なに


 夜勤が明けて帰ってきた私は一通りの家事を終えて眠りについた。再び目を開ければもう外は赤く染め上げられている。

「……夕方かぁ」

 大きく欠伸をして体を起こした。腕を頭の上まで上げて伸ばすと肩甲骨の辺りから音が鳴る。
 季節は春を過ぎた。春と梅雨の間の天気がいい日が続いている。
 干していた洗濯物を取り込むために窓を開けるとどこからか煙草の香りがしてきた。マンションに住んでいる誰かが吸っているのだろう。
 スリッパを履いてからベランダへと出て洗濯物に触れるとよく乾いている。良かった、と頬を緩めて洗濯物を取り込んでいく。

「名前」
「ッ!」

 隣から突然声がかかり、肩が跳ねた。驚いた拍子に持っていた洗濯物を部屋の中に放り投げてしまう。

「…おい、聞いてんのか」
「ろ、ローさん」

 久しぶりのローさんの声に早鐘を打つ心臓を落ち着けながら、仕切り板の方に近付く。仕切り板の下は空いているので、そこから伸びる影が見えた。いつものような落ち着いた低音が聞こえてくる。

「元気そうだな」
「はい。私は元気ですよ。……ローさんは? 元気でしたか」

 あの飲み会から二週間以上会っていない。メッセージをやり取りするほどの用事もないので本当に久しぶりだ。

「ああ。…ところで名前」
「はい?」
「名前、覚えてねェのか」
「……あっ」

 そういえば敬称を付けるなと言われていたのだった。思い出した私の間抜けな声に、すぐ隣でくつくつとローさんが笑う。

「また今度会った時、だな。覚えておけよ」
「あわわ……ローさん、その、敬語取るのでそれで勘弁してもらえませんか……」
「ほう、交渉か?」

 ふわりと白い煙が見えた。どうやら煙草を吸っていたのはローさんのようだ。嫌だと言ってこないので多分大丈夫。敬語を外して話すようにしよう。

「交渉というか……んん、ローさん煙草吸うんや、ね」
「……たまにな」

 煙は風に吹かれてあっという間に散ってしまう。

「煙草っておいしいん?」

 煙草の匂いを感じているとベランダ越しに煙草を持った腕が伸びてきてギョッとする。

「吸ってみるか?」
「いやいや、遠慮しときます」

 ローさんは人をからかうのが好きなのか、私が焦りながら即座に断ると彼はまた笑った。きっと悪い顔をしているのだろうと思っていると長い腕が仕切り板の向こう側へ消える。

「今日は仕事ねェのか」
「夜勤があったのでさっきまで寝てました」
「夜勤か。……おれも当直明けは夕方まで寝るな」

 当直、と聞いて驚く。思わずローさんの方を向くが、視界は仕切り板だけだ。

「ローさん、医療関係者なん?」
「ああ。言ってなかったか、おれは医者だ」

 ローさんがお医者さん、というのは実に女の患者さんからモテそうだ。いやでも人相がちょっと怖いから怖がられるのかも、なんてつい失礼な考えが頭をよぎった。

「聞く機会もなかったから」
「……それもそうだな。名前は、何してんだ。結構忙しそうだが」
「私は介護職です」
「ほォ」

 ふわりと紫煙が立ち上る。

「ローさんお医者さんかぁ、すごいなぁ」
「まァな」

 カラスが鳴いていて、子どもの遊び声が聞こえる。今日は風がよく吹いているからか、遠くにある公園の様子まで運んできているようだ。
 その時、電子音が鳴り響く。自分のものではないので鳴っているなぁくらいにしか思っていなかったが、隣にいるローさんが小さく舌打ちしたことによりどうやら彼のスマホの着信ということを理解する。

「すまねェ、電話だ」
「ああ、どうぞどうぞ」

 ローさんの気配が遠ざかって、窓が閉められる。私はなんとなくその場から離れ難くて、そのまま暫く外の景色を眺めていた。


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