジェネレーションギャップなんて言葉で片付けられないほど,かなりショックな事実だった。生娘をとっくに卒業しているが,今まで実家の存亡を賭けて男と寝た経験なんか当然無い。なまえにとって山鳥毛との夜は,まさに甘ったるい睦み合いそのものだった。審神者という特殊な職業に就いているが,その辺の感覚は普通の女性と変わりない。
山鳥毛との夜を思い出したなまえの精神は,絶望の底の底へ叩き付けられた。よがり狂って勝手に腰を振った挙げ句,ボロボロ泣いているところをイイようにされた完全敗北。初夜より事態が悪化しているではないか。
「戦況はっ!悪化の一途を辿っている・・・秘策も,ない!!」
バンッ!固く握ったままの左手で文机を思いっきり殴りつけた。そして,そのまま文机に突っ伏してしまう。声を震わせながら発せられた悲壮な叫び。南泉とこんのすけは神妙な面持ちで顔を見合わせた。溺れてごらん。甘い言葉に唆されてすっかり溺れてしまった夜。心が溶けてしまうあの眼差しも体が蕩けてしまうキスも。それら全ては額面通りに受け取ってはならないものだったなんて。鎌倉時代だったら,実家は滅亡し,子供は打ち首になっていたかもしれない。
(・・・みっともない。鵜呑みにして,馬鹿みたい)
前回,鎌倉時代の閨事について調べる前に開戦してしまった。戦の事前準備を怠るなんて将として愚の骨頂。なまえは己の未熟さを恥じた。あの日,山鳥毛に指摘された覚悟の甘さとは,閨での振る舞いも引っくるめてのものだったのだろう。審神者としても女としても彼の期待に応えられる気がしない。というか,そもそも何故,山鳥毛相手に戦わなければならないのか。それ以前に,愛しているというあの言葉も信じて良いのだろうか。なまえの脳内で彼と過ごした夜がグルグル巡る。
「ったく,しょうがねえな。今すぐお頭のとこ行け。数打ちゃ当たる戦法だ・・・にゃ!」
「とりあえず一戦交えれば諸々の事は解決しそうな気がするんですけど。上等な乳当てでも付けて股を開けば,堅物の山鳥毛様の山鳥毛様が堅物に,」
「江戸城短距離で,レア5苦無相手に銃兵使うぐらい無意味!攻撃は回避されるし,すぐ剥がされて終わり!!」
「んあーお頭の初心なところが裏目に出たか。よーし,オレが拵えてやるしかねえな」
どこが初心なの!?なまえの非難がましい声など意に介さず,南泉は頭をガシガシ掻く。褥に転がされるなり,紅い瞳を甘やかに細める山鳥毛に丸裸にされた。ブラジャーは彼にとって未知なる物体だったはずなのに。どうやって外されたかすら記憶にない。寝室に招き入れた時に勝負は決まっていた。圧倒的な力量の差。振り返れば振り返るほど,なまえの脳は冷静さを取り戻していく。恋する女とはいえ歴戦の審神者。悲しいかな。これは戦だと言われれば,脳が戦モードへと勝手に切り替わってしまうのだ。
「算多きは勝ち,算少なきは勝たず。勝ち目のない無謀な戦をしてはならない。戦の鉄則ッ!・・・せめて五分の戦いに持ち込むべく,事前に経験値をもっと上げておくべきだった」
「はぐー。人の男相手のしょっぱい経験値を上げて見栄張っても仕方ないでしょ?審神者様はええ格好しいですねえ」
「うんまい経験値狙って,万屋の入り口にでも張り込んで,余所の山鳥毛に『お手合わせお願い申し上げる』ってカチコミすれば良かったの!?」
太刀が勃ちますかね?なんちゃって。呑気に油揚げを食べながら,クスリとも笑えないダジャレを言うこんのすけ。なまえの本丸担当のこんのすけは下ネタ好きなのだ。一方の南泉は,操を立てろ!お頭に首を刎ねられるぞ!?と,顔を真っ青にさせて慌てふためいている。
「小豆から兵法を学べ。長船派は凄いぞ。枕の敷布を拵えて周りから固めれば,あの堅物達でも上手くいくって策を授けてくれたのは小豆なんだぜ?」
