夏が聞こえた
夏の声が、彼女を、呼ぶ。
「天喰くん、暑い」
エアコンの壊れた事務所で彼女は、開け放たれた窓の側に椅子を運んで下敷きでパタパタと自身を仰ぐ。
空を眺める彼女の頬から顎にかけて、伝わる汗が涙のように光る。
もう、夕方近くだというのに夏の日差しと暑さは緩むことなく降り注ぐ。
「業者、そろそろじゃないかな...」
ファットは見回りに行くと出て行って、俺と水無月さんは業者対応の為に留守番。
デスクで夏休みの宿題を片付ける俺と違って、7月中に宿題を片付けた水無月さんは暇そうにうなだれる。
昼過ぎには来ると言っていた業者から、この急な暑さで対応が多く遅れると連絡があったのはついさっき。
「終わったら、ファットちゃんに連絡して合流する」なんて意気込んでいた所為で、余計に気を落としているのだろう。
「天喰くん、暑い」
「夏、だからな」
水無月さんが、椅子に座ったまま足で床を蹴り、キャスターを転がして俺のデスク横に来る。
「天喰くん、暑い」
まるで、壊れたカセットテープのように彼女は同じ言葉を繰り返す。
「天喰くん、暑い。天喰くん。暑い、天喰くん」とボソボソ言い続ける水無月さんを、申し訳ないと思いつつ、無視して国語の課題と向き合う。
「天喰くん」
ノートに彼女の影が落ちる。
今度は何かと思って顔を上げると、水無月さんの顔が思ったよりも近くて心臓が飛び出すかと思った。
「ん...!?」
「ここ、違うんじゃないかな」
水無月さんの、細い指が俺の文字を指差す。
「お嬢さんも、Kのことが嫌いなんかじゃなかったと思う。多分、すき」
すき、彼女の言葉がじんじんと俺の心に響く。
「す、き?」
「そう。恋愛とかそんな感じかって言われるとわかんないけど、少なくとも嫌いでは無かったはず。嫌いなら、ふたりで一緒にいたりしないから」
それだけ言うと、水無月さんは立ち上がって、事務所の奥にあるキッチンへ向かう。
キッチンから、カランカランと氷の音がする。
水無月さんは、ミリオと仲がいい。
クラスメイトからもよく「相変わらずだな」と言われるほどに。
俺は、知らず知らずのうちに3人の関係と宿題の作品の関係を重ね合わせていたのかもしれない。
それくらいには、お嬢さんが嫌いな人とはふたりきりにならないと、Kを好きだったかもしれないと聞いて心臓がドクドクとうるさくなるのを感じた。
「天喰くんも、休憩しなよ」
水無月さんが持ってきたグラスには、キンキンに冷えた麦茶が注がれていて、コップを机に置くと氷がカランと鳴いた。
「ありがとう、いただきます」
シャーペンを置いて、汗をかいたコップを持つ。
火照った身体を、冷たい麦茶が冷やしていく。
水無月さんは、椅子をくるりと反転させると、背もたれを抱きかかえてまた「暑いねー」と言う。
「そういえば」
「なに?」
「今日、水族館でナイトショーがあるってファットが言ってた」
「ほんと!?」
彼女の疲れた瞳が晴れて、キラキラと輝く。
「エアコンの修理が終わったら行こうよ。ファットちゃんも、修理が終わったら好きにしていいって、おやすみくれたわけだし」
朝の「合流する!」と言った意気込みは何処へやら、もう気持ちは水族館の方へ行ってしまったようで椅子を回転させながら鼻歌を歌っている。
「ん?」
「今度はどうしたの」
「今、なんて言った?」
「ファットちゃん、おやすみくれたから?」
「その前」
「水族館行こう...?」
「俺も?」
「天喰くんも...。ダメ?」
ダメなはずがない。
でも、俺なんかと一緒でいいのだろうか?
本当は、仲のいいクラスメイトや、それこそミリオと一緒に行きたいんじゃないか。
確かに、今ここには俺しかいないが、それなら1人で行くなり見回り中のファットに連絡すればいいんじゃないか?
それとも、俺に気を使って...。
「天喰くん、今、ネガティブモードだ」
考え込みすぎて、俺は机に突っ伏していた。
「私は、水族館に天喰くんと行きたいの」
「だから、キリのいいとこまで終わらせてね、宿題」と言って水無月さんは空になったコップをキッチンへ持っていく。
俺の頭の中は、彼女のこととさっきの「嫌いな人とはふたりで一緒にいない」という言葉がぐるぐると駆け巡りいっぱいになる。
「すみませーん、エアコンの修理に来ました」
事務所のドアが開いて作業服の人が何人か現れる。
水無月さんは、待っていましたと言わんばかりに駆け出して、案内をする。
俺も手伝おうと立ち上がったところで、水無月さんがくるりとこちらを振り返った。
「対応は、私できるから天喰くんは宿題頑張れ!」
開けられたままの窓から、夏の暑い風が事務所ないに吹き込む。
グラスの中で、残された氷がまた、音を立てる。
夏の声が、彼女と俺を、呼ぶ。
(君と過ごす夏を思う)
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