「きつ、ね…?」
口から出た声は自分が思っていた以上に震えていて情けないものだった。
未だかつて自分でもこんな弱弱しい声を出したことがあっただろうか。
しかし、俺の手を握ったまま理熾と名乗った黒尽くめの人物は薄ら笑うだけで何も応えてはくれなかった。
訝しむように眉を寄せたジャッカルと柳が前に躍り出て、理熾、さんを無言で睨むけれど、その表情は一切崩れることがない。
まるで人形のように貼り付けられた笑みは、それでも本来あるべきはずの違和感を伝えることはなかった。
「あの、急に狐って何のことですか。」
「失礼ですが、そろそろその手も放していただきたい。」
ジャッカルが問うて柳が俺と繋がったままの手を指す。
それでもその手は離れないままで、理熾さんの色素の薄い眼光は俺を見据えたまま。
その瞳が一瞬、血のように染まった気がして背筋が震えた。
生唾を飲み込んでその瞳を見返すが、ただ陽光を反射して鈍く輝く茶の瞳があるだけだった。
にぃっと再び持ち上がる口角。
手を理熾さんに握られた時に頭に過ぎった映像。
何から尋ねるべきなのか、聞きたい事が多すぎて整理が追いつかない。
すると金属が擦れる乾いた音がして柳の手が理熾さんの手首を掴んだ。
「…もう、放してください。」
柳の掌に覆われる細い手首は、重量のあるシルバーに覆われ軽やかな音を立てる。
見るからに警戒心を剥き出しにした柳に、戸惑いを浮かべるジャッカル。
振り返ってはいないけれど、困惑も焦りのようなものも後ろから伝わってくる。
ただ、違うんだよ。柳。
理熾さんが俺の手を放さないんじゃない。
「…違う。俺が握ってるんだ。」
「……精市?」
驚いたような柳の目と視線がかち合う。
再び目の前に佇む理熾さんを見据える。
その表情は崩れない。
自分では放そうとしているけれど、意識とは無関係のところでこの手を放してはいけないと何かが囁いている。
きっと理熾さんは手を放そうと思えば放せるのだろう。
漠然とそんな考えが過ぎった。
それは間違いではなかったようで、目の前に立つ色素の薄い瞳が三日月を描く。
「聡明な子は嫌いじゃないよ。…此処じゃ目立つし、どこか喫茶店にでも入ろうか。」
淡白な言葉だったが、その声音に敵意や嫌悪は見られない。
部員達は一様に難色を示し、渋ったが、俺は頷いた。
驚いたような真田の声が飛ぶ。
「幸村!?本気か?」
「先程から様子が変だぞ精市。大丈夫か?」
「止めときましょうよ部長!見るからに怪しいじゃないっスか!」
「俺も赤也に同意見だ。…知り合いじゃないんだよな?」
次々と反対する言葉が飛ぶけれど、それでも俺の目は目の前を見据えたままで。
長い前髪から見えるその瞳を眺めていた。
それさえ様子がおかしいという判断材料にされたのか柳と真田に繋がれていた手を引き離される。
あ、と小さな声が零れる。俺の目線は空を切った自分の手に落ちた。
理熾さんの右手はゆっくりと重力に従い下を向く。
シルバーの擦れる音が鈴のように鳴って、俺はまた顔を上げる。
「のぅ…俺も、行きたいんじゃが、えぇかの。」
その時、背後で沈黙を保っていた声が聞こえて全員が振り向いた。
銀髪を揺らして、仁王が真っ直ぐ理熾さんを見つめていた。
睨むような、嫌悪のようなそれではなく、多分俺と同じ類のもの。
真田達が何かを発するより先に、声が入る。
「私も、行っていいでしょうか。」
躊躇いがちの柳生の言葉にさすがの俺も目を見開いた。
まさか彼も自分から行くと言い出すなんて。それはきっと誰にとっても予想外の事だったに違いない。
困惑と動揺が広がる俺達を尻目に、最初から傍観を貫いていた金髪の美女は踵を返した。
あ、おい。と慌てる素振りも見せず理熾さんがその後をのんびりと歩き出す。
動けないでいる俺達を一瞥して、理熾さんは薄く笑った。
「3人が心配なら全員で着いてきたらいい。私達2人で7人を相手にするのは無理があるだろう。」
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「王道のチョコパフェでいくか…それともマンゴーアイスでいくか…いや待て。ライチのソフトクリーム、だと…?」
「さっさと決めてください。」
「ちょっと待てよ。無難に王道でいくか、それとも敢えて冒険にでるか。これは一世一代の」
「すみません、ドリンクバー9つと胡麻プリン1つ。」
「おい、聞けよ。しかも何だよ胡麻プリンって。意見総無視じゃねぇか。」
「ドリンクバー取ってきます。烏龍茶でよかったですか?」