あの恥ずかしすぎる枕カバーは小豆の策略だったらしい。色々と突っ込みどころがあるものの,今のなまえに突っ込む気力はない。今更学んだって。完全に打ちのめされた彼女が消え入るような声で呟いた。心なしか声が潤んで聞こえる。そんななまえを見て眉を下げた南泉は暫く沈黙した後,静かに語り掛けた。
「忘れろなんて言われたままで良いのか?はっきり言ってやれよ。置いていかれるとしたらどうしたいのか。置いていくとしたらどうして欲しいのか。・・・死んだら何も話せなくなるんだぞ?」
僅かに苛立ちを滲ませた核心をつく言葉にビクリと肩を震わせるも,なまえは下を向いたまま何も言わなかった。南泉の視線が彼女の肩から左手へと向きを変える。あの日からずっと固く握られたままの手。三つの色を複雑に混ぜ合わせた瞳が悲しそうに揺れた。
夜半も過ぎた頃,山鳥毛の部屋の障子が静かに開く。中から出て来た部屋の主は,青みがかった黒い空に浮かぶ月を眺めた。堂々たる存在感を放つ月の隣には小さな星が一つ寄り添って,仲良く光を分け合っている。あの日以来,なまえとまともに会話を交わしていない。話せたとしてもお互いの性格が災いして,業務的なやり取りのみで会話は全く続かなかった。きちんと話し合いたい。山鳥毛は電気が漏れる執務室に向かった。
「ーー,ーーーーちまちました戦いしてんじゃねえだろうな?」
渡り廊下を越え,執務室まであと数歩のところで足を止めた。南泉の声が聞こえてきたからだ。こんのすけが油揚げを食べる音もする。途切れ途切れに漏れ聞こえてくる声は緊張感が漂っており,ただ事では無い雰囲気だ。更に歩を進めて障子に手を掛けようかと思ったその時。
「戦況はっ!悪化の一途を辿っている・・・ーーーー,ーー!!」
切羽詰まった声と文机を殴り付ける鈍い音に息を呑む。男士に説教をして声を荒げることはままあるが,ここまで悲壮感漂う声は聞いたことがない。ましてや,なまえが物に当たるなど山鳥毛の記憶には全くないことだった。その後も漏れてくる彼女の声はどれも苦しそうで,聞いていて胸が苦しくなる。歴史修正主義者との戦いは,彼が想像していたより厳しいようだ。
「小豆から兵法を学べ。ーー,ーーーー」
骨が軋む音を立てるほど拳に力が籠もった。小豆が顕現したのは山鳥毛よりも先で出陣の経験だって豊富だ。彼から兵法を学ぶという選択肢は正しい。だが,頭では理解しているのに,なまえの役に立てない自分に腹が立つし歯痒かった。今のままでは彼女に合わせる顔がない。障子に揺らめくなまえの影を瞳に焼き付ける。おやすみ。声は出さず口だけを動かして,山鳥毛は来た道を戻った。
「・・・子猫。私に言いたい事があるのだろう?」
あの日から二週間が経った頃,山鳥毛は小豆から茶会の誘いを受けた。鍛錬をしたいからと断ったが,なまえのことで話があると言われてしまえば参加するしかない。茶会の場には南泉もいた。山鳥毛の真向かいに陣取り,威嚇する猫のように彼を睨んでいる。あの日からずっとこの視線に晒され続けているのだが,正直言って鬱陶しい。煩わしさを飲み込んでしまいたくて,紅茶で満たされたティーカップに口を付ける。立ち上る湯気の向こうから,山鳥毛を睨み付けたままの南泉が苦々しい顔で言葉を吐いた。
「お頭は正しい。・・・いつだって正しい」
「言いたいことはそれだけか?」
山鳥毛はソーサーにカップを置いて,南泉を真っ直ぐ見据えた。言葉選び,口調,カップを置く優雅な仕草。黙って相手を見つめる様も含め,その全てに凄みがきいている。この本丸の山鳥毛は言外に他者を圧するところがあり,あの日以来,その凄みは増す一方だ。だが,いつもなら完全に臆する南泉がこの日ばかりは違った。
「・・・あそこまで言う必要があったのか?」
