名も知らぬキミ



1日の仕事終わりに、通勤で使っているバス停近くのタバコ屋の前で一服するのが、私の日課。
今日ものんびりとタバコを燻らせて、バスを待つ。
いつも通り、バス停に着いてから10分後くらいに1台のバスが滑り込んできた。
夕方の降りる人よりも、乗る人の多い時間帯に出口が開いて、彼が降りてくる。
黒い髪に三白眼の彼は、今日も私の前を横切って、街の中へ消えてゆく。

私が彼について知っていることは、ふたつ。
ひとつは、私の出勤がある平日5日のうち、2日か3日ほどランダムでこの時間のバスに乗って、ここへ降りてくるということ。
もうひとつは、彼の個性。
個性を知っている、と言うには少し大袈裟で、実際には彼が目の前で転びそうになった子供を助けるために、自身の右腕をタコ足に変化させた場面を目撃しただけ。
あとは、知らないことばかり。

気になるかと言われれば気になるが、声をかけたり後をつけたりするようなものではない。
どちらかというと、ただ降りてくる日がランダムだから今日はいるのかいないのか、ただそれだけ。
とは言っても、降りてきたら挨拶をするだとか会話をするなんてこともなくただ、私が「ラッキー」と思うだけである。
お菓子に入っているレアな絵柄だとか、アイスの形がひとつだけ違うとか。
なんの得にもならないけれど、日常のちょっとした遊び心である。
急にいなくなったら、その運試しもできなくなってがっかりすると思う。

その日の私は、普段なら定時で帰宅するところ、先輩が急な要件で不在になってしまい、その対応に追われていつもの時間にバス停へ行くことが出来なかった。
時計を見ると、そろそろ彼の乗ってくるバスが到着する時間帯で「今日に限って乗ってたら勿体無いなぁ」なんて思いながら、私は残りの仕事量に溜息をつく。
結局、順に手の空いた人と手分けして、仕事の山がなくなったのは2時間後。
疲れた身体を早く布団に沈めたかったが、日課になってしまっているので、いつも通りバス停前のタバコ屋で火をつける。

「敵だ!」

1本目を吸い終わって、時刻表を見るとまだ私のバスが来るまでに少し時間があったので、新しいものを咥えて火をつけようとしたところで叫び声が聞こえた。
声のした方を見ると、逃げ出すために走り出す人々と、両腕を日本刀に変形させた男が右の角から現れる。
普段から、敵が現れた時の想定だとか、どのように動けば良いかなどの避難訓練はしていたというのに、いざとなると身体は動かない。
ちらりとこっちを見た敵が、動けないでいる私に気づいて近づいてくる。
逃げ出すには、どうしたら良いんだっけか。走るって?どこに?どうやって?私の足で走って逃げきれるのか?
私と敵の距離は50メートルほど。
あれ、人って50メートル走りきるのに何秒くらいかかるんだっけか...?

「あ、やばいな。私、ここで、死ぬのか」
「そうは、させない...っ!」
「え?」

私の、溢れた独り言を拾って、誰かが横を走り抜ける。
その後の事は、一瞬だった。
颯爽と私の横を走り抜けたヒーローは、その白いマントの下から右手を見覚えのあるタコ足に変形させて伸ばし、するりと敵の体を拘束した。
私が、何も出来ないままその光景に呆気にとられているうちに、パトカーのサイレンが近づいてきて警察や他のヒーローが集まって来る。
私の元にも、警察が来て怪我はないか、ここで何をしていたのか等の質問をされたが、いくつか答えているうちに現場は収束して私とバス停がぽつりと残るだけとなった。

翌日、ヒーローマニアの後輩に昨日の事件のこととこの辺で活動している白いマントのヒーローについて聞く。
「サンイーターっすね。面白い個性なんすよ。再現っていって、タコ足やらアサリの貝殻、鳥足とか色々なものの特徴が再現できて...」と、この後もしばらく後輩のマニアックな語りは続いたけれど、私にとっては助けてくれた彼がサンイーターという名で、直感ではあるがあのバス停で夕方に会う彼と同一人物であろうことが重要だったので残りは聞き流す。ごめん。でも、君の話は長すぎるんだ。

仕事が終わってバス停での一服中、普段ならぼーっと街並みや走っていく車を眺めているだけなのに、今日はぐるぐると頭を回転させている。
私を助けてくれたヒーローになんてお礼を言うかということ。
ヒーローとして活動している時ならば言いやすいが、バスから降りてきた私服の時に言うのは、本人かどうか確定していないし、確定していたとしても失礼だろう。
やはり、ここは通常に倣ってメールが1番か。
今時、宛先なんてヒーロー名で検索すれば出て来るだろうし、分からなくてもヒーローマニア君に聞けばいい。
「先日は、ありがとうございました。助けていただいた...なんて言えばいいんだろう?一般市民です?おかしいかな」なんて考えながらバスを待つ。
お礼の事を考えているうちにバスが滑り込んで来る。
私は、つい癖で顔を上げて彼の姿を探してしまう。

「あ」

今までであれば、私と目を合わすことなんてなかった彼と目が合う。
つい、数分前に「もし、あの人を見つけてもいつも通りでいくぞ」と意気込んだにも関わらず、目があったことでつい声が漏れてしまった。
それに気づいた彼が「昨日の...」と言う。
驚いたせいでさっきまで考えていた、お礼メールの内容も完全に吹き飛んだ。

その日から、私の日常の小さな遊びは彼を見つけることから、挨拶することへと変化した。
仕事終わりの私と、夜勤前のヒーローの小さば遊び。






(これから少しずつ知っていきたい)






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