夏は僕が殺した



緑陰に蝉の声がうるさい。
あらんかぎりの力でボリュームを上げる、迫るような夏のノイズ。
日向から避けるように過ごしていても、汗はとめどなくTシャツの内側を伝い落ちる。
ああ、べたつくわ。
目を閉じ、モノクロの海に意識を集中させる。
周りの音すべてが遮断されるのを感じる気がした。
俺だけの手筋。
俺ともう一人が作り上げてきた、数えきれないほどの棋譜。
その姿を思い出そうとした瞬間、熱い風がむわりと通り過ぎていく。
・・・あほくさ。
こんな所で粘っても時間の無駄だとは分かっとる。
やけど、言わないと気がおさまらん。
なまえさんのあほ。馬鹿。大馬鹿野郎。
なんでやめるなんて言うんや。
ほんまにもう好きじゃないんか。
知らん間に院生じゃなくなって、普通に大学通い始めて。
院生でいられなくなるのは分かる。
だからって囲碁までやめることないやろ。
あんなに夢中になって石を打って、打って、打ち続けていたくせに。
アンタがいるべきなのは講堂じゃなく、碁盤の前やろうが。
「あ、」
影を目にした瞬間、反射的に立ち上がる。
あわてて日の下へ出ると、眩しそうな顔をしたなまえさんがびっくりしたように足を止めた。
「あれ?社くん」
「・・・どうも」
「誰かと待ち合わせ?」
暑いね、そう言ってへらりと笑った。
くそ。
胸が苦しくなる。
いつからそんなふうに笑うようになったんや。
あんなに燃えるような目で、碁盤を睨みつけていたのに。
「なんでやめたんや」
俺の声を聞いても、なまえさんはあいかわらずへらりとした笑みを張り付けたままでいる。
「別に。もう潮時かなって」
「潮時て、来年もさ来年もあるやん!」
すると、彼女の表情が変化した。
「なまえさん、」
「・・・社くんの馬鹿」
そう言った瞬間、一筋の涙が頬を伝う。
俺がそれを知った時、彼女はスカートをひるがえして走り去っていた。
あの姿が、いつまでも焼きついている。

***

クーラーの効いた控え室は肌寒いほどだ。
8月も盛りだというのに、俺と伊角さんは並んでホットコーヒーを飲んでいる。
「あの」
話しかけると、伊角さんは携帯へ向けていた意識をこちらへ移した。
「ん?」
「碁、やめたいって思ったことありますか」
唐突な質問に彼は苦笑する。
「なんだよ、いきなり」
「なんとなく」
「そりゃあるよ。あるある。だからって諦めきれなかったけど。なんで?」
「や、・・・プロ試験やめるとか、そんな簡単なもんかと思って」
足元に目を落として呟く。
古びたスニーカーに、新しくしたばかりの靴紐だけが目立っていることに気づく。
「簡単なわけないだろ。それも院生だったらなおさら」
「!、っスよね」
「けど、見切りをつけるのは大事だと思う」
「見切り・・・」
「ああ。来年こそは、みたいなモチベーションを維持することのほうが案外難しいのかもしれないよなあ」
俺は、ひょっとして酷い言葉を彼女に投げてしまったのかもしれない。
伊角さんの言うように、見切りをつけるためには囲碁から離れるしかなかったとしたら。
だとしたら最低やんか、自分。
ずるずると壁にもたれて崩れ落ちる。
「ん?」
「くそ、」
なまえさん。
俺、アンタが諦めた夢を叶えたんやで。
ちくしょう。
理由のない口惜しさがこみ上げる。
あと少し頑張ってくれたら、同じラインに立っていたかもしれない彼女にも、無神経すぎたあの時の自分にも、今さら他人に言われて気づいた今の自分にも腹が立つ。
「・・・っくそ」
「なんかあったのか?」
心配そうな伊角さんの声に、返事をする気力もない。
その時ドアが開いて声がかかる。
「今行く。・・・社」
「分かってます」
「具合悪いんなら」
「いや、すぐ行くんで。先行っとってください」
素っ気ない返事に頷いて、伊角さんは部屋を出て行った。
缶コーヒーはもう飲む気が起きない。
なあ、なまえさん。
アンタが今楽しくやってるなら別にええねん。
けど俺は、碁盤を睨み据えていた時の、凛とした姿に憧れてたんや。
多分、好きだったんやと思う。
今さら遅いけどな。
「・・・っし!」
対局、対局。
集中せえ、俺。


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