01ケニアと金髪

香ばしい香りがして、瞳子は肩の力が抜けた。

ここはカフェ「アマリリス」。半年前に建てられたコーヒー専門のカフェで、桜木瞳子は週に三回はやってくる常連だ。

瞳子がアマリリスを知ったのはちょうど二ヶ月前。図書館の隣に白い建物ができたのを見かけて、ふらりとジョギング途中に立ち寄ったのがきっかけだった。
ブラジル産の豆を主に扱う、質の高いコーヒーを提供しているこだわりのある店だ。その分一杯の料金はややお高めで、フードメニューはそれほど多くもない。
それでもこの店が人気な理由はただひとつ。それは――

「お待たせしました、春のブレンドです」

ぼうっとしていた瞳子の前に、そう言って一人の店員が現れる。
彼女はソーサリーをそっと置き、流れる所作でコーヒーを注いでいく。その人を瞳子は静かにちらりと見た。ネームプレートの名前は……待崎。
髪は明るい金髪に、切れ長の目が奥に潜む黒縁眼鏡。耳には沢山のピアス。男性のように長身ですらりとした佇まいをしているが、手首や物腰から女性だとわかる。整った顔立ちも含め、誰もが目を引くこの人がいるからこそ、このアマリリスは人気なのだろう。

かくいう瞳子もこの待崎が気になる一人だった。
美しい彼女を見ながら飲むコーヒーは特別な気がして、仕事で疲れた瞳子の心を癒してくれる。
女子高生を見ながら一杯やるオジサンのようだと思わなくもないが、このカフェに来て幸せな気持ちになる理由が彼女であることは確かだった。

「ご注文は以上でしょうか?」

瞳子は頷いた。真面目に生きてきた自分の髪色は、生まれてから何色にも染まっていない。相反するように輝く待崎の金髪は男のように刈り上げられ、伸びた前髪を後ろで小さく結っている。
――雀のしっぽみたいだわ。
瞳子はカップの縁に唇をつけながら、ひっそりと思った。

「こちらは今回ご注文されたコーヒーの紹介カードです。宜しければご覧下さい」

待崎はテーブルの上に白いカードをそっと置くと、一礼して足早にカウンターへと戻っていく。アマリリスでは注文したコーヒーの紹介として、原産地や生産者の名前が書かれた詳細のカードを一緒に客に提供している。
コーヒーのことを知ってもらうことも目的だろうが、アマリリスの真横に隣接しているビーンズショップで同じコーヒー豆が購入できる。
もし飲んで気に入ったら買ってね。という、店側の意図だろう。

コーヒーについて理解していれば、待崎とも話をすることができるだろうか。
そう考える自分がいて少々困惑してしまう。別に、お近付きになりたいと思ってカフェに通っているわけではない。
言い聞かせるようにもう一口含めば、アップルベリーの香りが静かに瞳子に絡みつく。

ふと顔を上げると、別の客に接客している待崎の姿が見えた。彼女の甘い微笑みで客は頬を染め、夢見心地で連れの客と談笑を始める。その様子に、瞳子は純粋に待崎の事を羨ましいと感じていた。

瞳子は、昔から親に可愛げがないと言われ育った。
愛想を振りまくのが苦手で、表情筋はほとんど動かした事がない。おまけに真面目なものだから、思った事をはっきり伝えてしまって相手を傷つけることの方が多かった。

自分の好きな色で髪を染め、好きな仕事をしながら、人に優しく接する事ができる。待崎という人間は、瞳子にとって密かな憧れの人になっていた。

そう、憧れだ。
心の奥底に感じる気持ちをかき消すように勘定の用紙を握ってレジへと向かう。待崎はまた別の客を接客していてこちらには気づいていない。あまり近くに来られると緊張してしまうので、瞳子は内心ほっとしていた。
レジカウンターでは三十代後半くらいの歳の男が、瞳子の勘定に対応してくれた。グレイッシュの髪をゆるく後ろに撫でつけた、清涼感のある男だった。待崎とはまた違った雰囲気を醸し出す彼もまた、客から人気がありそうだ。

瞳子は支払いにスマホを取り出そうと鞄を探る。面倒臭がりの彼女の支払いはいつも電子決済だった。

「……あれ?」

ところが、余計なものなど入っていない小さな鞄の中に自分のスマホが見当たらない。外側のチャックがついたスペースに入れたか? いいや、ない。
まさか財布やスマホも入れずに鞄だけ持って来たなんて事はしていないはず。
瞳子はだんだん気が焦って、眉をしかめながら「すみません、ちょっと待って下さいね」と店員に告げた。男は特段気にした様子もなく笑みを返してくれたものの、その余裕が反対に瞳子の気持ちを急かしていく。

どうしよう。本当にない。

鞄を預けて家にお金を取りに戻ろうか……瞳子が諦めたその時、肩側からふわりと甘い香りが漂った。

「――お客様」

振り向けば、いつも眺めていたはずの金髪の人がそこにいた。肩にかかる髪に、瞳子は思わず息を飲んで固まってしまう。

待崎さん。

「お席にスマホが残っていましたので、もしかしたらお客様のものかと思いまして……」
「あ……」

困ったように微笑む待崎は、エメラルドグリーンのケースが嵌められた古い機種の――瞳子のスマホを手にしている。

「あ、そ……そうです。私のです。ええと、その。ありがとうございます……」
「良かったです! お帰りになる前に渡せて」

本人のものだと確認できてほっとしたのだろう、待崎は目を細めて瞳子に笑いかける。受け取った際に僅かにその手が触れて、瞳子は瞬時に頬が熱くなるのを感じていた。
恥ずかしかった。スマホを忘れてレジの前でもたついていることも、そのスマホを待崎が持って来てくれた事も、手に触れられるだけで年甲斐もなくどきどきしている事も。

「――っ、すみません、失礼します!」
「えっ!? ちょ、あの!」

瞳子はたまらず、受け取ったスマホを決済ボードに素早く置いた。流れるように支払いを済ませると、店員からレシートを受け取って入口に向かう。
待崎の顔が見れない。
逃げるように店を出た自分に、きっと彼女は不思議に思ったに違いない。

アスファルトに響く自身の靴音を聴きながら、熱の冷めない頬を押さえながら。瞳子は花冷えのする春の空気の中を大股で闊歩していた。
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