「なんで烏龍茶チョイス。コーラとオレンジと白ぶどう。」
「…また混ぜるんですか。ガキですね。」
「美味いんだって。」
「はいはい。…それで、貴方達は?」
金髪美女の視線が俺達を向く。
自分達で行くと言おうとしたが、それを制したのは他でもない彼女だった。
「私が取ってきますから、その間に話を進めてください。」
「運ぶのが大変じゃありませんか?よければお手伝い致します。」
「いいえ。…毒なんて入れませんから安心してください。」
「え…あ、いえ!私はそんなつもりでは…っ」
「そうですか。でもお隣の方はそんな目をしていますけどね。」
慌てて否定する柳生に目もくれず、彼女の灰色の眼光は柳を射抜いていた。
微かに目を見張る柳を、嫌悪さえ滲みそうな鋭い眼差しで美女は睨む。
居心地悪く萎縮する俺達を彼女は慮る事などしなかった。
何かを紡ごうとする彼女を制したのは、水の入ったグラスを眺めていた理熾さんだった。
「あーきらー喉渇いたー」
「………嫌いな飲み物はありますか。」
「あ…いえ特には…。皆もなかったよね?」
俺が尋ねれば皆は小さく頷きを返した。
それを見渡した彼女は金髪を靡かせて入り口付近に消えていった。
奥の席を選んだのは正解だったかもしれない。
我知らず詰めていた息を吐き出すと、グラスについた結露をなぞっていた理熾さんは誰に言うでもなく呟いた。
「悪いね。あいつ人間不信でさ。あんま人を信用してないんだ。」
カラン、とグラスの氷が音を立てて回る。
頬杖を着いた理熾さんは目を細めて柳に視線を移す。
「人の気持ちには人一倍敏感な奴だから、あんまり不快に思う視線は投げないほうがいいよ。君は頭がいいから色々勘繰ってるんだろうけど、…こんな所で君達に何か変な事したら即御用もいいとこだろ。」
責める意思のない瞳が無表情に柳を映す。
たじろぐ素振りを見せた彼は、しかし小さく頷いた。
「すみません…考えすぎたようです。」
「はは。まぁいいよ。不審者には変わりないからね。」
明るく言った理熾さんが笑う。
その口元から覗いた、犬歯に目がいく。
犬歯が、異様に尖っていたから。
目を見開いて思わず口元を見つめてしまう。
しかしそれに気付いたらしい理熾さんは、口端を吊り上げたまま、じっと目を見てくる。
口を開きかけた俺の声は結局発せられない。
「…あんた、人間離れしとるのぅ…」
右隣に座る仁王が、俺の疑問をオブラートに包むこともなく口にしたから。
唖然とする俺達の視線を一身に受けながらも、仁王は口元を緩めたまま正面に座る理熾さんを見据えていた。
それに臆することなく見返すその色素の薄い瞳は、何故か愉快さを帯びていたように思う。
睨み合いとも、見つめ合いとも違う何とも形容しがたい2人の視線のぶつかり合いに、居た堪れず内心の冷や汗を隠しながら見守っていると、先に相好を崩したのは理熾さんだった。
「ふ…、君とは気が合いそうな予感がするなぁ…」
「奇遇じゃの。俺もそう思うナリ。」
「お、マジで?メアド交換しちゃう?」
「おい、仁王!」
「そんなに怒るんじゃなか。ちょっとしたコミュニケーションじゃ。」
「そうだねぇ。ちなみに私はその2人とも気が合いそうな予感がしてるんだよ。」
そういって心底楽しげに指差したのは俺と、柳生。
なんとなく指される予感がしていたのは俺だけじゃないらしく、柳生も眼鏡のブリッジに触れるだげで大きな動揺は見られない。
その様を満足そうに見届け、理熾さんは色素の薄い茶の瞳を煌かせて、唇を開いた。
「あぁ、で。狐だよ、狐。」
平淡に発せられたその単語にドキリとしたのは心当たりがあったから。
銀の指輪が多く嵌められたあの細い手と握手を交わした時、脳裏に過ぎったのは全く意識していなかった見覚えのある狐の姿。
それはこんな大都会にはいるはずのない、白銀の毛並みを揺らした美しい狐。
映像が流れ込むかのようなあの衝撃はしばらく忘れられそうにない。
そして、狐という単語に反応したのは案の定、俺に賛同していた仁王と柳生だった。
「理熾さんが言っている狐というのは…白銀の子狐、ですか?」
「おぉ、それそれ。」
「ちょっと待て。何故そんな狐などを知っているんだ。」
真田の怪訝な問いはその通りで、俺達以外の4人は眉根を寄せ説明を求めた。
唸る俺達を余所に、結露を指で掬ったざんばらな黒髪のその人は言った。
「その狐は常人には見えないからねぇ。」
手を滑らせてペンを落とす柳を横目で捉えながら、
俺はあぁやっぱり、とどこかで納得していた。
腑に落ちた正解。