「あ、すげぇ。一気に軽くなった。」
「そうか。瘴気を取り払ったからもう体調が悪くなることはないよ。」
「ありがとうございます。」
理熾さんが丸井君に手を翳すと、彼は驚いたような顔で腕を回し、すげぇと口にした。
彼女が右手を翳した瞬間、何か霞のような淡い光を放つものがふっと揺れたように感じた。
見間違いかとも思ったが、幸村君や仁王君も私が見たものと同じものを感じていたらしく、それはきっと視る事のできる人にしか感じられないものなのだろうと納得した。
翳した手を軽く振る彼女の手首についた鎖と銀細工が揺れて音を立てる。
ふ、と笑った彼女は足元で頭を摺り寄せ、潤む瞳で見上げている子狐を抱き上げ左肩に乗せた。
「さぁて、そろそろ外で待ってる飼い主に会いに行くか。」
理熾さんのその言葉に肩に乗った狐はしゅんと頭を下げる。
頷いているようにも見えるそれは幾分怯えているようだ。
恐れをなして逃げるといけないからと外で待機している金髪の美女に、この子狐は叱責されるのだろう。
仕方のないこととはいえ、小さな身体を震わせる様を見てしまうと少し可哀相になってしまった。だが、庇う事は出来なかった。
喫茶店を出て、此処に来る道中、理熾さんはポツリと呟いたのだ。
もしも狐に憑かれたまま放置していたら、そのまま衰弱していき、やがては命を落とすと。
ぞっとした。
あの時、幸村君が彼女の手を取らなければ、
あの時、私達が彼女の誘いに乗らなければ、
あの時、私達三人以外の皆が、彼女と自分達の言葉を信じてくれなければ、
そしてなにより、彼女達が狐を捜して、私達に声を掛けてくれなければ、
丸井君の命は危険だったのかもしれない。
そう考えると本当に心の臓が冷えるようだった。
小説の表現でしか知らないそれを、体験したのは初めてで。
出来ればもう体験したくないと思った。
息を詰めたのは私だけではなく、切原君は特に顔を青白く染めていた。
でも体調を崩して休んだのは今日が初めてなのだから、改めて大丈夫だ、と笑う理熾さんに全員の安堵の溜息が重なったのだ。
すまない、と呟く理熾さんと、
その横で俯く金髪の美女に悪意はないのだと分かったからこそ、私達は彼女達を責めなかったのだ。
しかし、やはり部員の1人の命を脅かす原因となった狐となるとそうもいかない。
項垂れるようなそれに、言葉にはしないが、全員が複雑な眼差しを向ける。
真田君の眼光は特に厳しく、何も言いはしないがきっと怒りは治まっていない。
静まった室内に、歩き出した理熾さんの銀の装飾の音が響く。
彼女は慣れた様にリビングを出て玄関に続く廊下を進む。
慌ててその後を追いかけた私達は、彼女が玄関の扉を開けた先にいる人物に目を留めた。
「え、もしかして、…飼い主、さん?」
扉の先にいる人に、丸井君が呟く。
その予想は間違っていない為、柳君と私は小さく頷いた。
へぇ、と感嘆を漏らした丸井君はまじまじと軒先に佇む金髪の人影を見つめていた。
最初こそその派手な容姿に目を奪われていたようだが、やがて彼が口にした「美人」には主に切原君と仁王君が同意を示していた。
勿論私もそう思っているが、果たして初対面の人に対する呟きがそれでいいものか。
何とも言えずに丸井君を見やると、その瞬間ピリッと静電気のような痛みを身体全身に感じ視線を前に戻す。
そう感じたのは皆同じだったようで一様に振り向く。
まるで氷が膚に張り付いて、やがて痛みを覚える、そんな感覚に似ていると漠然と思った。
氷の世界と思わせる程、空気が痛く、吸い込む酸素さえ凍て付いている様だ。
眼前に銀世界が広がっている錯覚さえ起こり、肌寒さと凍えるような冷気が身体を支配する。
その中心に立った彼女はその血の通っていないような白い唇を動かした。
その目がぎらりと光る。
「漣…ッ!!」
口から吐き出されたその声は驚く程低く、恐ろしい程地を震わせた。
到底女性の声とは思えないそれに目を見張る余裕さえ与えられず、迫り来るような憤怒に恐れ戦いた。
あまりの恐怖に指先が冷え、震え始める。
歯が噛み合わず、寒さに震える時の如く音を立てる。
ひと1人の怒りで男8人がここまで怯え、震え上がるのは滑稽に思える。
だが彼女の怒りは本物だった。
襲い来る冷気が鋭利な刃物のように肌を刺激し痛みが走る。
圧倒的な寒さに血の気が引いていく。
指は動かない。
逃げたいと思う程の衝撃が身体を貫いているのに、一切身体は動かせない。
仲間達も自分と同じなのか誰一人として動かない。
唾を飲み込もうにも、その唾さえ喉を痛める氷となっていそうで恐れが走る。
彼女の怒りは凍て付く氷塊のようだと思った。
そしてその氷の礫は周りを支配し、圧倒的に襲い来る。
震える事しか出来なくなった私達の硬直を解いたのは、私達と彼女の視界を遮る様に躍り出た理熾さんだった。