「誰が折れようとも将たる者は決して振り返ってはならない。私が折れたとしてもそれは同じだ。私情を捨て前だけを見て戦う覚悟のない者に刀を率いる資格はない。小鳥にはそうなって欲しくないだけだよ」
「・・・っ,覚悟なんてとっくに決めてんだよっ!主の左手,ちゃんと見てるか!?ねえだろうな!いつも誰かが怪我する度に,悩む度に,涙を堪える度にきつく握りしめるから,掌に爪が食い込んで傷が出来てんだ!そうやって,ずっと戦って来たんだよ!」
南泉の拳が机を叩いた衝撃で,カップが縦に激しく揺れ,波立った紅茶がソーサーへ流れ落ちた。彼の怒りは収まらず,更に目を鋭くさせて山鳥毛を睨み付けている。一方の山鳥毛は,狼狽を顔に漂わせることもなく,黙って南泉の視線を受け止めた。
「お頭の正しさは何の為にあるんだよ?主から涙を奪う為か!?手を握ってやれよ!何が忘れろだ・・・ふざけやがって。惚れた女の傷の数も知らねえくせに,偉そうなことばっか言ってんじゃねえ・・・にゃ!」
勢い良く立ち上がった南泉は,ショートケーキが乗った皿を持って部屋から出て行ってしまった。しっかりおやつを持って行った彼に小豆は声を出して笑ったが,山鳥毛は表情の硬さを崩さない。ふぅっと肺の中の重たい空気を吐き出してから口を切った。
「小鳥に兵法を授けているそうだな」
「へいほう?・・・あぁ。よその山鳥毛にたのむしかないとおもいつめているから,みていられなくてね。きみのためにがんばっているよ」
「余所の私だって?・・・気休めは止してくれ。余所の私に頼ろうとする程,小鳥に信頼されていないのに。それも当然か。彼女にそんな癖があったなんて気付きもしなかった」
わるいおとこにつかまって,かわいそうだ。口角を上げる小豆に山鳥毛は眉根を寄せた。小豆から兵法を学ぶに飽き足らず,余所の自分に協力を求めようとしていたなんて。なまえの一番近くにいるはずが,南泉に指摘されるまで彼女の癖に全く気付かなかった。何て無様な。山鳥毛は己の不甲斐なさを恥じた。
「このむねでなけと,あまいことばをささやくおとこがあらわれても,まどわされずにいられるのかな?」
「止めろ。小鳥はそんな女ではない」
「みなが,きみとこいなかになっても,なにもいわないりゆうはわかるかい?いずれじぶんのてにおちるとおもっているからだよ。いまだって,ものやふみをおくって,きをひこうとしている。しっているのさ,ひとのこはよわいということを」
おなごはあまいものでできている。意味ありげに呟いた小豆は,ショートケーキの頂点に乗った苺をフォークで刺した。刀と同じ銀色が開けた穴から,じゅわりと真っ赤な果汁が溢れ出す。なまえの唇や舌を思い起こさせる赤。それを口に入れた小豆の笑みは一層深みを増した。
「あのひとのこは,いつまでたえられるかな」
小豆の手中にある銀色が赤を纏って鈍い光を放った。まるで,なまえが男に貫かれて貪られているみたいだ。細い体に巻き付いた腕。華奢な肩を抱く手。あの体に自分ではない他の男が触れた場面が頭から離れない。ーーあぁ,まただ。刺青が燻されるような熱と疼きを持つ。フォークを見つめる山鳥毛の顔には不愉快さがありありと浮かんでいたが,彼はそれを隠そうとはしなかった。
「今夜も灯りが付いてる・・・」
皆がとっくに寝静まった頃。なまえの執務室の障子が音を立てずに開く。中から出てきた彼女は,執務室と渡り廊下で繋がった先にある建物の一室を見つめていた。山鳥毛の私室だ。板張りの廊下に付けた素足は踝までキンと冷えて痛い。あの日から毎晩,今夜こそ会いに行こうと決心して廊下に出ては,その決心が揺らいで彼の部屋の様子を窺うだけの日々を過ごしている。会って何を話せば良いのか。そもそも会って貰えるのか。また叱られてしまったら。一度弱気の虫が顔を出すと,もうどうにもならなかった。
