幸運のオレンジ色



【千石(庭球)の姉設定】


―――それは、ほんの気まぐれで、ただの好奇心だった。


明日から新学期、この青葉で過ごす最後の1年が始まってしまうのかと思うとなんだかそわそわして、岩ちゃんから「あんまり遅くまで残ってんじゃねーぞ!」って言われてたのに気が付いたら、あたりはすっかり夕暮れで。お腹もすいちゃったしコンビニでも寄って帰ろうかなー。なんて着替えながら呟いて、誰もいない部室を後にした。

部室棟から正門に向かう途中、過去の学校生活では縁もゆかりもなく全く馴染のない美術室の明かりが点いていることに気が付き、好奇心にあっさり負けた俺は、さっきまで覚えていた空腹をすっかり忘れ、進路をくるりとそちらへ向ける。好奇心はネコをも殺す。なんていうけど、流石に学校の美術室でそんなことはないでしょ?

灯りが灯っている教室の引き戸をそーっと開けて中を覗く。荷物を置ける程度の机が手前に幾つか置かれ、椅子も邪魔にならないよう端に寄せられている。教室の奥に、俺の背丈よりも少し高い、広く大きなキャンバスが置かれている。そして、その前に座り込んで真っ白な壁を見上げる華奢な背中とオレンジの癖っ毛。バレーの試合中の、コートの中とはどこか違うピンと張りつめた空気に戸惑いつつも、ここで帰るのはなんか勿体ないと思って俺は音をたてないように、集中している彼女の邪魔にならないように、ドアを開けて中に入る。「おじゃましまーす」と声には出さず、心の中で呟いて。近くにあった椅子に座り壁にもたれ、愛用のエナメルバッグを足元に置く。少しすると、彼女は何かを決心したのか、横に置いてあった筆を手に取ってキャンバスに色を付け始める。ポニーテールのオレンジは、華奢な体が動くたびに大きく揺れる。彼女の「描く」という行為そのものがまるで芸術作品のようで、眺めているうちに俺の頭はその世界に引き込まれくらくらした。

「あれ?先生じゃなかった」

どれくらいの時間が経ったのかわからないけれど、一心不乱にキャンバスに色を付けていた彼女が筆を置き、振り返って言った言葉で、俺の意識が現実に引き戻される。

「あっ、ごめんね。勝手に見学しちゃって」
「えっと、私に用事、とか?」

てくてくと、こちらに向かってくる彼女の瞳に、戸惑いの色が浮かんで見える。ふざけて何か冗談でも言おうかと思ったけれど勝手に侵入して、覗いていたのは俺の方だ。ここは素直に謝っておこうと思いとどまる。

「ううん、ただの好奇心で見てた。ほんと、ごめんね」
「それならよかった。私、描いてるところ見られるの気にしないタイプだから、謝らないで」

俺が座っている椅子のふたつ隣に、鞄がひとつ置かれている。彼女は、その鞄の前まで行くとごそごそと中を漁り、水筒を取り出すと大事そうに抱え、俺の横の椅子にちょこんと座った。

「身体使って描くと、やっぱり疲れるんだよね」

ぐいっと水稲の中身を飲むと、またそれを鞄にしまう。

「えーっと、3年6組の及川さん。及川徹さん?」

くりっとした、翠の瞳が俺の目を覗き込む。首を傾げる動きと一緒にポニーテールが揺れる。じゃなくて。名前?俺、名前言ったっけ?

「なんで、クラスがわかるのか。クラス発表は明日だぞ!?って顔をしてるね。私、未来人だから明日のことくらいもう知ってるよ」

「いや、えっと」それも確かに言われたら気になるけど、そこじゃないんだよなー。なんて思いながら続ける。「名前、言ったっけ?」

「流石に、青葉城西に通っていてバレー部の及川さんを知らない人はいないでしょ」

この2年間で俺の知名度が結構上がっていることにびっくりしながらも、相手は自分のことを知っているのに自分は相手のことを知らない歯がゆさを覚える。何か、ヒントはないものか。けれども、慌てる俺の頭の中にはこのオレンジの癖っ毛ちゃんについて、何の情報も入っていなかった。そんなことをぐるぐると考える俺の横で彼女はいつの間にか鞄を膝に置いてまたごそごそとし始めた。必死になってヒントを探す俺は、彼女の鞄の中に入っている1冊のスケッチブックを見つけた。

「それ、スケッチブック?」
「そうですよ」
「見ても、いいかな?」

彼女はまた、一瞬だけその大きな瞳をきょとんとさせたが、すぐに笑顔になって「いいよ」と答え、俺に手渡してくれた。ぱら、ぱら、とページをめくると中身は驚くことに同じ少年のスケッチばかりで。何枚も、何枚も。黒の鉛筆で書かれた同じ顔が、全てのページに続いていた。多少の驚きはあったけれど、このスケッチブックが、彼を描くためのものであるのならば結果、こうなることはすごいことなんだろうな、と思う。流石、継続は力なり!なんて。そうじゃなくて、彼女についてのヒントを得るどころか、さらに謎が増えてしまって俺の頭はまたくらくらする。嗚呼もう、ここから何か、答えは導き出せないだろうか。

「どうかしました?」
「あっ、この人、テニス部?」
「そう、テニス部」

笑顔だったり、素顔だったり、アップだったリ、全身だったり。スケッチブックおよそ1冊分。その多くで、この少年はテニスラケットを握っていた。彼女の眼には、俺の知らないこの少年がこんな風に映っているのか。きっと、愛に形があるならこんな形なのかもしれない、と一瞬柄にもないことが頭に浮かぶ。同時に、彼女の綺麗な翠の瞳に俺の姿はどう映っているのだろうなんて思ってしまう。初めて会った子が、こんなに気になるなんて、及川徹らしくもない。

ぱらぱらとめくり、最後のページ。真っ白な紙の隅に描かれた小さな文字を見つけ、脳裏に焼き付ける。こんなところで、一本の蜘蛛の糸が見つかるなんて、俺ってなんてラッキーなんだろう!賭けの要素は、正直残っているけど、俺はこれに賭けようと思う。スケッチブックを閉じて、彼女に渡してお礼を言う。

「ありがとうね、千石ジュンちゃん」

彼女は、本日3回目のきょとんとした顔で首を傾げる。もしかして、外しちゃった?

「あれ、私、名前?」
「千の石で、千石ジュンちゃん。俺、この学校の女の子の名前は全員把握してるからね」

賭けに勝った、ほっとした気持ちを悟られないようにいつも通り軽くウインクすると美術室の硬い椅子から立ち上がる。床に置いたエナメルバッグを肩にかけると扉に向かう。明日から新学期だ。名前もわかった。彼女のことは、これから知っていけばいい。

「また、見にきてもいいかな」

彼女は、にっこりと笑う。

「是非、来てください」

彼女が懸命に色づけた、空色のキャンバスが遠くで綺麗に彼女の背景となって、また俺の頭はくらっとする。





(HQよく知る前に なんか似てるって話をしていた)





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