烏の群れが頭上を飛んでいく。
夏真っ盛りとも表現される今日は日が高く、まだ落ちそうにも無い。
それでもこの空間は所謂“特別”と言われる場所で、心地よい風が吹き汗を浚う。
肌寒ささえ感じてしまう空間に、私達は立っていた。
「やっべぇ超怖くなってきた…」
「ちょちょちょっ!丸井先輩ビビんないでくださいよ!!」
「いや…これは普通ビビるだろ…」
「ジャッカル先輩まで!こっちまで怖くなるじゃないっスか!!」
「出来れば怖がって肝試しなんて馬鹿な真似これからしないでくれると助かるよ。」
「うっ…!!」
「たるんどる。これしきで恐れる俺もたるんどるッ!!」
「真田…おまん神を恐れる事をたるんどるって何を目指しとるんじゃ…」
「夏場でよかったな。冬だったら今頃夕暮れだ。」
「本当に…部活を早く切り上げて正解でしたね。」
額に伝う冷えた汗を拭う。
場所は神社の裏。
大きな赤鳥居の正面は参拝客でわりと賑わっていたが、さすがに裏に回ると人影は無かった。
一つ息を吐いて早まる鼓動を抑える。
木々で覆われたこの場所に響くのは風の音と、鳥の嘶き。
揺れる木が青葉を落とし、雲が太陽を隠した。
じっとその様を見上げていると隣に立つ仁王君が呼吸を整えているのに気付いた。
「…どうかしましたか。」
「いや…なんつーか…」
言い淀んだ彼はまた息を吐いて吸う。
生きる上で当然のその動作を意識的にしている理由は、何となく分かっている。
恐らく幸村君も。
「息苦しいね、何か。」
幸村君の無意識の呟きが落ちて、響く。
頷くのは私と、仁王君。
首を捻る5人はきっと気付いていない。
心臓を、身体を押さえつけるような威圧感、圧迫感。
目の前にある小さな鳥居に一歩一歩足を踏み出すたびにそれは大きくなっている。
鳥居を易々と潜った5人は不思議そうにこちらを窺っている。
切原君の心配そうな顔もよく分かる距離。
その距離で私達は意識的な呼吸を繰り返している。
ゆっくりと、足を踏み出した仁王君に、幸村君が続く。
鳥居を抜けて振り向いた二人は厳しい顔で小さく私に頷いた。
足を踏み出せば、どっと重力が増したように感じた。
まるで鉛を乗せられたような、強い違和感。
黙って自分の足元を見つめている私達に不安が煽られたのか丸井君が肩に触れる。
「大丈夫かよぃ?」
「えぇ…どうやら、これは」
「気を引き締めないとヤバそうじゃな。」
「取り合えず赤也と丸井は俺らの後ろにいてくれる?」
不思議そうな表情を見せる切原君と丸井君に声を掛けたのは柳君だった。
「赤也、お前はもしかしたら怒りを買う可能性があるだろう。だから後ろにいろ。丸井も、もしもの時の切り札を使えるのはお前だけだ。」
それを聞いた二人は真剣な目で頷き、私達の後ろにそっと下がった。
よし、進むぞ。
真田君のその声を合図に鬱蒼とした雑木林を進む。
意外にもちゃんと舗装されているその道はもしかしたら誰かがお参りしているのかもしれない。
神社を出る前にはまだ高い位置にあると確認した太陽を何度も仰いでしまう。
それほどに木々の背は高く、生い茂る緑に日差しは覆い隠されていた。
無言が続いてしまうのはムードメーカーである2人が後ろにいるせいか。
緊張感が包むこの中では何か発するだけでも勇気が要った。
それに何より強くなる威圧感。
正体の無いものに対する怯えとは、正体が有るものに対する怯えと全く違う。
分からなければ分からないほど混乱し疑心暗鬼が酷くなる。
先程から真っ直ぐ進んでるだけなのに、私と仁王君、幸村君の視線は定まらない。
辺りを何度も窺い、前を見て、また違う場所。
私達3人がそうした行動を取る事によって他の5人の不安を煽ることは百も承知である。
だがしかし、私達は得も知れぬ不安と謎の威圧感に怯えていたのだ。
「着いたぞ。」
いつもより固い真田君の声に前に目を向ける。
そこには幾分小さく古びたようにも見えるお宮さん。
だがやはり古びたといっても手入れはされているようだし、立ち入ってはならない確固たる威厳さえ放っている。
冷えた身体に震えが走った。
生唾を飲み込む。
一際大きな風が吹いて頬を撫ぜる。
その風がチクリと刺すようなものを孕んでいる気がしてハッとした。
「皆さん、少し下がりましょう。」
