黒猫の記憶



「それは、海神さまかもしれないね」
「ワタ...ツミ?」

夕飯も終わり大人たちが酒で気分が良くなったところで、おれの子供の頃の話になった。
「なんで、海に行ったらいけないの?」その疑問にばあちゃんが答えてくれる。
まだ、幼稚園に入る前の頃、毎年恒例のこの集まりでこの家に来たものの、遊び相手もおもちゃもなくて暇になったおれは、勝手に家を飛び出して高波に攫われた事があるらしい。
おれが居ないことに気付いた家族が、おれを探し回って海岸に行ったところ、全身びしょ濡れになったおれが横たわっていたという。
おれにはその事が全く思い出せないが、家族が言うには、その日その夜のおれは眼が覚めると「波に連れていかれたけど、女の子が助けてくれた」とはっきり、そう言ったと。
それ以来、おれはひとりで海に行く事を禁じられた。

「海神さまはね、海の神さまなんだよ。きっと、溺れたことに気付いて助けてくれたんだね」
「ふぅん...。気付いてもらえてよかった」
「そうだね」




「海神、ねぇ...」

海で彼女に会った翌日、東京に帰ってベッドに潜り込んでから、小学生の頃にばあちゃんとした会話をふと思い出す。
神さまっていえば、ヨボヨボのじーさんを思い浮かべるし、女神だって言えばなんかヒラヒラした布をこれ見よがしに揺らす美人ってイメージがある。
でも、彼女はそんなものとは全く違って、何処にでもいそうな静かな女の子だった。

「でもなぁ」

突然消えるなんて...。と思っているうちに、俺はすっかり眠りに落ちていく。




あれから、あっという間に1年が経った。
彼女の事を、時々思い出しては引っかかっていた思いをスッキリさせる為に、この日を待っていた。
去年よりかは少し冷える砂浜に俺は、ビーチサンダルで近づく。
ズボンの裾も捲り上げた。
「海に行ってくる」と告げると「昔は禁止してたけど、いつの間にか解禁されてたのね」なんてばあちゃんに言われたが、俺にとっては溺れたことも禁止されたことも曖昧だったので何も返さずに家を出る。

「去年は、日が落ちる前だったよな」

真っ暗で何も見えない恐怖のようなものを抱えた海は、耳をすませると穏やかなもので飽きることもなく、ざざーんと寄せては引いていく。
どうやったら、彼女に会えるか。そんなことはわからなかったけれど、「来年も来る」と言ったからには来ないわけにもいかないし、何より暇だった。

見上げると、東京では見られない満天の星が広がっている。

「あれが、オリオン座」

不意に聞こえた声に驚いて振り返る。

「...ジュン?」
「うん?」

去年から、1年で自分がどれくらい変わったかはわからないが、ジュンは変わる事なく俺を見上げる。
なんと言っていいか分からず、言葉が出ないでいるとジュンは小さく首を傾げた。

「待った?」
「待っては、ないよ。探したけど」
「探した?」
「来年来る、って言ったから。まだかなって」

彼女は、くるりと海の方を見ると大きく伸びをする。

「ねぇ」
「なに?」

ジュンは、新月で月のない満天の星空を指差す。
何事かと指差す先を見る。
星が、降っている。
ひとつ、ふたつ、それよりも多く。

「流星群...」

流星群なんて、話題になった日に見上げたことはあったが、こんなに降るものなのか。

「惑星が、泣いているの」
「惑星が?」
「そう、わたしは思っている」

俺は、ジュンが海と星空に連れて行かれそうな気がして、彼女の右手を握った。
ジュンは、びくりと驚いたようだが、手を振りほどいたり逃げたりする様子はない。

「俺のこと、助けてくれたのはジュン?」
「助けた?」
「10年以上前なんだけど、ガキの頃に溺れたらしい」
「...覚えていない。でも、誰かを助けたことはある」




海が荒れていて、わたしにはどうしようもなくて。
ふよふよと、波に身を任せていると「助け...て」と声が聞こえた。
風と波の音で場所がわからなかったけど、嫌な予感がする場所へ向かう。
バシャバシャと、波に逆らおうともがく必死な男の子。
わたしは、彼をそっと抱きしめると砂浜へ向かう。
びしょ濡れになってしまった彼を、そっと寝かせて小さな手を握る。
彼は、うっすらと目を開けて小さな声で「ありがとう」と言った。
冷たくなった手をさらに、ぎゅうと強く握る。

「また、来るから、こんどは...あそぼうね...」

彼のはっきりとした意思なのか、うわごとなのかはわからないけれど、わたしは「うん、絶対だよ」と小さな約束を胸にしまって手を離す。
手のひらの体温も少し戻って、息が落ち着いてきた。
わたしには、ここまでしか出来ないから。
もどかしいが、海に帰る。




「わたしは、もう一度君に会う為にずっと探していたの」

あの日よりも随分と大きくなった手は、暖かくわたしを包み込む。

「ありがとう。んでもって、待たせてごめん」
「ううん、会えて良かった」



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