見上げた空には月と一粒の星が輝いていた。その明かりのおかげで彼の部屋が良く見える。時折,障子から漏れる灯りに影が揺らいだ。山鳥毛の影だ。姿は見えずとも彼の存在を感じて,みしりと,心臓が針金で締め上げられたかのような軋んだ音を立てる。喉の奧がきゅっと引き攣れば,眼の中に浮かぶ彼の影がじゅわりと滲んでいった。なまえは慌てて自室に引き返して障子を閉める。
「・・・・・畳,替えたばっかりなのに」
ぽたりぽたり。降り始めた雨がアスファルトを濡らす様に,大きな涙の粒が青い畳を濃く染めていく。何度も何度も同じ箇所に落ちては畳が吸い取っていった。なまえは初めて山鳥毛に抱かれた夜を思い出す。彼から恋心を打ち明けられて,こうして泣いたあの夜をだ。だが,あの夜の涙は山鳥毛が受け止めてくれた。彼の腕の中,涙は着流しを濡らした。今夜とは何もかもが違う。
なまえは,山鳥毛に受け止めて貰えず重力に従って,虚しく流れ落ちていく涙を見送った。左手を強く握りしめて嗚咽を殺しながら。泣いていることを男士に悟られぬよう,ここへ来て覚えた泣き方だ。彼に出会うまでは,こんな風に一人で泣くことが当たり前だったのに。涙を受け止めてくれる人の不在が,こんなにも寂しいとは知らなかった。もし,万が一。山鳥毛がいなくなってしまったら。彼が望む通り,彼の全てを忘れて前に進むことなんて出来るのだろうか。一人で泣く日に戻ることが出来るのだろうか。
「忘れられる・・・わけ,ない・・・・・,私は・・・」
山鳥毛はいつだって正しい。手入をすれば治る怪我に一々動揺して,男士に心配をかけるなどあってはならない。ましてやそれが恋仲である山鳥毛の怪我だったら。命のやり取りをする場面で私情を挟めば,なまえの思いを拠り所に戦う彼らの士気が低下するのは明らかだろう。手入部屋の障子が閉じられる寸前に見た項垂れる山鳥毛の姿。彼は痛みに苦しむ姿すら見せることを良しとしないのだろう。みっともない,恥知らず。己に与えられた職務を禄にこなすことすら叶わない自分を罵った。握り締める左手の掌に爪が食い込んで痛い。だが,こんな痛みは彼が味わった痛みに比べたら取るに足らない。
山鳥毛は自分が死んだら忘れろと言った。死を引き摺らせないという並々ならぬ覚悟を感じた。きっと,なまえが死んでも何事もなかったかのように正しい刀として毅然と生きていくだろう。それで良い,それが良い。長い時を生きていく彼が引き摺る思い出になんてなりたくない。でも,自分が置いていかれる立場だったら。死ぬまで引き摺り続けて,彼の思い出と共に死ぬだろう。彼を忘れる時は死ぬ時だ。元々,みっともなく恋心を燻らせてきたのだ。忘れろと言われて大人しく忘れられるほど,お行儀の良い愛し方はしていない。
なまえは色を変えた畳の上に膝から崩れ落ちた。顔を覆う指の隙間から次々に溢れ落ちていく涙が,今度は彼女の腿を濡らしていく。ここでもやはり,涙は山鳥毛に受け止められることはなかった。
あれから三週間が経った。この日,山鳥毛は上杉ゆかりの男士と遠征に出ていた。任務が重なって互いに忙しいこともあって話し合うことが出来ず,なまえとの仲は変わらぬのまま。本丸に戻る前に寄り道しようと五虎退と謙信に強請られ,万屋前の大通りにやって来た。余所の審神者や男士が行き交い,賑やかで活気に満ちている。周囲の様子を何となく眺めながら歩いていると,前を行く五虎退が声を上げた。
「あ,あるじさま・・・」
山鳥毛達がいる場所からそう遠く離れていない所になまえがいた。その隣には余所の山鳥毛がいて,二人は何か話し込んでいるようだ。視線を感じたので下を向くと,五虎退と謙信が気まずそうに彼を見上げている。気にする必要はない。言葉の代わりに口の端を緩く上げて見せたが,彼らの表情は変わらなかった。