私が声を掛けると仁王君と幸村君が素早く一歩足を引いた。
そして今来た道を開ける様に端に寄る。形容しがたい異様なものを5人も感じていたのか特に説明を求められることなく全員が私達に倣う。
参道は神の通り道。その中央を歩いてはならない。
その教え通り私達は端に寄り、じっとお宮さんを見つめた。
並ぶ2本の春日型灯籠の内の片方が無残に倒れている。
さぁ、問題はここからである。一体どうすれば神様の許しを得る事が出来るのか。
実のところ全くの無計画である。
色々考えはしたものの、神様の考えを人間が、それもたった17年程しか生きていない私達が分かるのか。答えは否。
なら心から真摯に謝るしかないだろう。
真田君の実直なその回答以外に案が浮かぶはずも無く、私達は今この未知の場所に突っ立っている。
真剣に謝ればいい。その通りである。
しかしながらただただお宮に向けて謝り続けたとして、それでどうすればいいのだろうか。何を根拠に許された許されていないを判断すればいいのか。
悶々とした空気を誰一人として払拭できないまま、無言が続くと思ったその矢先。
それまで後ろに控えていた後輩がお宮に向けて勢いよく頭を下げたのだ。
「すみませんでしたッ!!!」
大きな謝罪が雑木林に反響する。
ざわざわと木々が囁いて、鳥が羽ばたく。
深く頭を垂れたまま切原君は頭を上げず、そしてもう一度、今度は搾り出すように言った。
「灯籠、壊してすみませんでした…ッ!!」
彼の指が力強く握られている。
必死に謝っている。懇願している。
友人の分まで謝罪して、そして許して欲しいと願っている。
それを眺め、私はゆっくりと頭を下げた。
「私からも…申し訳ありませんでした。」
息を詰める音が聞こえた。
「柳生先輩…、」と呟く声が聞こえたが、私はそのまま頭を上げずにただ黙っていた。
するとそれまで直立していた全員がゆっくりとお宮に向けて頭を下げる。
今まで意識したことがない程丁寧に。
そしてまた口を開く。
「すみませんでした。」
8人の声が重なって雑木林に響いていく。
果たしてこの声は届いているのだろうか。分からないけれど、誰一人として頭を上げることはなかった。
やがて風が吹く。
不自然な程強い風が肌を刺激する。
痛みさえ齎すその風は、重い。
肌が粟立ち背中には氷塊が滑り落ちる。
喉は渇きを訴え、呼吸でさえままならない。
圧迫感と緊張感。
冷や汗が噴出す。
眩暈さえ起こりそうな衝撃と共にゆっくりと面を上げた。
そこには、先程まで無かった人影。
ゆらりと立ち昇る陽炎を身に纏い、
世にも恐ろしい形相でこちらを睨みつけている。
いや、あれはお面だろうか。
鬼とも般若とも形容しかねるが、ただ一つ。
私達が謝るべき対象はそこに立つそれだと、理解していた。
そして頭の中で激しい警鐘が鳴り響く。
ガンガンと打ち付けるような恐怖と危険を察している本能。
冷たくなった指先が小刻みに震えて、唇を噛み締めているはずなのにその感覚も消えていく。
陽炎が揺れる。
空気が振動する。
地が鼓動する。
息が詰まって浅い呼吸を繰り返す。
どうしようもなく痛い。辛い。
酸素が薄くなった錯覚。
目の端に捉えるそのお面の影は動かない。
だがゆっくりとその眼は後ろで頭を垂れる切原君に向かった。
心臓が大きく跳ねた。
動悸がする。
息が切れる。
緊張が走る。
全員の強張った顔が切原君に向けられる。
青い顔でじっとお面の影を見つめ続ける彼は、目に見えて震える唇を開く。
「すみま、…せん。」
掠れた呟きが洩れる。
畏怖に引き攣れる声が、必死に謝罪を紡ぐ。
再び頭を下げた彼を、じっとお面の影が睥睨している。
全員の息遣いが耳元で聞こえる。
五月蝿い心音も、もはや自分のものであるかさえ確証を得ない。
息が苦しい。詰まる。
陽炎が揺れる、揺れる。
静が満たす空間。
揺れ動いたのは、
「う、わ…ッ!!」
声だった。
ハッとして顔を上げる。
地に膝を着いた切原君は呆然として、土を手に握り締めていた。
尋常じゃないほどに震えている身体は地に縫い止められている様にも見える。
幾筋もの汗が彼の鼻先を伝って地に吸い込まれていく。
彼の呼吸音はまるで全力疾走を終えたかのように乱れていて、かと思えば痙攣でも起こしたかのように喉を震わせている。
