心音が届きませんように



「あっ、おい」

慌てて制止する環の声も無視して部屋に上り込む。
真っ直ぐに、ベッドへ向かってうつ伏せ倒れこむと、柔らかい布団が私をぽすりと受け止めた。

「...ああもう...辛い」

手を伸ばして枕を引っ張ってくると、頭の上に乗せて耳を塞ぐ。
私の個性は、“超聴覚”。
集中して耳をすませば、枕で塞いでもベッドの横に立ち尽くす、環の心音が聞こえてしまう。
ドク、ドク、ドク。
辛い。なんて言う割には、心音はいつもとそんなに変わっていなくて、怒ってないんだということがわかる。

「今日は、どうした」

環は、優しい。
私が無理矢理、部屋に上がり込んでベッドを占領しても怒らない。
ベッドの足元、私の肩の近くが少し沈む。
いつもと変わらない。
ベッドに座った環が、そっと、枕を取り上げる。

「どうも、しない」
「何もないのに来たのか」

何もないわけじゃない。
小さなミスとか、上手くいかないこととか、自信がないとか、不安だとか、いろんなことが私の頭の中でぐるぐる渦を巻いて、私の思考を乗っ取ってしまう。

「...まぁ、いいけど」

環の、左手が私の頭を撫でる。
大きくて、温かい彼の手に安心して、私は横向けになって膝を抱える。
3年の夏休みが明けて、突然始まった私たちの寮生活。
私は、気持ちと頭がモヤモヤする度に、環の部屋を訪れてベッドを占領する。
最初は、本当に戸惑っていた環も、次第に慣れていって「またか」と受け入れてくれるようになった。

「環、羽根」

私の言葉に応えて、環は羽根を再現する。
ふわふわした、ニワトリの羽根に顔を埋める。

「やっぱ、羽毛布団も本物には敵わない」

少し、骨張った羽根は環の体温で程よく温かくて私を夢の世界へ誘う。



「...ん?」
「起きたか」

むくり、と起き上がると毛布がずり落ちる。
ベッドにもたれて、床に座っている環と一瞬だけ目が合う。

「起きてない」

私は、再び横になると毛布にくるまって耳をすませる。
環のため息が聞こえた。
廊下の方からは、クラスメイトの笑い声。
今は、何時だろう。
毛布から、少し顔を出して向かいの壁に掛けられた時計を見る。
日曜日、朝の8時。
やれやれ、10時間くらい眠ってしまっていたらしい。

「朝ごはんは」
「まだいい」

そのまま、眠るわけでもなく、微睡みに身と心を委ねていると時々、紙の擦れる音が聞こえる。
私のすぐそばに、環がいる。
毛布から手を伸ばして、環の頭を撫でる。
ドクドクドク...。
心音が跳ねて、鼓動が早くなる。

「...朝ごはんにしよう」

毛布が、剥ぎ取られる。
滅多に人と目を合わせない環の、目付きの悪い三白眼が、初めて真っ直ぐに私の瞳を捉える。
バク、バク、バク。
大きな心音が聞こえる。
私の個性が、超聴覚でなくても聞こえてしまいそうなくらい。

「おは、よ...」
「...おはよう」

私が、声を発すると、環は挨拶を返してまた目を反らせて背を向ける。
バクバクバクバク...。
心音がうるさい。
そんなに、集中して耳をすませてなどいないのに響く、耳障りな心音は、おさまるどころかどんどん早く、大きくなる。

「...ジュン?体調でも悪いのか?顔が、赤い」

バクバクバク。
身動きしない私を心配して、環が振り返って、声をかけてくれる。
バクバクバクバクバク。
ああ、そうか。

この心音は、環じゃなくて...、私だ。







(その瞳に食べられた)






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