あぁ,そうか。再び視線をなまえへ戻した山鳥毛は納得した。自分が彼女の隣にいる時はあのように見えているのかと。あの光景は,なまえの隣に居続ける限り見られなかったもの。彼女の左手がふいに目に入り,針で刺すような痛みが胸に生まれる。今の自分は隣にいる資格はない。視界を遮るようサングラスのブリッジを持ち上げてから,もう片方の手中にあるものへ口元を寄せた。
「・・・これを小鳥に。鍛錬をしたいから私は先に戻る」
遠征先から持ち帰った白百合の花弁に山鳥毛の唇がそっと落ちた。名残惜しそうに花を小豆に渡すと,小豆が反応する前にジャケットの裾を翻してその場から去ってしまう。彼がこの花を誰に見立てたのかは明らかだ。やれやれ。小豆は苦笑いを浮かべながら前に向かって一歩踏み出した。
「だめじゃないか!へいほうのおべんきょうはおわってないんだぞ?」
「手合わせは・・・まだ早いです。急いては事をし損じると,いつもあるじさまが仰っているではありませんか」
「ん!?ち,違うってば!道案内をしただけ!」
突然,凄い剣幕で現れた短刀に驚いたなまえだったが,彼らの発言の意図に気付いて慌てだす。余所の山鳥毛相手に夜のカチコミを挑んだと勘違いされたからだ。謙信と五虎退も兵法の勉強に付き合っているのだが,可愛い見た目をしていても中身は歴史ある短刀。豊富な知識を持っているらしく,なまえへの指導は小豆よりも厳しいものだった。
「・・・・・・百合,・・・山鳥毛は?」
「たんれんをするために,さきにかえったよ」
あずかったよ。と,小豆から渡された花を見て,なまえの目に悲しみが浮かぶ。あの日以来,まともに話すことすら出来なくなった二人だが,遠征先から花を持ち帰った時は必ず山鳥毛が届けてくれた。今の彼女にとっては唯一,彼との繋がりを実感できる時だったのに。ついに愛想を尽かされてしまったのかもしれないと不安が募る。
恋仲になる前からもう何度も花を贈られてきた。どんな花も山鳥毛に手渡されるだけで嬉しくて,一番目に留まる機会が多い文机の上に飾ると決めている。朝も昼も夜も,花を眺めては贈り主の顔を思い浮かべた。花を贈られて悲しみを覚えたのは今日が初めて。威厳を表す白百合は山鳥毛そのものだ。堂々として何もかもが美しく正しい刀。なまえは花びらに口付けた。ここにはいない彼を思い浮かべながら。
「・・・きみたちは,かたこいをしているみたいだな・・・」
なまえが顔を上げると,僅かに目を見開いてどこか照れを含んだ表情の小豆がいた。頬も耳もほんのり赤い。いつも涼しい顔をした彼にしては珍しい。片恋。本当にその通りだ。想いばかりが募って焦がれてどうしようもない。出会った瞬間からずっと恋をして囚われ続けたままなのだ。紅い炎が燃ゆる美しい刀に。なまえはもう一度キスをして,白百合に秘密を閉じ込めた。
あの日から一月近くが経とうとしていた。いまだに二人の仲が改善しないことを心配したこんのすけから,本丸の歴史を振り返ってみてはどうか。と書庫のとある鍵を渡された。なまえが審神者に就任した日から綴られ続けている業務日誌。厳重に施錠された書棚に保管され,鍵はなまえとこんのすけが一つずつ持っている。閲覧出来るのは彼女だけだが,書庫を管理するこんのすけが予備を持っているらしい。暫くの間,蔵書確認をするから書庫には近づかないようにと彼女に嘘を付いて便宜を図ってくれたこんのすけ。おかげで,なまえの目を気にせずに書庫に来ることが出来た。
「此処か」
書庫の奧にある金庫の様な書棚。他の書棚とは異なり,収められた本の背表紙は見えない造りだ。山鳥毛はカードキーの差し込み口にこんのすけから渡された鍵を入れた。ピッと短い電子音が鳴った後,カチャリと錠が外される音がする。背表紙に“一”と書かれた分厚い本を手に取り,キャレルの一席についた。