掠れた息だけが洩れている彼の表情にぞっとした。
あれは、息が出来ていない。
下げていた頭を上げてお面の影を見やる。
天にまで届くかと言うほどに立ち昇った陽炎。
ゆらゆらと揺らめく仄暗い赤と、世にも恐ろしいお面。
その内から覗く眼光はぎらりと光り、切原君を睨み続けていた。
あぁ、マズイ。
「赤也!!」
「しっかりしんしゃいッ!!」
全員が恐怖に竦む体に鞭を打ち切原君に駆け寄った。
目を見開いて必死で喉を掻き毟るその様子は尋常ではない。
小さな吐息を漏らすだけで満足な酸素を吸えない彼の口の端から唾液が垂れる。
零れ落ちた涙が地に跡を作る。
幾ら背を撫でようと、
名前を呼ぼうと、
体を揺さぶろうと、
意味が無い。
激昂する面の影を鎮めなければ。
そしてそれが出来るのは私達ではない。
私は、叫んだ。
「丸井君!!!彼女を、理熾さんを呼んでくださいッ!!!」
私の叫び声に弾かれたように丸井君が顔を上げる。
酷い焦燥を顔に浮かべながら、それでも私の声は届いたらしい。
呼吸さえままならない空気の中、
丸井君は大きく息を吸い込み、
そして
「理熾さん…ッ!!!!」
叫んだ。
喉を痛めそうな叫び声が雑木林を揺らす。
しん、と降り積もる静寂。
何も変わらない。
指先で地を掻く切原君の爪に血が滲む。
ゆっくりとお面の影が切原君に歩み寄る。
それと同時に焔と見紛う陽炎も近付いていく。
私は咄嗟に躍り出て、切原君達を背にした。
未知に対する怯えよりも、仲間を危険に晒す事の方が私には恐ろしかったのだ。
音を立てた陽炎が一気に肌を焼くように突き刺さる。
痛みに顔を顰めるけれど動くことだけはしなかった。
やがてお面の中から見える恐ろしい眼が憎憎しげに歪んだ。
突き出された腕。
嗚呼、私にも切原君と同じ怒りが向けられるのだろうか。
やけに目に映る光景は鮮明で、ゆっくりだった。
「柳生っ!!」
後ろから皆の叫ぶ声が飛ぶ。
力強く腕を引かれ視界の端に銀髪を捉えたのと、お面の手が私に翳されたのはほぼ同時。
そして舞い上がる火の粉。
私達を囲むように焔が円を描いて渦巻く。
燃え上がるそれに息を止めた。
橙と赤が目を焼いて、眩しさに目を細める。
すぐ隣で荒い息遣いが聞こえて、視線を向けると仁王君が酷く焦った様子で目の前に広がる炎を見ていた。
呆然とする。
四方を炎に囲まれて、どこに逃げ道があるというのか。
全員が声を失った時、げほっと、まるで何かを吐き出すような音が聞こえた。
振り返ると咳き込みながら必死で呼吸をする切原君の姿。
慌てて駆け寄って、全員で声をかける。
涙を零しながら彼は喉を震わせて足りない酸素を貪る。
唾液が地に染みを落とした。
聞いている方が苦しくなるような咳と呼吸音を響かせながら、切原君は自分の喉に手を当てた。肩で息をしながら、それでも呟いた。
「息…、出来る…っス」
掠れたその声を聞き取り安堵する。
大きな溜息が洩れた。
よかった、と誰もが思った。
だがそれを口にすることはなかった。
何故なら今は炎の中。命の危機を脱したとは言い難い。
歯を食い縛る真田君や丸井君。
だが何故か私には焦燥がなかった。
炎に囲まれたこの状況に恐れは無かった。
「この炎、熱くないぜよ。」
仁王君の抑揚の乏しい声音に全員が振り向いた。
その言葉通り仁王君の指先は炎に飲まれているが、彼は表情を崩すことも無い。
引き戻された指先は熱に焼け爛れることも無く、元の様相を呈していた。
幸村君に目配せをすれば、深い頷きが返った。
仁王君も確信したかのように炎を見つめる。
「熱くないとは…、一体どういう、」
真田君の困惑した呟きを掻き消すように炎が音を立てて燃え上がり火の粉が降り注ぐ。
その火の粉さえ熱を持っていない。
驚いた様子で火の粉を手に載せる部員達を眺めていると、炎が龍を象り、吼えた。
一瞬にして消え去る龍の先。
音も無く降り立った懐かしい後姿がお面と対峙していた。
あの日鼻腔を刺激した香りと共に、
これ以上ない程頼もしい黒の影が言った。
「私の友人に触れるな。」
翻る黒の装束と黒髪。
鍛えられた白い右腕。
涼やかな銀の装飾の音に、私達はどれだけ安堵した事だろう。