「落ち着け、晶。少年達も感化されてしまってるだろう。」
拳を握り締め、その眼光に強い憤怒を映した金髪のその人は、軽く息を吐いた。
ゆっくりと、周りに漂う冷気が散っていく。
最初に大きく息を吐いたのは誰だったか。
まるでそれまで呼吸を止めていたのではないかと思うほど息が乱れ、心臓が早鐘を打っていた。
血の気を取り戻した指先が熱い。
それでも肌を刺していた氷の余韻は残っていて、ただ寒かった。
金髪の美女を抑えた理熾さんが振り返る。
申し訳なさそうに眉を八の字にした彼女は、左肩に乗せていた子狐の首を無造作に掴むと
金髪の美女に向けて放り投げた。
両手で受け止めたその人は腕の中に大人しく収まる狐を一瞥した後、理熾さんに深く頭を垂れた。
それは丸井君に理熾さんが謝罪した時と同じものに感じて、私達は驚きを隠せない。
やがて頭を上げた彼女は私達を見渡し、血の気のない唇を開いた。
「お騒がせをしてしまい、申し訳ありませんでした。このお礼と謝罪は、必ず。」
そう伝え終わると、彼女は消えた。
そう、消えたのだ。
「えっ」と慌てて目を擦り、今まで彼女が居た場所を何度も確かめる丸井君と切原君を横目で眺めながら、私はどこか納得していた。
なんとなく、そんな気がしていた。
あまりに人であるし、視る事の出来ない人にあそこまで認識されているものは見たことがなかったけれど、何かが引っかかっていた。
人目を引く容姿も、人間離れしたようなあの美しさも。
幸村君、仁王君と目が合って、少し微笑む。すると後ろで柳君がノートを開いていたので、苦笑した。
彼も、恐らく気付いていたんだろう。
桑原君もまた、深い追求を見せなかった。
約三名ほど、理解できていない彼らを気にする素振りも見せず、振り返った理熾さんは優美に微笑んだ。
出会ってからこれまでで一番綺麗でほぅと溜息が零れるほど。
その微笑を受けたように耳に着けられた銀のピアスが揺れて光を反射する。
「ありがとう。君達に知り合えたのは私の財産だ。」
柔らかな風が頬を撫でる。
それは一切の冷たさを孕んでおらず、夕暮れ間近のそれはどちらかといえば生温いものだった。
肌寒さを忘れた私達にとってその言葉こそが氷柱のようで、心に突き刺さる。
何故、まるで最後のような言い方を。
「あの、…理熾さん。また、会えるっスよね?」
「……。」
その言葉に見え隠れする真意に気付いたのか、切原君が不安げに問いかける。
すると彼女は優しく微笑んだまま首を振った。
横に。
目を見張る。何故。
「…なんじゃ。気が合いそう言うとったのに。友達にはなってくれんのか。」
仁王君が珍しく動揺しているようだ。
声音が硬い。
「俺も、また会いたいです。」
幸村君が寂しげに言う。
その声は純粋に訴えていた。
「俺もっス!もっと話してみたいです!」
切原君が大きな声で言う。
必死な声。
「私も、貴女のお話が伺いたいです。」
そういえば、柳君も桑原君も、真田君も、同様の目を向ける。
不安げにこちらを見る丸井君も、興味はあるのか否定はしないでいる。
だが、嬉しそうに微笑んだ彼女の口から出たのは、
「もう、私には関わらない方がいいだろう。」
否定だった。
呆然とする私達を見渡して、また微笑む。
その表情に寂しさを見つけたのは自惚れではないと信じたい。
「なんでっスか…?」
「少年。あの胡麻プリンは頂けなかったが、あそこのパフェは美味いから今度食べてみるといい。」
はぐらかす様なそれに、何も言えなくなる。
理熾さんは私達一人ひとりの顔をゆっくりと順を追って見ていく。
まるで顔を忘れないように記憶に刷り込んでいくかのように。
そこまでするならば、何故もう一度会ってくれないのか。
きっと彼女は答えない。
やがて彼女の色素の薄い瞳は丸井君に止まる。
少し肩を揺らした彼に、理熾さんは微笑んだ。
「少年、これは侘びだ。もし君が我が名を呼んだなら、私は何処へでも馳せ参じよう。どんな危険からも君を救うと誓おう。」
そういった理熾さんは徐に丸井君の左手を取り、手の甲にゆっくりと口付けた。
驚いて声も出ない私達に、彼女はそっと唇を離す。
髪の色と同じく赤に染めた頬でぱくぱくと口を動かす丸井君に笑い、そして、寂しそうに言った。
「もう会わない方が君達の為だけれど、また会いたいと思って、それに賭けるのは自由だよな。」
「理熾さ…ッ」
幸村君が伸ばした指が空を切る。
そこにはもうなにもない。
取り残された私達はただ、銀の揺れる音を捜して、しばらくその場に佇んだ。
彼女の残り香が、
自分に移ればいいのにと、
そうすれば彼女の事を忘れないだろうにと、
到底叶わないそれは夢と消えた。
長い前髪から覗く、あの色素の薄い眼光を、
もう一度見たいと思うことはいけないのだろうか。
その問いさえ聞けぬまま、
彼女は姿を眩ました。
まるで泡沫。