なまえは就任した日から,あらゆる事を事細かに記録を付けていた。パソコンで打たれた文字が並ぶのを目で追う。獲得した資材や小判の数,出陣の戦績や遠征の回数。驚いたのは,日々の献立や鍛刀で行った験担ぎの内容と結果までもが書かれていた。だが,彼女自身に関する記述は一つも見つからない。
「『合意内容は以下の通りーー』」
ある日の記述で,出陣のあり方を巡って男士達と話し合いが持たれたとある。無理な進軍はさせたくないなまえと,多少無理してでも戦果を上げたい男士との衝突。話し合いの末,怪我も刀装も自動回復される出陣においてのみ好きにして良いとの合意に達したようだ。実際は激しいやり取りもあっただろうが,淡々と事実のみを羅列する書きぶりに,なまえが極めて冷静に行動していることが読み取れた。
「『戦うことが刀の本分だ,戦わせろ。皆,口を揃えて言うーーーー』」
それは,男士の手入れに関する記述でも同じだった。怪我をした原因や怪我の程度などが敗因分析と共に客観的な事実のみが記されている。だが,持ち刀を大事にしたい気持ちと,武器として生まれた刀の付喪神の本能を理解したい気持ち。相反する気持ちへの葛藤が読み取れた。あの日,重傷を負った山鳥毛に表情を強張らせたなまえを思う。どれだけの葛藤を抱えながら今日まで来たのだろうかと。業務日誌に書かれた本丸の歴史は彼女が負った傷の数でもある。山鳥毛が愛したあの細い体は,彼が顕現する前からずっと,重荷を背負って傷ついてきたのだ。
「その調子だと全部読み終えるまで時間が掛かりそうですね」
「・・・こんのすけ」
どこからともなく現れたこんのすけは,キャレルの机の上に座ると後ろ足で首を掻いた。なまえに蔵書確認すると言った手前,アリバイ作りのためにやって来たらしい。山鳥毛が手に持つ本の背表紙を黒い目が捕らえる。これは懐かしい。しみじみとした声を漏らした。
「鍛刀の験担ぎはご覧になりました?近侍と一緒に竹輪を食べながら西に向かって走る,通称・竹輪だっしゅ。いまだに続いてますよ。あ,一巻の内容は把握してます。業務日誌の書き方を指導したので」
「真面目にやってる小鳥には悪いが,少々笑ってしまった」
「政府に送った苦情の写しも付いてたでしょう?やれ,富士札が腐ってるとか。きゃんぺーんの時,この本丸は竹輪地獄と化しますよ。審神者様が山鳥毛様とも竹輪だっしゅをやるか見物です。ちなみに私の予想は否ですね。あの方,貴方様の前ではええ格好しいですから」
おどけた感じで語るこんのすけに,ここ最近,常に難しい顔をしていた山鳥毛が柔らかい笑みを浮かべた。手元の本に目を落とすと,更に柔らかさを増して,瞳の紅が蕩け落ちそうだ。なまえが愛おしくて仕方ない,そんな表情だった。
「几帳面な性格とはいえ,ここまで細かく書いていたとは驚いた。出陣について皆と衝突していたなんて・・・」
「刀の付喪神の性分を人の子が理解するのは容易なことではありませんから。まぁ随分と揉めました。今では笑い話ですけど。細かく書くのは使命感からでしょう」
「使命感?」
「自分のもとに来た刀の歴史を残さなければならないという使命感ですよ。名剣名刀は来歴や逸話が命。審神者様が記録を残さなければ空白が生まれてしまうでしょ?100年にも満たない短い期間ですが」
山鳥毛の蕩けた紅に影がさした。生きる時の長さがあまりにも違うこと。人の命を何度も見送ってきた山鳥毛は,その命の儚さを十分承知している。だが,なまえは恋仲というこれまでにない特別な間柄。今までと同じように受け入れることが出来るのか,答えを出せないでいた。いや,なるべく考えないようにしているというのが正しい。
「永遠の時を生きられない人の子は,自分が生きた証を残したいという本能があるのですよ。子を産んだり財産を残したり。でも,審神者様は・・・。敢えて残さないようにしているとしか考えられなくて」
なまえをずっと見守ってきたこんのすけでさえ,彼女について知っていることは少ないという。山鳥毛が業務日誌を読んで感じた違和感。それは,男士と生活を共にしている彼女自身についての記述が丁寧に取り除かれていること。不自然なぐらい何も書かれていないのだ。
「あの方が何かを残すとすれば・・・余程大切なものでしょう。短い命の全てを賭すほど」
「・・・・・・。私は小鳥のことを・・・何も知らないようだ」
紛れもない本心だったが,口に出してみると存外ショックを受けていたと気付く。小さく息を吐いて呼吸を整えるも,チクンと胸を刺す痛みが止む気配はなかった。振り返ってみれば,なまえの過去,好きな物,嫌いな物など,どれをとっても何一つとして思い浮かばない。夜の彼女はと言いたいところだが,まだ二晩しか情を交わしてしないのだから,知っていると胸を張れるわけがない。
恋仲になる前から花や香など贈り続けてきたが,なまえを価値ある物で飾ることによって,君にはこれだけの価値があると伝えたい一心だった。大名家に伝わる名刀としての価値を与えられ大事にされてきた,物である山鳥毛の愛し方。それで満足していたはずだった。だが,なまえと心を通わせ体を知ったことで,彼女をもっと知りたい,自分を求めて欲しいという人の愛し方を覚えた。手に入れた人の心と体が,物である山鳥毛に際限なき欲を植え付けたのだ。好きな花の名前すら知らないことに,もう我慢出来るわけがない。隠されているなら尚のこと。
「審神者様は何一つ残していかれませんよ。綺麗に,最初から何も無かったかのように。山鳥毛様,良かったですね?あの方が亡くなっても,なーんの未練もなく前に進めますよ。貴方様が忘れるものすら残らないのですから」
「まさか,小鳥は・・・・・・」
「・・・・・・。忘れろと迫る男と何も残さない女。お二人は似たもの同士ですね。積み重ねた思いを一方的に奪う残酷なところが特に」
言葉を失った山鳥毛は瞠目したままこんのすけの顔を見た。突然降って湧いた感情をうまく処理出来ない。なまえに忘れろと迫ったくせに都合が良すぎる。真っ黒な瞳に映る自分に向かって心の中で吐き捨てた。こんのすけは一つ溜息をつくと,山鳥毛の手にポンと前足を乗せる。彼の心を宥めるように。
「審神者様が先に亡くなったらどうしたいのですか?貴方様が先に亡くなったらどうして欲しいのですか?言葉を尽くさないと。思いを伝えられるのは,お互いが生きている間だけなのですから」
こんのすけに目をぐっと覗き込まれれば,唇を真一文字に結んで押し黙る自分と目が合った。今の貴方様は思いを伝えるための体を持っているのですよ。ポンポンと手を叩く肉球の暖かさと柔らかさに,山鳥毛は思わず口元を緩める。そんな彼を見て安心したのか,尻尾を左右に振りながら机から飛び降りたこんのすけは,闇の中へ消えていった。
「これは」
こんのすけが去った後,山鳥毛は再び業務日誌を読み出した。これからよろしくね。やっと来てくれたね,ありがとう。といった具合に,彼女の肉筆が記されているのをいくつも見つける。それは決まって,本丸に男士が顕現した時だった。この業務日誌の中で唯一,なまえの存在が読み取れるもの。この本丸に顕現した男士達への嘘偽りのない愛情に満ちていた。自分が顕現した時にも何か書かれているかもしれない。山鳥毛は胸に生まれた期待をそのままに,書棚から別の業務日誌を手に取った。目次を開き,彼が顕現した連隊戦の記録があるのを確認してから席に戻る。
「・・・っ,・・こと,り」
山鳥毛が顕現した日のページには,連隊戦の壮絶な御歳魂集めの記録が無機質な文字で記されている中,たった一箇所だけ柔らかく躍る文字があった。なまえの肉筆だ。その文字列の意味を脳が認識した瞬間,彼が彼女に向けるあらゆる感情が込み上げ,心臓を鷲掴みにされたかの様に苦しくなった。切ない。苦しい。悲しい。嬉しい。恋しい。愛しい。なまえへの恋情を自覚した時にも,初めて体を重ねた時にも,ここまで多くの感情に揺さぶられることはなかった。
紅い炎が燃ゆる美しいあなた
僅か10文字ちょっとの文字列だが,山鳥毛に向けた恋情が込められていると本能的に悟った。自惚れではない。刀を率いて懸命に戦ってきたなまえの恋。誰にも見せることのない業務日誌に彼女はどんな思いで恋情を忍ばせたのか。忙しなく鼓動を打つ胸が苦しい。背筋を伸ばして座ることが出来なくなった山鳥毛は,背を丸め,ついには机に突っ伏してしまった。
余程大切なものでしょう。短い命の全てを賭すほど。こんのすけの言葉が甦る。何も残そうとしないなまえが残した唯一の恋情。彼女にとっては,これが精一杯だったに違いない。それなのに。命を賭すほど大切なものを奪おうとしたのは,皮肉にも彼女が愛した山鳥毛自身だった。
「・・・・・・小鳥,」
あの日,男士の士気を削ぐなという叱責は正しかったと今でも思う。彼女には審神者としての職務を全うして貰いたい。そのためにはこの本丸の男士が一口でも欠けることは許されないのだ。いつまでも自分が守り続けることが出来る保障なんてどこにもない。いくらトゥリングに願掛けしようとも,いつこの身が折れるかなんてわからないのだから。実戦刀として戦ってきたからこそ,戦の厳しさは骨身に染みていた。
「君のことを忘れるものか」
誰もいない物音一つしない書庫。この上なく愛しい女に向けた独白が,静けさの中で際立った。山鳥毛は,なまえの重荷になりたくなかった。審神者としてすでに重荷を背負い続ける彼女の人生は,あまりにも短くて儚い。彼にとって流星の瞬きのような短い生を,何の役にも立たない鋼になり果てた自分への思いで埋めて欲しくない。少しでもその背を軽くして生きていく道を残してあげたい。だから,忘れて欲しい。忘れ去られる寂しさなんて些末なものだ。
ところが,思い出を奪われるとは酷く寂しいものだった。忘れ去られるよりもずっとずっと寂しくて悲しい。相手を思い遣るが故の行動は,残された者の心に決して消えない傷と痛みを残す。何も残さなければ君を忘れるとでも?なまえに選び取られなかったら,初めて体を重ねた夜を心に刻んでただの持ち刀に戻ろうと覚悟を決めたぐらいだ。簡単に忘れられるような薄っぺらい愛し方はしていない。
「覚悟を決めきれていないのは私の方だな」
お頭の正しさは何の為にあるのか。今更になって南泉の問いの重みを知る。伝えるべき言葉が他にあったのではないか。何故,泣けない女の手を握ってやらなかったのか。何故,重荷を背負う薄い背を抱き締めてやらなかったのか。なまえが負う重荷も傷も,強さも弱さも,全部引っくるめて受け止めて愛する覚悟。それが足りなかったのではないか。山鳥毛の胸に後悔が次々と押し寄せて,喉が情けないほど震えて止まらない。黒インクで刻まれた恋情をなぞると,指先が火を灯されたように熱くなった。
「・・・・・・君に触れたい,小鳥・・・」
山鳥毛は指先に熱を帯びる手を見た。刀を振るって敵の命を奪い,なまえの命を愛でるそれ。この手が細い体に触れたのはいつだったか。柔らかい唇に触れたのはいつだったか。随分と昔のことのようで,感触はもう消えてしまいそうだった。この手によって生まれる甘い吐息を聞けば,なまえの心の声を聞くことが出来た。唇を重ね合わせれば,なまえの心を肌で感じることが出来た。貴方を愛してる。何も残してくれない彼女が,全身で愛を伝えてくれたのに。
手を握ることすら出来ない今はもう,彼女の心に触れたいなんて叶うはずもない。